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第六週
初夏の何とも言えない香りが鼻をくすぐる七月第二週の木曜日。
僕は久しぶりに有休をとって、大阪の繁華街を歩く。
道頓堀のあたりをふらふらして店を冷やかしつつ、なんばグランド花月で観劇。
これぞ、ザ・大阪の休日。
さて、豚まんでも買って帰るか、と劇場を一歩出た時だった。
「ん?」
前方から見覚えのある顔が歩いてくる。
「立花さん?」
思わず声をかけていた。
驚いた顔の立花さんがこちらを振り向く。
「小野町さん。奇遇ですね、こんなところで会うなんて」
嬉しそうな笑顔で手を振りながらちょこちょことこちらに駆け寄ってきた。
うーん、可愛い。
比べるのは失礼だと分かっていても、野崎さんと立花さんの大阪イントネーションには歴然とした違いがあるように思われる。
前者は雀、後者は鶯、と言ったところか。
「本当に。立花さんも遊びにいらっしゃったのですか?」
「そうなんです。たまにはこういうところに来て刺激を受けたほうがええかなって。小野町さんは観光ですか?」
「そんなところです。久々に休みがとれたので」
改めて、立花さんを観察する。
薄桃色の半袖ブラウスに白の短パン。生足がまぶしい。
僕なんてパーカー・ジーンズ・スニーカーとだらしないの象徴だ。もうちょっとおしゃれしてこれば良かった、なんて。
「どうかしました?」
「いえ、何でもないです」
と言ってから、ここが往来のど真ん中だと思いだす。
「立ち話もなんですし、良かったらお茶でもどうですか?」
「えっ!?」
立花さんは一瞬戸惑ったようだけど、すぐにこくりと頷いた。
そんなわけで、近くのチェーン店の喫茶店に入る。
僕は迷わずアイスコーヒー。立花さんは洋ナシのタルトとチーズケーキ、それとカフェラテ。
「んー、美味しい!」
もっきゅもっきゅとケーキをほおばる立花さんは、きっとハムスターに似ている。
「食べるの、お好きですか?」
僕はコーヒーを飲みながら、何気なく聞いてみた。
「……すみません、お見苦しい所を」
「いえいえ、たくさん食べる方って、僕は好きですよ」
女の子がちょびっとしか食べないと「え? それで足りるの?」と心配になってしまう質ゆえに、しっかり食べる人って魅力的に見えてしまう。
「そ、そうですか……」
立花さんは薄く頬を染めながら視線を外に向けた。
ふと、これはチャンスなのではと思った。
普段なかなか聞けない「純喫茶フライデー」のことを聞くいい機会だと。
「あの」
「は、はいっ!」
立花さんはびくりと肩を揺らした。そんなに驚かなくても。
「立花さんはいつからあの店にいらっしゃるんですか?」
「えっと、去年の秋からです」
「お一人で経営されてるんですか?」
「いえ、普段は両親がやってます。……けど、金曜日だけはどうしても店に出られなくなって、代わりに私が」
「旦那さんとかはいらっしゃるんですか?」
「だっ……い、いません! 独身です!」
顔を真っ赤にして全否定する立花さん。
その後もにゃもにゃと何事か呟いたように見えた。
「何か言いました?」
「べ、別に何も言うてません」
ツン、とそっぽを向かれてしまった。
そうか、まだ結婚していないんだ。その事実に何だかほっとした。
――ん? 何でほっとしたんだ?
「小野町さんこそ、ええ人おらんのですか?」
「いたら良かったんですけど、あいにく。目下の悩みです」
「……ふうん。そうですか」
なぜか嬉しそうな顔をしているのは何だろう。自分は好きな人がいるとかか?
