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第二週
桜もすっかり散ってしまった四月の第二週の金曜日。
僕はご機嫌で訪問先の会社を出た。
腕時計を見ると、時刻は午前十一時四十五分。
いったん会社に戻る時間も惜しいので、昼食を食べてから帰ることにする。
東京に負けず劣らず、大阪も歩行者が多い。
人でごった返す道を必死で歩くこと二十分。やっと会社の近くの交差点に出る。
「えっと、今大通りに出たから、そこを左……と」
地図アプリで現在位置を確認して、目的の店に向かう。
店はすぐに見つかった。
緑の屋根に「純喫茶フライデー」の赤い文字。
僕は縦長のドアノブに手をかけて、ゆっくりと開ける。
チリンチリンとドアベルが鳴り、「いらっしゃいませー」の声。
「こんにちは」
「あ、えっと、小野町さん。こんにちは」
にっこりとほほ笑みながら応対してくれるのは立花さん。
「ああ、来た来た。おーい、みっちゃん!」
テーブル席からマダム・リサが手を振っている。
まだ二回目の来店だというのに、ここの人たちのアットホーム感に早くも順応してきた自分がいることに驚きを隠せない。
一週間前にホームシック気味になっていたことが嘘のようだ。
今日はもう一人、マダム・リサの向かいに座る人がいる。
「ほー、お前さんが小野町くんか」
しゃがれた声の男性だ。歳は五十代ぐらい。白い頭を短く刈り込んで、にこにこと笑っている。ふくよかな体つきと笑顔が合わさって、どこか恵比寿様を思わせる。
「話は聞いたで。転勤で大阪に来たんやってなあ。若いのに大したもんや」
「いえ、そんな。あの、あなたは」
「おおすまん。わしは福田鉄三や。そこの宮越フーズっちゅう会社で働いとったんやけど、歳やから引退せえて周りからせっつかれて今年から隠居ジジイデビューしたんや」
はっはっは、と豪快に笑う。
宮越フーズと言えば、大手食品会社だ。
主に有名なのは冷凍食品で、「大阪グルメシリーズ」は東京でも大人気の商品になっている。
「どうも、あの、小野町満です」
ぺこぺこと頭を下げる。
「みっちゃん、あれから会社はどうなん?」
マダム・リサが話しかけてきた。
「はい、だいぶ慣れてきました。相変わらず怒られてばかりですけれど」
「大阪のおっさんはキッツいからなあ。性分やと思うて気軽に流したらええねんで」
「そうそう、つい大声が出てしまうんは癖でなあ。堪忍したってくれ」
マダム・リサと福田さんがうんうんと頷いている。
「はは……」
そう言われても怖いものは怖いんですけれど。
そうこうしているうちに、立花さんがお冷とおしぼりをお盆に乗せてやってきた。
「小野町さん、どこに座られます?」
言われて、先ほどからずっと突っ立っていることを思い出した。
僕は慌ててカウンターの一番端に座った。
「なんや、こっちこればええのに」
マダム・リサが口をとがらせる。
「そこ、二人掛けじゃないですか。それに今から食事するのに」
「今から昼飯か。そんならここのイタリアンは一回は食べとき。絶対美味いで。ホンマ何回食べても損せえへん」
福田さんの猛プッシュで、がぜん興味が湧く。
「立花さん。イタリアンってどんな料理なんですか?」
「東でいうところの『ナポリタン』です。名前はちゃいますけど、作り方は同じなんです」
ナポリタン。なるほど。
「じゃあそれ一つ」
「はい。少々お待ちくださいね」
そう言って厨房に移動する立花さん。
注文を受けた時の笑顔とか、料理をしている時の真剣な眼差しとか。
彼女の何気ない表情に心惹かれてしまう。
これぞ、至極の癒し。
苦いことも酸っぱいことも、彼女の前では吹き飛んでしまう。
じゅうじゅうとフライパンが音をたてる。ケチャップの匂いが店内に広がる。
「ああ、これこれ、この匂い!」
福田さんがすうっと息を吸う。
