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茂が休日出勤に疲れ切って帰ると、妻であるリカが悩ましい顔でキッチンに立っていた。
「どうした、難しい顔して」そう言うと、茂は手に持っていた背広を椅子の背もたれにかけた。
「別にどうもしてないわよ?」リカの眉間からシワが消え、いつもの笑顔に戻った。
「どうもしてないのか」
「ええ、どうもしてないわ」
「そうか、どうもしてないんだな」
「どうもしてないわよ」
茂はリカを五秒ほど見つめると、背広を手に取り寝室に向かった。
「今日の夜はなんだい?」薄暗い寝室の奥から、茂の声がする。
「今日はねぇ、なんだと思う?」リカはわざとらしく甘ったるい声で言った。
茂は、懐かしいな、と思わず口元がゆるんだ。
同棲時代、リカは機嫌がいいと声色が違った。彼女なりの愛情表現であり、そんな日は食事が終わると茂を求めることが多かった。奥手である茂は、いつも喜んでその誘いを受けた。
しかし、結婚をした頃からお互いの仕事が忙しくなった。リカの甘い声も、忙しさの中に消えていったのだった。
性欲は強い方だと自負しているリカと、正真正銘の男である茂。ふたりの間にできかけていた壁は、この日、リカが壊すことを決めた。
茂は嬉しかった。ところが、喜び勇んでリカに飛び込むことができなかった。本当は食事の前でも、いや、今からでもと思っている。しかし、そこまで興奮していると思われるのが恥ずかしかった。茂は奥手だからだ。
「唐揚げかな」茂は寝室から出ると、精一杯いつもどおりの落ち着いた調子で言った。なぜか、リカの顔を見るのが恥ずかしかった。
「唐揚げじゃないわ」テーブルに両手をつき、リカは上目つかいで茂を見ている。
「唐揚げじゃないのか」
「ええ、唐揚げじゃないわ」
「そうか、唐揚げじゃないんだな」
「唐揚げじゃないわ」
茂はズボンをはき忘れていたことに気づき、何食わぬ顔で寝室に戻った。どうせ、すぐに全部脱いでしまうのだからこのままでもいいかと思ったが、興奮していると思われるのが嫌だった。
リカは茂がすでに臨戦態勢に入っていることが分かっていたが、同棲時代のように慎ましい女を演じることで茂の気分を盛り上げようとしていた。結婚してからは自分の時間を優先するあまり、無意識に茂を急き立てることがあったからだ。
今日くらいは、いや、これからはずっとそうしよう。リカは思っていた。
いつの間にか戻ってきた茂は、もう椅子に座っていた。所持している部屋着の中でも、とくに脱ぎやすいタイプのズボンをはいているのを見て、リカは目だけで笑った。意識しまいと思えば思うほど、無意識が勝手に働いてしまう。茂もまた例外ではなかった。
「ビールはあるかい?」とにかく落ち着こう、そう思うとビールが飲みたくなった。
「ビールはあるわ」冷蔵庫の前に仁王立ちになってリカは言った。手には、よく研がれた包丁を握りしめている。
「ビールはあるんだね」
「ええ、ビールはあるわ」
「そうか、ビールはあるんだな」
「ビールはあるわ」
茂はテーブルに寝そべり、器用に服を脱いだ。
そこへリカが近づき、茂の頭上から口にめがけてビールを注いだ。ビールはほぼ口を外れてしまい、茂の顔がビショビショになった。
「懐かしいな」茂は天井のその向こうを見つめている。
「そう、懐かしいわ」リカは包丁を両手で握りしめた。
「懐かしいんだね」
「ええ、懐かしいわ」
「そうか、懐かしいんだな」
「懐かしいわ」
室内の空気がピーンと張り詰める。
飛び回っていたハエは、突然固まったように動かなくなりフローリングの上にぽとりと落ちた。
向かいにあるマンションの街灯がすべて破裂した。
空が一瞬で分厚い雲に覆われ、激しい雷鳴が聴こえてくる。
信じられる者などいない、というスピードで茂の心臓を取り出したリカは、神をも恐れぬといった神業で傷口をピタリと閉じた。血は一滴も出ていなかった。驚くことに、心臓がなくても茂の体に異常は無い。しかし、ふたりが驚くことはなかった。
「本当に懐かしいな」
「本当に懐かしいわ」
「ぼくの心臓、またもとに戻るだろうね」
「さあ、それはわからないわ」
「そうか、わからないか」
「わからないわ」
食後の楽しみにしましょう、言ってリカは茂の心臓を冷蔵庫にしまった。
晩ごはんは、それは美味しいコロッケだった。
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