「立花さんは悩みとかありますか? 僕で良ければ聞きますよ」
「そうですねえ……」
彼女は少し首を傾げて考えた後、あ、と声を漏らした。
「お店のメニューを増やそうと思うて、いろいろ考えているんですけど、いいアイデアが浮かばんくって」
「お店の新メニューですか」
「ウチは気取ったメニューは出さん、って父がいうもんで、私の案は悉く却下ばかりで。それが悩みと言えば悩みですね。スコーンとかケーキとか、いろいろレシピを見せてみたんですけれど。何見ても頭ごなしにあかんあかんって、そればっかりで、昨日はとうとう喧嘩になってしもて……」
「うーん……」
気取っていなくて、店の雰囲気を壊さず、かつ美味しい。
「あ」
「え?」
良いことを思いついてしまった。
「立花さん、お店の厨房、お借りできますか?」
そしてカフェを出た後、僕たちは電車に飛び乗りいつものオフィス街へ。
途中で通りがかったスーパーで必要なものを一通りそろえて、今は店に向かう途中。
「小野町さん、いろいろお菓子の材料を買ってましたけど、何を作るんです?」
「それは見てみてからのお楽しみです」
上機嫌な僕の横を、立花さんが不思議そうな顔でついてくる。
そうこうしているうちに店に着いた。
「閉店」の看板がかかっているけれど、店には電気がついている。
「あれ、誰かいるんかな」
立花さんがそろそろとドアを開ける。
「あ、成海」
中にいたのは年配の女性だった。ふわふわのパーマヘアで、恰幅のいい体にお店のロゴが入ったエプロンを身につけている。
「もう、心配したんやで! 起きてくるなり『お父さんが飛び上がるくらいすごいアイデアを出すまで帰らへん!』って飛び出していったときはどうしようかと思うたわ」
そんな啖呵切って家出していたのか。
かああ、と見る間に立花さんの顔が赤くなる。まさか僕の前で暴露されるとは思っていなかったのだろう。
「あれ、そちらのお兄さんは?」
立花さんのお母様が僕を見た。
「初めまして。小野町と申します、立花さんのファンです」
こういう時の度胸は営業職になってからだいぶ鍛えられたと思う。
「ふぁ……!?」
真っ赤になったまま立花さんがあっけにとられている。
「あらまあ、どうもどうも。成海の母です。成海、いつの間にええ人捕まえとったん?」
「そ、そんなんやない!」
すごい剣幕で否定してるけれど、そんな真っ赤なままじゃ誤解は解けないだろう。
「すみません、お台所をお借りしに立ち寄らせていただいたのですが」
とりあえず、話を進めなくては。
「気にせず入ってください! お母さん、余計なこと言わんとって!」
なおもワイワイと親子で騒ぐ二人を横目に、厨房にお邪魔する。
「よし」
料理は人並みぐらいの腕はあると自負している。大丈夫だと言い聞かせ、準備を始める。
まず、きな粉と砂糖を混ぜてバットに敷く。
次に深めのフライパンに三分の一ほど油を注いで火にかけ、温まったところでコッペパンを投入。
両面がこんがりするまで揚げたら、熱いうちにきな粉をまぶし、食べやすい大きさに切って皿に盛る。
「はい、揚げパンの完成です」
揚げたてのパンからは油の甘い香りときな粉の香ばしい匂いがする。
「あらぁ、美味しそう!」
お母様が真っ先に反応する。
「どうぞ、味見してください」
皿をずいっと差し出すと、二人が手を伸ばした。
「ん……!」
立花さんが目をまんまるに開いた。
「外からじゅわあ……と油の甘さがきて、同時にきな粉がふんわり優しい甘さで……外がカリッとして中はふわっと良い揚げ具合や……!」
「昔、揚げパンが好物だった僕のために祖母がよく作ってくれたのを見よう見まねで作ってみました」
言いつつ、新しく揚げたパンをキッチンペーパーを敷いた皿の上に置く。
「?」
首を傾げる二人の前で、僕はスーパーの袋から抹茶と黒糖を取り出す。
パンも二本あるので、それぞれにたっぷり振りかけて、抹茶味の揚げパンと黒糖味の揚げパンが出来上がった。
「へえ、面白いなあ!」
お母様が感心しきり、と言ったように覗き込んでくる。
「味を変えて単品で売り出しても良いですし、他に黒蜜やはちみつなんかをかけても面白いと思います」
「この抹茶のほろ苦さがよう合うねえ! お母ちゃん、これ好きやわ」
「黒糖もしっかりした味がシンプルな味のパンを引き立てとる……」
二人はどんどん食べ進める。
最後の一切れにお母様が手を伸ばした時。
どたばた、と背後で音がして、ガチャリと店の奥のドアが開いた。
「成海……!」
突然登場した人物に、全員が視線を向ける。
「あ……お父さん」
立花さんがぼそりと言った。
オールバックヘアで、よれたシャツとズボンを着こんでいる。どうやら今まで寝ていたらしい。
喧嘩中で気まずいのか、お互いにそれから一言も発さない。
「あー、昨日は俺が悪かった。堪忍してや、成海」
「……もうええよ。新商品も見つかったし」
「は? 新商品?」
ぽかんとするお父様に、お母様が最後の揚げパンの一切れを差し出す。
「なんやこれ。え、揚げパン?」
お父様が自然な所作でそれを口に放り込んだ。
「おっ、美味いやんか。成海が作ったんか?」
「私やなくて……」
女性二人が僕を見やる。
――今それは、まずい気がする。
それが証拠に、お父様の目がぎらぎらと滾っている。まずい、やばい。
「おう、兄ちゃん……どこのもんや?」
ひい、やっぱり!
