【きみの名前】

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【きみの名前】

 帰りを急いでいた。  バイト終わりの疲れた体で、早くイチヤさんを抱き締めたい。癒されたい=いちゃいちゃしたい正直な体は、イチヤさんを求めて早足になった。  偶然にも歩く方向に男女が道のすみっこで立っていた。  周りを気にせずに体を密着させて、名前を呼ぶだけの会話をしている。サトシぃだとか、リカちゃぁんだとか。身にならない会話だとしても、ふたりには大事なことなんだろう。  おれだって、イチヤさんがいいよって言ってくれたら、やりたいぐらいだ。  人通りの多いこの道で、すみっこに立って、キスできそうな距離で。 「イチヤさぁん」  イチヤさんは恥ずかしそうに頬を赤らめる。そして、もっと赤くて、やわらかい唇でおれの名を呼ぶ。 「浮気野郎」  えっ? そこで妄想が途切れた。  気づいてしまった。おれはイチヤさんを「イチヤさん」と呼ぶ。でも、イチヤさんは、おれのことを……。嘘だろ、イチヤさん。  部屋に帰るなり、おれはイチヤさんをソファの上で見つけた。  どんだけ怒っていたって、「ただいま」くらい言うのは帰宅者のマナーだ。ちょっと、低い声になったけど。  イチヤさんはひじ掛けに頬杖しながら、「おかえり」なんて返す。  頭のすみで「ちょっと、可愛い」と思いかけたけど、そんな考えを振り切る。もう、許さない。許してやらないんだ。 「どうした?」  イチヤさんの顔の前で手を差し出した。ぴらぴらと手を振る。 「スマホ貸して」 「何でだよ」 「確かめたいことがある」  まあ、素直に差し出してくるなんて思ってない。  イチヤさんのスマホの定位置はわかっている。テーブルの上の右隅だ。  無防備に置きやがってと、忌々しく思う。  イチヤさんは動き出すのが遅れた。おれは簡単に、スマホを奪えた。 「おい、返せ」 「やだ」  こちらの身長の高さをいかして、スマホを届かない位置にまでかかげる。 「やだ、じゃねえ」  ははは、イチヤさんの身長では、届かないであろう。  片手でそんなことをしつつ、利き手の右で、自分のスマホを操作した。  イチヤさんのスマホに電話すれば、画面に発信元の名が表れる。 「嘘だろ」  思わず声がこぼれる。画面にあったのは『浮気野郎』だった。  脱力感がおれを襲う。ソファの端っこに座り、腕をだらりとしてスマホを落とす。  イチヤさんにとって、おれは名前を呼ぶ価値もないのだろう。 「やっぱり、思った通りだ。おれはちゃんと『イチヤさん』って名前を入れてるのに、イチヤさんはおれの名前を入れてくれない。というか、おれの名前を呼んでくれない」  スマホの画面だけじゃない。その口で、呼んでくれない。イチヤさんは恋人であるおれの名前を呼んだことがないんだ。 「そうだったか?」 「そうだよ。まさか、おれの名前を知らないってことはないよね?」 「ない、知ってる」  知っていて呼ばないなんて、そんな残酷なことはない。 「じゃあ、何で、呼んでくれないの?」 「いや、特に理由はない」 「理由はないなら、呼んでくれたらいいのに」 「呼べば、機嫌を直してくれるのか?」 「わかんない」  呼ばれたことないし、機嫌が直るかどうかなんて、わからない。  でも、呼んでくれたら嬉しい。きっと、喜ぶ。  すがるような思いでイチヤさんを見つめる。  どれくらい見つめていただろう。先にイチヤさんの方が目をそらした。 「わかったよ、呼べば、いいんだろ」  期待なんかしちゃだめだ。だけど、期待してしまう。  おれはただ、その時を待った。次の声に意識を集中させるために、目もつむった。さあ、来い。 「アキト」  一瞬、世界が止まる。イチヤさんの口からおれの名がこぼれ落ちて、胸がきゅっと締めつけられた。  何だ、この高揚感。耳と頬が熱くなる。おれの心臓がばくばくいっている。  くそ。イチヤさん、可愛すぎる。おれは自分の熱い顔を隠そうと腕で隠した。  そして、はたと気づく。もしかして、これは、あの夢を成し遂げるチャンスじゃないだろうか。  至近距離で「イチヤさぁん」「アキトぉ」をやる絶好のチャンス。  おれは意を決して顔を上げた。イチヤさんの額に自分の額をくっつける。  幸いなことに、イチヤさんは逃げなかった。突っぱねてくる様子もない。まれにみる、素直なイチヤさんだ。 「イチヤさん」  もう、キスしてしまいたい。全部、食いつくしてしまいたい。 「アキト……」  照れたようにこぼした恋人の言葉に、おれはたやすく理性を失った。  すぐさま、ソファに押し倒し、服を取り払った。「やめろ、バカ」と言われたけど、興奮の頂点にいるおれが聞き耳を持つはずがなかった。  もちろん、ことが終わった後には、ボコボコである。 「ごめんなさい、イチヤさん」 「バカアキト」  どれだけののしったって構わない。殴られたって痛くもかゆくもない。  イチヤさんが「アキト」と呼んでくれる限り、おれも出来る限りの愛情を持って、「イチヤさん」と返すんだ。 〈おわり〉
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