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第一週
「小野町ィ! お前、これで何度目や!」
一週間の終わり、金曜日。
高枝部長の鋭い怒声があたりに響く。
「す、すみません部長……」
「すみませんで済むか! 営業職で大口案件をパアにする奴がどこにおるねん!」
びりびりと空気を振動させる部長の雷が僕に落ちるのも、今週三度目。
東京生まれ、東京育ちの僕が転勤で大阪支社にやってきて、もう一週間が経とうとしている。
東京の本社は静かなオフィスだった。みんな自分の仕事に没頭できたし、誰もちょっかいをかけてこなかった。
しかし大阪はどうだ。
絶えず誰かの雑談が聞こえ、ファックスと電話の呼び出し音がひっきりなしに鳴り響き、おっさん連中の声はうるさい。
正直言って、帰りたい。
これが騒音公害でなくて何だというのだ。
何なら「これだから東京もんは」とマウントを取ってくる輩もクソウザい。
「はあ……」
デスクに戻ってため息。
――この嵐のような職場で今後やっていくのか。
僕は不安に押しつぶされながらも、キーボードに手を伸ばした。
キーンコーンカーンコーン、と学校で聞いたそれと全く同じメロディーが流れる。
「っしゃあ! 昼だ!」
男たちが一目散に席を立って出入り口に向かって駆けて行く。
仕事を切り上げて、皆食堂へ向かうようだ。
「小野町さん、良かったらお昼、ご一緒しませんか?」
キーボードから手を離した僕に話しかけてきたのは、同じく営業課の野崎真菜さんだった。
くりっとした大きな瞳に、年齢よりも一段幼く見える顔。嬉しそうな笑みを浮かべている。
誘いに乗ってあげようか、と僕は一瞬思ったが、すぐに一人になりたい気持ちが勝ってしまった。
「ごめん、また今度ね」
そう言ってジャケットをさっと羽織ると、部屋を出た。
その後ろでリスのように頬を膨らませた野崎さんがいたことには気が付かないで。
会社を出て、オフィス街を歩く。
東京と違って、大阪は賑やかな所だ。
すれちがう人たちは皆笑顔で活気がある。
往来で小突きあいをしている人たちも日常風景の一つだ。
近くの商店街からは景気のいい大阪弁が飛んでくる。
――何もかもが煩わしい。
静かだった東京に帰りたいと、近頃はそんなことばかり考えている。
僕は若干ホームシック気味らしい。
生まれてから二十五年、東京からほとんど出たことのない僕にとって、なにわの地はまさに異国だった。
これから先、やっていけるのだろうか。
先のことを思うと、ズンと胃が重くなる。
――とりあえず、メシ。
色んな重苦しいことは後にして、まずは昼食を探そう。
このあたりの地理にはまだそんなに詳しくないので、適当に大通りをぶらつく。
ふと、目の前をどこからかとんできた桜の花びらが横切った。
僕は思わず足を止めた。
――視線の先には、古びたカフェがあった。
見上げると、緑の屋根に「純喫茶フライデー」とポップな赤い文字が躍っている。
僕は誘われるように扉に手をかけていた。
ごくりと唾を飲んで、思い切って開ける。
「いらっしゃいませー」
女性の声が聞こえた。
中に入ると、お世辞にも広いとは言えない店内に、テーブルが三つとカウンター席が五つ。
低い天井からはステンドグラス模様の笠をかぶった電球が釣り下がり、僕の知っているカフェとは何だか異質なものを感じる。
屋内には僕の他に店員の女性が一人と、テーブル席にレトロなワンピース姿の女性客が一人。外の空気とはまるで違う、静かな感じだ。
「お一人様ですか?」
店員の女性が声をかけてきた。
素朴な外見だ。愛嬌のある顔に、艶ぼくろ。髪を一からげにしてバレッタでとめている。大阪弁独特のイントネーションでしゃべった。
「あ、はい」
「では、お好きなお席へどうぞ」
どこに座ろうか、迷って結局カウンターの一番奥の席に腰かけた。
すぐ後に、店員の女性がおしぼりとお冷を持ってくる。
カウンターは少し高いので、小柄な彼女は「よいしょ」と背伸びして置いた。
「ご注文お決まりになりましたら、お呼びください」
そう言うと彼女はお盆を片手にぺこりとお辞儀をしてカウンターの中に戻っていった。
僕は使い古されてページがよれよれになっているメニューを開いた。
最初のページに、モーニングとランチメニュー。ランチはカツサンドとサラダのセットらしい。
あまりがっつりと食べられそうにもないので、他のメニューを見る。
目に留まったのは、「玉子サンドイッチ」だった。
「すみません、玉子サンドイッチとホットコーヒー一つづつ」
「はーい」
彼女は洗い物から手を離し、厨房に入った。
僕が何気なく周囲を見渡していた、その時。
「なあ、お兄さん。ここら辺の人とちゃうね」
突然真横から声をかけられて飛び上がった。
気が付けば、テーブル席にいた女性が僕の横に座っていたのだ。
「そんに驚かんでもええやん。アタシ、怪しいもんとちゃうし」
いや、どう見ても怪しいですけど!
