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第三週
とうとう四月の最後の金曜日。
「よし……」
一番大きな案件が無事に終わり、ほっと息をついた。
昼からは顧客先をまわって、そのあと直帰する予定だ。
僕がぐっと伸びをした時。
「お疲れ様です」
誰かに声をかけられた。振り返ると野崎さんが立っている。
「あの、頼まれていた資料、出来上がりました」
「ありがとうございます」
早速受け取ってチェック。うん、問題なさそうだ。
資料から顔をあげると、そわそわと落ち着かない風の野崎さんが目に入った。
「どうかしましたか? 何か気になるところでも?」
僕が尋ねると、野崎さんがピクリと肩をはね上げた。
「い、いえ、資料の方じゃなくて」
何だろう。そんな歯切れの悪くなることがあるのだろうか。
「あの、小野町さん、今日はランチどうかなって」
「ああ、なるほど」
今日も「純喫茶フライデー」に行く予定にしている。そのことを告げようと口を開いた瞬間。
「実は私、お弁当作ってきたんです。良かったら食べていただきたくて」
「……は?」
開いた口からそのままそんな声が出た。
聞いてないんですけれど、そんなこと!
「そんな大したものは入っていないんですけど、その、小野町さんと一緒にお昼食べれたらなって……」
しどろもどろに話す野崎さん。
……僕に! NOの! 選択肢は?!
「い……良いですよ。ぜひご一緒させてください」
笑顔が引きつっていないだろうか。僕は何とかそれだけを絞り出す。
ひゅう、と誰かが口笛を吹く音が聞こえた。
ああ、僕の中で「純喫茶フライデー」が遠のいていく。
でも断れない僕は、結局彼女と昼食を共にしたのだった。
そんなこんなで五月の中旬になってしまった。
野崎さんは毎週律儀にお弁当を僕の分まで作ってくるようになっていた。
今日は第二週の金曜日。今日こそしっかりとお断りしなければ!
己を奮い立たせて、気合を入れる。
「小野町さん」
来た! 野崎さんだ。僕はくるりと振り向いた。
「ああ、野崎さん。何か?」
「あの、今日のお昼なんですけれど」
「あー、すみません。今日は外食の予定でして」
きょとんとする野崎さん。すぐにむうと頬を膨らませる。
「ダメですよ、外食ばっかりなんて。体に悪いし、お金もかかるじゃないですか」
多分、彼女は本当に、心から、善意で言ってくれたのだろう。
だけど、僕は無性にカチンときた。
僕はこの言葉に建前のような気配を感じたのだ。
確かに毎日外食だったら健康に支障が出るかもしれないし、お金だってかさむだろう。
だけど僕にとっては週一回の楽しみなのだ。この地獄のような職場から解放されて心休まるひと時だ。
そんな気持ちがむくむくと湧いてくる。
「申し訳ありませんが、今日はどうしても行かないといけないんです」
「お客様との昼食の予定はないですけれど」
まだ食い下がるか!
「個人的な約束がありまして。すみませんが失礼します」
言葉に若干のとげがあったことは許して欲しい。
僕は彼女に背を向けてデスクに座り直した。
「……お前ら、倦怠期の夫婦かよ」
誰かがそんなことを言ったけれど、完全無視。
まったく、プライバシーの尊重がなっていない。
僕は若干機嫌を悪くしながら仕事に戻ったのだった。
そんなわけで何とかお昼は「純喫茶フライデー」に来ることができた。
ドアベルを鳴らしながら入ると、マダム・リサと福田さんが談笑している。
「いらっしゃいませー」
立花さんの元気な声も健在だ。
帰ってきた。深くそう思う。
「あれ、みっちゃん」
マダム・リサが僕に気が付いたようだ。
「おお、小野町くん、久しぶりやん」
福田さんも片手をあげてこちらを振り返る。
「どうも、ご無沙汰してます」
僕は招かれるまま、二人のいるテーブルに近づいた。
「もう来おへんのかと思っとったやん。元気しとった?」
マダム・リサは気づかわし気に僕の顔を伺う。
「元気ですよ。ちょっと事情があって」
「仕事が立て込んだとか?」
どうしよう。言ってしまおうか。
「……実は」
散々迷った挙句にここ数週間の「金曜日お弁当事件」を話してしまった。
「はー、なるほど」
福田さんがパンと膝を叩いた。
「確かに外食は体に悪いて言うけれど、そんなこと言うたら手作り弁当の衛生問題どうするねん、ってことになるよなあ」
さすが福田さん、食品メーカーらしい返しだ。
「アホやなあ。お弁当やら外食がどうこうなんて建前に決まっとるやん。みっちゃんが外の女に鼻の下伸ばしとるんちゃうかと思っとんのやない?」
「ええ?!」
彼女でもないのにそこまで?!