「あ、その、どうも、小野町と申します……」
尻すぼみになりながら何とか名前だけは名乗れた。
「成海のファンやて。もう、この子も隅におけんわあ」
お母様ー! 今それはー! 超絶火に油―!
「なんやて……?」
ゴゴゴゴ、と音が聞こえそうだ。迫りくるお父様がめちゃくちゃ怖い……!
「うちの娘口説こうたあ、百億年早いわあああ!!」
パーン、と小気味いい音が僕の顔のあたりからした。
「きゃああ! 小野町さぁん!」
どっと倒れた僕に立花さんが駆け寄る。
「お父ちゃん、ウチの恩人になんてことを!」
「やかましい! 成海はまだ、嫁になんて行かさへんでえぇぇ!」
お父様の絶叫が遠くに聞こえる。
涙を浮かべた立花さんに見守られながら、僕は激痛で意識を失った。
翌日の昼。
「はーっはっはっは。そないなことがあったんか!」
新商品の知らせを受けてやってきた福田さんとマダム・リサが大笑いしている。
僕はむすりと頬杖をついて二人と一緒にテーブルを囲んでいた。
僕の頬にはしっかりと昨日の平手打ちの痣が残っている。
「二人とも、もっと僕に同情してくれたって良くないですか? めちゃくちゃ痛かったんですけど」
「ええ人生経験になったやないの。今どきそうそうないで、彼女の父親に殴られるなんて」
「彼女じゃありませんけど」
マダム・リサの言葉はしっかりと訂正しておく。
「それで、お父様はどうなったん? ナルちゃん」
「次やったら親子の縁切るでって、キッツく言っておきましたから」
にこりと笑ってそういう立花さんから凄みを感じる。
「『お父さんなんて大嫌い!』攻撃はよう効くでなあ。特に娘からのそれは大ダメージやで」
福田さんが同情するように言った。
「そんなもんですかね……」
僕はもう笑うしかない。
「ご両親は今どうしてるん?」
マダム・リサが切り込んだ。
「あ、今日は通院の日やで、病院に行ってます」
「え?!」
僕は驚いてガタリと立ち上がった。
「あ、大したもんやないです。軽い持病の検診が毎週金曜日にあって。ただ病院が混んどって時間がかかるんで、私が店をやってるんです」
はー、なるほど。
僕は揚げパンをつまみながらコーヒーを飲む。
「それにしてもこの揚げパン、めっちゃ美味しいやん。コーラと一緒に食べると罪の味がするで」
マダム・リサが言った。
「味も豊富でシンプルながら飽きがこない。いや、よう考えたわ、小野町くん」
「あ、それで思ったんですけど」
僕は挙手して立花さんを呼ぶ。
「これ、パックを用意したらお持ち帰り商品にできますよ」
「!!」
立花さんが何かに気づいたような顔をした。
「立花さん、お父様に提案した食べ物ってスコーンとかケーキでしたよね? それを思い返すとお持ち帰りもできるラインナップだなって思ったんですけれど」
「……そこまで考えてはったんですね」
頬をほんのり染めて、立花さんが言った。
「ちょっと、相談してみます。まあ、母はええって言うやろうけど」
「楽しみにしています」
と言ったところで、そろそろ会社に戻る時間だ。
お会計を済ませて、財布を鞄にしまった時。
「あのっ!」
立花さんが声を上げた。
「?」
ぎゅう、と何かを思いつめたような表情の立花さんに、疑問符が浮かぶ。
「あの、昨日はすみません、それとありがとうございました!」
「ああ、いえ、そんな」
「それで、えっと、今度一緒に映画でも見に行きませんか?!」
それでもまっすぐに僕の目を見て、彼女は言った。
「責任とか、感じなくて良いんですよ?」
「せ、責任とかやなくって! 私が小野町さんと遊びに行きたいなって……!」
ああ、もう。
そんなに切ない目でお願いされたら、断れるわけないじゃないか。
「いつが良いですか?」
「え?」
「立花さんの都合のいい日。平日でも休日でも。好きな日を教えてください。空けておきます」
「……! じゃあ、来週の日曜日! 十時にこの店の前で!」
満面の笑み。女の子が一番輝く瞬間。
「はい、ではそのように」
僕は予定をしっかりと頭に刻んで、ドアノブを握った。
「ごちそうさまでした」
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