女性は三十代前後だろうか。しっかりと化粧の施された顔は、しかしけばけばしくなくむしろ色っぽささえ感じる。
「あの……」
「マダム・リサって呼んでくれてええよ。みんなそう呼ぶし」
どんなニックネームだ。パンチ効きすぎだろ。
「お兄さん、関東の人やろ? 出張?」
「え、あ、いや、転勤で……」
「ふうん。若いのに大変やね」
女性は元の席から持ってきたジュースを一口飲んだ。その仕草さえドキリとくるものがある。
「マダム・リサ、あかんで、人のことを根掘り葉掘り聞くなんて」
店員の女性が苦笑して言った。
「せやかて、珍しいやん。この店に新しい顔が入ってくるて」
そんなに流行っていないのか、この店。
「すみません、マダム・リサは悪い人やないんやけど、お喋り好きで」
心底申し訳なさそうに店員の女性が言った。
「ああ、いえ、構いませんよ」
とっさにそう答えていた。
「ほんにすみません……。こちら玉子サンドイッチとコーヒーになります」
コトリと音をたてて皿とカップが僕の前に並ぶ。
皿の上には掌の半分くらいの大きさのサンドイッチが六切れ。カップには香ばしいコーヒーがなみなみと入っている。
「ごゆっくり」
彼女はまたカウンターの中に戻っていった。
そして、サンドイッチを改めて見て、違和感に気づく。
「あれ?」
玉子がぐちゃぐちゃじゃない。完全に玉子焼きの状態でパンに挟まっている。
「お兄さん、もしかしてこっちの玉子サンドイッチは初めて?」
マダム・リサが問いかけてきた。
「関西では玉子サンドイッチ言うたら、パンに厚焼き玉子をはさむのがメジャーやね」
「へえ……!」
面白いことを知った。
早速一口ほおばる。
「あつ、あふっ!」
玉子があっつあつのふわっふわ……!
砂糖が入っているのか、ほんのりと甘くて、これだけで十分食べられる。
僕は目を見張った。
正直、流行っていないのかと思った時はこの店の料理の味に問題があるのかと思ったけど、そんなことはなかった。
とびぬけて奇抜な味ではなく、昔懐かしいという感じのノスタルジーを呼び起こす味。卵の本来の甘さを最大限に引きたてつつふわりとした食感が、口の中でほどけていく感覚は優しい味の一言に尽きる。
今の僕の荒れた心をふんわりと包んでくれたかのような錯覚さえした。
「美味しいやろ?」
マダム・リサに聞かれた。
僕は一も二もなくこくこくと頷いた。
「ナルちゃんの腕はぴか一やで。その道に進めばよかったのにと思うぐらい」
「もう、マダム・リサ、言いすぎやで」
店員の女性が頬を染めて俯いた。
――可愛いなあ。
愛嬌のある顔の作りと相まって、女性らしい可愛さが前面に押し出されている。
「そういえばお兄さん、名前は?」
思い出したかのようにマダム・リサが言った。
「あ、小野町満、です」
「ミツル、ミツル……みっちゃんでええ?」
「は、あの、お好きにどうぞ……」
この人の押しに勝てる気がしない。
僕は断ることなくそう言った。
「みっちゃんさあ、何や暗い顔して店に入ってきたけど、何かあったん?」
「え」
そんなに暗い顔をしていただろうか。
「話くらい聞くけど。こっち来たばっかりやったら友達もおらんのちゃうの?」
「そんな深刻なことでは……ちょっと職場になじめなくて」
「なじまんでええやん」
さらりと返された言葉に目を見開いた。
「職場って、仕事するところやろ? 友達作りに行くところとちゃうねん。誰かの迷惑にならんかったら無理して仲良しこよしせんだかってええやん」
「でも、転勤で部署が変わってから仕事も失敗ばかりで……」
「……こっちに来てからいくらも経ってないんでしょう? 慣れない土地で勝手のわからない仕事をしているんだから、失敗もあって当然ですやん。気にせんほうが良いですよ」
店員の女性も気づかわし気にそう言った。
二人の言葉に思わず涙がこぼれそうになった。
「す、すみません……出過ぎたことを言うてしまいました」
あわあわと店員の女性が僕に新しいおしぼりを差し出した。
「いえ、こちらこそすみません」
ありがたく受け取って目じりを拭く。
なんだか恥ずかしくなって、残りの玉子サンドイッチを一気に食べ、コーヒーを飲み干す。
冷めても美味しい、なんて反則だ。
「っと、そろそろ戻らないと」
時刻は十二時四十分を指している。
お会計を済まして、どうしても気になっていたことを聞いてみた。
「あの、お名前は?」
店員の女性は一瞬きょとんとして、それから満面の笑顔で言った。
「立花成海です」
完璧な大阪イントネーション。可愛い。
「サンドイッチ、美味しかったです。それと、励ましてくれてありがとうございました。また会いたいです。……また来ても良いですか?」
「はい、ぜひ。毎週金曜日はいますので」
金曜日、金曜日。うん、よし、覚えた。
「えー、アタシは?」
「もちろん、マダム・リサにも会いに来ます」
お礼を言って、店を出た。
空はすっきりと晴れていた。
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