「真偽はわからんけどね。ただその女の子は小野町くんを外に行かせたくない理由があるんやろうなあ」
福田さんが腕を組んだ。
「アタシはその子がみっちゃんの気を引きたくてお弁当を作ってきた、に一票入れるわ」
マダム・リサはけらけらとおかしそうに笑っている。
「勘弁してくださいよ……」
僕は野崎さんにそういう気持ちはないのだから。
「今日はお弁当をお断りしてきたんです?」
立花さんの一言に、うっと詰まった。
「お断りする、つもりだったんですけれど」
「けれど?」
マダム・リサに追及されて、降参のポーズをする。
「……同期が弁当持ってきて、『あの子、泣いてたで。食うだけでも食ったれや』と言い残されてしまって……」
「弁当を食べてきた、と」
福田さんの補完に図星である。
「ほんで、ここには休憩に来たん?」
「そんなところです。ここに来ないとどうにも落ち着かなくて……」
「そしたら、クリームソーダでも飲んだらどうや? 甘くて休憩にはもってこいやで」
クリームソーダ。メロン味のアレだな。
「そうします。すみません、立花さん」
「はい、聞こえてましたよ。クリームソーダでよかったですか?」
僕が肯定すると、立花さんは笑顔でぺこりとお辞儀した。
そのまま厨房へと入っていく彼女を見送る。
「ナルちゃんみたいな子が好みなん?」
突然マダム・リサにそんなことを言われて、ガタッと体が揺れた。
「いや、好みとかそういうのは置いといて、可愛いと思うだけで……」
何と言うか小動物とかを愛でている気持ちに近いかもしれない。猫とかハムスターとか。
「可愛いとは思てるやん」
「それとこれとは別じゃないですか?」
例えばアイドルを見て可愛いなと思いはしても、自分とどうこうなって欲しいとは思わない。そんな感じだ。
「はいはい、小野町さんをからかうのもほどほどにしたってくださいね、マダム・リサ」
話題を遮るように、立花さんがグラスを置いた。
僕はそれに目を奪われた。
宝石のようなきれいな黄緑色のジュース。アイスクリームの滑らかな白。それらが一体となって芸術作品のように美しい。サクランボの赤いアクセントもきいている。
「いただきます」
まずはスプーンでアイスクリームを一口。
滑らか、かつまろやか。舌の上で甘くじゅわりと溶けていく感覚がたまらない。
続いてジュースを少し飲む。
爽やかな炭酸がとろりと甘い感覚と一緒に喉を爽快に駆けていく。たまらないのど越しだ。ほんのりとメロンっぽい匂いがするのも駄菓子を口にしているような感覚にしてくれる。
僕の子供心を満たしてくれる、最高の一品だ。
「ええ顔して飲むねえ」
福田さんが言った。
「この炭酸のシュワシュワっとしたのど越しなんだけど、甘いからすごく飲みやすいのがええよね。偽物感たっぷりのメロンの風味もな」
福田さんの言葉には首肯するしかない。
こんなの、子供が好きになるに決まっている味だ。
そんなことを考えて、ふと近くに人の気配を感じた。
振り返ると立花さんが立っている。
「どうかしましたか?」
「いや、その……」
もごもごと口ごもる。
「あの……やっぱりいいです」
「ナルちゃん、言いたいことは言わんとあかんで」
マダム・リサに鋭く言われて、少しもたついたけど意を決したらしく、立花さんはしっかりと僕を見据えていった。
「小野町さんって、奥さんとか、いらっしゃいますか……?」
最後は尻すぼみになってしまったけれど。
じゃなくって、ええ?!
「いません、いませんよ!」
僕は頭も手もぶんぶんと横に振る。
「どうしたん、急に」
福田さんが不思議そうに言った。
「や、だって、小野町さん、かっこいいし、そういう人がいたりするんやろうかって」
何だそれは。さっき僕が立花さんのことを可愛いと言った意趣返しか?
「……いないですよ」
自分で言ってて悲しくなってきた。もう二十五にもなって恋愛経験ゼロだなんて恥ずかしすぎる。
「そう、ですか」
そう言った立花さんの顔が一瞬花のようにほころんだ、と感じたのは気のせいか。
「ええねえ。いくつになっても恋っちゅうもんは」
「こっ……! ち、ちゃいます! も、もう、マダム・リサったら!」
見目麗しい女性二人が仲良くじゃれているのは目の保養だ。
「はっは。よおもてるなあ、小野町くん!」
僕はその間ずっと福田さんに背中をバシバシと叩かれていたのであった。
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