「お洒落な店やと厨房が遠いから、こういう匂いはせんけれど、昔ながらのこういう店は出来上がるまでもこうやって楽しめるところがええ所やと思うんよ」
福田さんは感慨深そうに言った。
「せやねえ。だんだん店とお客の距離が離れていってるけど、このぐらい近い方がアタシは好みやわ」
マダム・リサも同意する。
「作っとる人の顔が見えて、手元が見えて。なんとなく安心するんよね。わしは昔は良かったなんて言うつもりはないけれど、やっぱり昔もええ所はあったよな」
福田さんのしみじみとした声に、どこか懐かしさのにおいを感じる。
そうして皿に盛られたイタリアンがお盆に乗って運ばれてきた。
「はい、お待ちどうさま」
カウンターテーブルに置きにくそうにしている立花さんから皿を直接受け取った。
「あっ、すみません」
「いえいえ。置きにくかったら前から出していただいても良いですよ」
「そんな……さすがに失礼です」
「僕は気にしませんから」
「……ありがとうございます。じゃあ、今度からはそうさせていただきますね」
立花さんはぺこりと頭を下げて「ごゆっくり」と言って下がっていった。
僕は料理に視線を移す。
見た目は結構なボリュームだ。ケチャップ、玉ねぎ、ウインナーの匂いが調和して食欲をそそってくる。
添えられたフォークを使って、麵を巻き付ける。
ぱくりと一口。
口の中に入れた途端に広がるトマトとお肉のジューシーな香りと旨味!
たっぷりと絡められたケチャップは、しかし酸っぱすぎずコクのある味わいだ。これでもかと振りかけられた粉チーズがさらにまろやかなコクを舌の上に乗せる。
時折感じるピーマンのほろ苦さと玉ねぎの甘さも絶妙なアクセント。
麺も少し柔らか目ながら食べやすい。かといってぐにゅぐにゅとしているわけではなく、絶妙だ。
こんなおいしいナポリタン、いやイタリアンは食べたことがない……!
僕は夢中でパクパクと平らげてしまう。
「ほんに美味そうに食べるなあ。見ているこっちが気持ちええ食べっぷりやわ」
福田さんが僕を見てそう言った。
「やろ? うっかり見てる方も食べたなってくるぐらいや」
マダム・リサもそんなことを言う。
「だって、美味しいんですよ。絶品ってこういうものをいうんですね」
僕が素直に感想を述べると、「そんな、絶品て……」と弱弱しい声が厨房から聞こえた。
「何恥ずかしがっとんの。ナルちゃんの腕は皆が認めるレベルやって、前から言うとるやん」
マダム・リサがスパッと言い切る。
「そ、そう言われても……」
立花さんは恥ずかしさが抜けないらしい。
「僕も、立花さんは素晴らしい才能をお持ちだと思います。東京でもこんなに美味いご飯は簡単には食べられません。自信持ってください」
思わず口をついて出た。美味い料理が僕に言わせているのかもしれない。
「でも、東京って美味しい食べ物屋さんはいっぱいあるんでしょう?」
「うーん、ピンキリって感じですよ。美味い所は美味いけど、そうでもないところも結構ある感じです」
立花さんの腕なら東京でもやっていけると思うんだけどな。
そんなことを言ったら今度こそ立花さんは気絶してしまうかもしれないので言わないけれど。
「立花さんのご飯は本当に美味しくて。できるなら毎日食べたいぐらい」
「まっ、毎日?!」
立花さんが真っ赤になってふらりとよろめいた。
「小野町くん、あかんで、こんな白昼堂々女の子口説いたら」
福田さんが呆れたように言った。
「……口説いたつもりはなかったんですけれど」
物の例えだ。……まあ、本当にこのクオリティーの食事が毎日だったら嬉しいのは嘘じゃないけれど。
でも、ああ。
頬を染めてきゅっと目を閉じている仕草は、男心にきゅんと来る。
可愛らしい反応だな、と年上の視点からは思ってしまうものなのだ。……いや、変な意味ではなく。
「やれやれ、先は長くなりそうやねえ」
マダム・リサの声が静かな店内に響いた。
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