君待ち駅の糖衣菓子

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 近頃居着いた蜥蜴(とかげ)が這い上るたび、吊り紐が切れそうで冷や冷やします。切れるなという念だけで、何とかしがみついている気がします。(何故?)    線路はとうに落ち葉に埋もれて、境界線としての役割も放棄したようです。音もなく寄せる緑の波に呑まれ、砂糖菓子屋は植物園に変容。看板商品の看板たる私の前に、天井から蔓が垂れ下がる有様です。大事な小箱が栗鼠(りす)に蹴落とされ、私の真下まで転がってきたのは、一体何年前になるのでしょう。    窓を染める(こけ)(かび)、空気を濁す土埃のせいで、世界は霞んで見えますが、私はぼんやりなどしていません。(本当に?)一万九百八十二人の父母を、一人目から順に思い出しては、今どこにいるかと問う、これを絶えず繰り返していますから。(何故?)そうして、私の薄い体の内側から響く(くら)い声(皆ここを忘れたのでは?)(何人の父母が生きているだろう?)(もしかして人間そのものが、すでに滅んだあとなのかも?)に、抗うのです。(何故?)    何故? 一万超の、(いら)えのない思い出に問いかけるのは、正直くるしくて、やめたくて仕方ない。だけど、やめられない。(何故?)何故って……それは……。    ――バタン!     店中を揺るがす轟音、舞い上がる埃に降り注ぐ埃、咳とくしゃみ! 何故少しぼうっとしただけで、いつも大きな音に驚かされるのでしょうか……いえ。咳とくしゃみ?   「お婆さん?」    邪魔な蔦が揺れて垣間見せる、開いた扉の下半分と、人の足。鍵がかかっていたのを蹴り開けたなら、あの音と衝撃も納得です。  顔を見ずとも分かりました。あの日の少年が、青年になって帰って来たのです。店主との約束を守って!    「いないよな。二十年だ。道を探すのに手間取りすぎた……」  未だかつてない高揚の兆しは――青年の沈んだ声と共に、地に落ちてしまいました。    幼かった彼の盲点。店主と彼との年齢差。そのせいで彼は、今ここで一人なのです。その場しのぎの、いい加減な約束をされたと思うでしょう。彼の成長を待つ時間が残されているか、聡明な店主に推し量れなかったはずはないと。  違うと知っているのは、私だけ。あの日の邂逅は、店主の心を強く揺さぶったようでした。きっと少年を元気づけたい一心で、自分の年など忘れていたのです。でなければ彼女が廃れた町に残ったことや、最後の最後まで一人分の糖衣菓子を用意していたことの説明がつきません。誰か彼に伝えてくれたらいいのに!    苛立ちを察したように、私の外枠に潜んでいた蜥蜴がさっと逃げていきました。あるかなきかの振動に、硬く脆くなった吊り紐がじりりと軋み――そこに私は、唯一の望みを見出しました。    紐にしがみつくのをやめ、表の吊り看板の砕け散った姿を記憶の底に押しやり――紐が裂けていくのに身を任せて――、 ――バタン!  蔦の干渉から解放されて、開けた視界に映ったのは、びくりと肩を震わす、黄金色の髪の青年。彼はもっとずっと大きな音を立てたのです。これくらいのお返しは許されるでしょう。    狙い通り、青年はこちらに近づいてきて、しゃがみ込んで私に触れました。硝子ほど粉々にはならないと踏んでいましたが、左下が欠け、大きく亀裂が入ってしまったようです。 「『今どこにいますか』……」    そう、それが答えです、やっと私の父になった人。    生きることから逃げなくて良かった。私は傷の痛みも忘れて、誇らしさに浸りました。私がもの思うことをやめ、ただの板切れに戻っていたら、二十年越しの青年の正答を、聞き届けるものはなかったのです。    青年は私の傍に転がっていた小箱を拾い、店内を改めて見回しました。ほかに箱はありません。その意味を理解できないほど鈍感ではないようで、青年は口元を綻ばせ、小箱を胸にかき(いだ)きました。   「『今どこにいますか』。そうだ。離別の冷たさ、希求の苦さ、期待の甘さ……こんな味だった」    しばらくして彼は私を持ち上げ、小箱と並んで台に寝かせました。そして隣に懐から取り出した分厚い手帳を広げると、夢中で万年筆を走らせ始めました。横目で中身を読んでみたら、それは物語でした。彼は作家になっていたのです。彼がこの店のことを書き広めたら、私のほかの父母も誰か、ここへ戻ってくるでしょうか。 「ところで……ありがとうな」  ふと手を止め、青年が私に言いました。私に。……私に?  彼自身、看板に話しかけるのは変だと思ったのでしょう。「嬉しいと思ったら、とにかくお礼は言うことにしてるんだ」と言い訳が漏れました。    苦いくるしみの日々のあと、思いがけず、こんな甘く幸せな日が訪れるから、性懲りもなく未来に期待してしまうのですね。今日みたいな幸運は二度とないかもしれない。それでも私は信じて待つ。人を思って生き続けるのです。絶望に苛まれても、結局やめられない。  会いたいから。一万九百八十三人の父と母、皆が大切で恋しいから――明日もまた、私は繰り返すでしょう。青年の綴る物語に新たな希望を託し、「くるしいような幸せの味」の、あの言葉を。
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