第四週

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第四週

風が春から夏へと気配を変えつつある。 そんな五月最後の金曜日。 キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴って昼食の時間を伝える。 さて、今日は何を食べようか。 「純喫茶フライデー」のランチを試してみるのも手か、それとも一品料理制覇を目指すか。 悩ましい。どちらにせよ、確実に美味しいに決まっているのだから。 鼻歌交じりに荷物をまとめていると、ふいに誰かの気配を感じた。 「おい」 後ろから呼ばれ、その声に恐れおののきながらも振り向いた。 立っていたのはまさに想像した通り、高枝部長その人だった。 「ぶ、部長……!」 また何か失敗したのか、自分は。 僕は椅子を倒すくらい勢いよく立ち上がった。 部長の怒声が飛んでくるかと思われた。が。 「小野町。今日はどこで飯食うつもりや」 「は……?」 出てきたのはそんな言葉で、思わず呆けてしまった。 「ええと、行きつけの喫茶店に行くつもりですが」 「俺も行ってええか。ちょっと話がある」 ひい、今じゃダメですか? 断れるはずもなく、僕は部長を「純喫茶フライデー」へ案内することになった。 そんなわけで、僕と部長は店のテーブル席で向かい合っている。 気まずい。怒るなら早い所やってしまってくれ。 何度唾を飲みこんだか知れない。 こんな時に限ってマダム・リサも福田さんも不在だった。 「小野町は――」 やっと部長が口を開いた。 「こういう店は好みか?」 「え?」 予想外の質問に素っ頓狂な声が出た。 「見るからに若者向けの店やないやろう。古くて、ザ・昭和ちゅう雰囲気で」 そうか、僕が最初に感じた異質感は時代のズレによるものだったのか。 「僕は……落ち着きますよ。おしゃれで気取ったお店より」 「そうか」 部長はきょろりと周りを見渡して言った。 「俺が若い頃は喫茶店言うたらどこもこんな感じやったなあ。今みたいに長ったらしい名前の料理なんかなくて、ちょっとした洋食とコーヒーを食いに行くところっちゅう認識やった」 「へえ」 古き良き喫茶店。いいじゃないか。 「そんでな、何でこの店は『純喫茶』っちゅう名前かわかるか?」 「え、ええと……」 そんなこと全然深く考えたことはなかったけれど。 「喫茶店はな、昔々、大正時代に流行ったんやけど、女の子が給仕をしたもんで今でいうキャバクラみたいになってしもてん。そうやなくて、『この店は純粋に飲み食いする店ですよ』ちゅう意味で『純』をつけて『純喫茶』なんや」 「はー! なるほど!」 僕は膝を打った。 「ようご存じですねえ」 立花さんが声をかけてきた。 「俺も昔、喫茶店に世話になっとってん。そこのママに教えてもろたんよ」 「部長も知らないことがあったんですね」 「お前は俺をなんやと思うとるんや」 「ひえ、すみません……!」 僕が反射的に謝ると、部長は苦笑した。 「どんな偉そうなジジババもふたを開ければ知らんことだらけや。俺はこんな歳になってようやくそれがわかったもんよ」 「はあ……」 どういうことだろう。 「お待たせしましたー。ミートソーススパゲティです」 立花さんが僕と部長の前にコトリと皿を置いた。 出来立てのそれは、まだほこほこと湯気を立てている。 僕と部長は手を合わせて、ソースと麵を混ぜて口に入れた。 「んうー!」 思わず声が出る。 麺はいつもの柔らかめの絶妙な茹で加減で、口の中でぷつぷつと切れる食感が良い。 そして特筆すべきは何と言ってもこのミートソース……! お肉はひき肉だというのに、口に入れた途端に溢れるジューシーさが容赦なく広がる。 ほんのりとトマトの酸味と飴色の玉ねぎの甘さも絶妙なマッチ。 パラパラと散らされたパセリも色合い・風味両方の立役者だ。 美味い。それしか出てこない。 舌鼓を打ちながら、僕はふと部長の手が止まっていることに気が付いた。 「……部長?」 もしかして、口に合わなかったのだろうか。 部長はかすかにふるえている。 ――ぱた、ぱた、と涙をこぼしながら。 「どうしたんですか、部長?! お加減がすぐれないのですか?」 僕の声に驚いたらしい立花さんも慌てた足で近づいてきた。 「いや、なんでもない」 部長は震える手で太い黒縁の眼鏡を外した。そして、おしぼりで涙を拭く。 「そう、この味、この食感……」 「このスパゲッティですか?」 「昔はな、アルデンテなんて洒落たことはせえへんかった。麺は芯がなくなるまで柔らかくゆでてふにゃふにゃ、そこに濃い味付けの肉だくのミートソースが乗って、それが何よりのごちそうやったんや……」 懐かしい、懐かしいなあ、と繰り返し呟いて涙をこぼす部長は、普段の姿からはとてもじゃないけど考えられなかった。 「ウチのスパゲッティは祖父がこの店を開店してから作り方が変わっとらへんので、それでかもしれませんね」 立花さんが言った。 「若い頃は腹が減ると家の近くの喫茶店に駆け込んで。頼むのは決まってミートソースのスパゲッティや。上司にどやされては悔し涙を流しながら食ったもんやで」 「ええ?!」 僕は仰天した。 思い出されるのはいつもバリバリ仕事をこなす姿だ。 「俺かて、最初っから仕事が順調やったら世話ないわ。やで、お前をみとると、何や、若い頃の自分が重なってしもてなあ」 部長は少し俯いて僕から視線を外すと、とつとつと語る。 「お前にとっては転属からの転勤で、挙句の果てにガミガミジジイに当たってもうたと思うとるかもしれんけど、俺はお前のガッツを見込んでんねん。怒鳴ることを許せっちゅうことやないで。俺はお前にキラッと光るもんを見出してるんや。それだけ知っといて欲しい」 それだけ言うと、部長はバクバクとスパゲッティをかきこむ。 「部長……」 初めての環境と慣れない仕事で失敗ばかりの僕を、東京者と嘲笑われる僕を、彼は見ていてくれたのか。 不覚にもうるっとしてしまった。 「俺もそろそろガミガミジジイは卒業せんと、と思うんよ」 部長がおしぼりで口を拭いた。 「このミートソースが、若い頃の俺を思い出させてくれたからかもしれん。ふんぞり返った上司にくそったれ、と思うとった自分を……」 それを見ていた立花さんがポツリと言った。 「自分を変えなあかん、と思える人は何より偉い人ですに。立派な部長さんやわ」 「褒めても何も出えへんで、お姉ちゃん」 そうして部長は手を合わせて呟くように言った。 「ごちそうさん」 「今日さ、部長、何かいいことあったんかな」 「ああ、何でか知らんけど、やけに機嫌ええよな?」 そんな密やかな声が聞こえる。 僕は口だけでにんまりと笑うと資料を手に持ち、早速グラフに目を移した。
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