君待ち駅の糖衣菓子

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 父母が五千人に達した頃でしょうか、この店を目当てに霧町駅経由を選んだという人が増えたのは。聞けば絵画の品評会で高評価を得た作品に、ここが描かれていたらしいのです。表題は、「君待ち(・・・)駅より――今どこにいますか」。  (にわ)かに忙しくなりましたが、店主は喜色満面でした。来る人来る人が私の前で、「気にかけて待つ、愛情だなあ」とこぼし、菓子を食べては「ああ確かに、『初めまして』は甘酸っぱい」、「『良い一日を』は爽やかな味」「そしてこれは……そう、ほろ苦くて、でもそれだけじゃなくて」と共感してくれたので。    そんなある日、父になれなかったあの子が訪れたのです。  汽車が停まっても客車がなければ、店は混みません。手伝いをしてくれるお孫さんが休憩に出て、店主ものんびりと、線路の落ち葉を掃く鉄道員と会釈を交わしながら、陳列窓の装飾を整えていました。  なのに突然扉を開けて、「いらっしゃい」と言うので驚きました。客の出入りは自由です。店主自ら呼び込むなんて、何事でしょう。  入ってきたのは子どもでした。黄金色の髪。その眩さと対照的な、枯葉色の虚ろな目。窓の外に訪れている秋のような、哀愁を帯びた少年でした。 「お客は来ないと思ってたよ。遠慮せずに入ればいいのに」 「……何の店か分からなくて。お金もないし」  窮屈そうな傷んだ靴に目を落として、少年は口を開きました。  来店しても何も買わない人はいて当然です。恥もかき捨ての旅先だからか、店主の穏やかな眼差しがそうさせるのか、打ち明け話をする人も珍しくありません。ただ、一人旅の子ども、しかもお菓子にも……私にも、一瞥もくれない客は初めてです。  当惑する私と違い、店主は落ち着いたものでした。少年の荒れた唇から、次々言葉を引き出すのです。 「僕『戦災孤児』? だから、一人なんだ。隣の国で、住み込みで働くことになって、孤児院を出てきたの。先生が汽車の人に、特別に安く乗れるよう頼んでくれた」 「なるほど。まだ字を覚える前なんだね、看板が読めなかったんだろう。ここはお菓子屋だよ。言葉の味の糖衣菓子(ボンボン)を売ってる」  興味を示した少年に、店主は三種の糖衣菓子を一粒ずつ取って見せました。 「この玉は砂糖でできてる。三つ違う味の糖蜜が入ってて、噛むと流れ出てくるよ」 「砂糖? 壊れない?」 「良い質問だ、そっと持たないと割れてしまう。繊細なお菓子だよ。食べてみな」  明らかに目が釘付けなのに、少年は(かぶり)を振りました。店主は気を悪くした様子もなく、「遠慮ならいらないよ」と、少年の床を彷徨う目線を手繰り寄せます。 「……汽車の皆も、お菓子とか飲み物をくれるんだ。疲れてないかって気にしてもくれる。だけど――僕、ありがとうって言えないんだ。もらったものは美味しいし、たくさん話しかけられて嬉しい。でもいざお礼を言おうとすると、感謝の気持ちが砕けちゃって、何だか胸がぎゅっとして、声が出ないんだ」  そのうち嫌われそうで怖い――消え入るような言葉の意味が、分かるような、分からないような。私の声は人に届く音にならない、伝えられないのが当たり前なので。でも商品に金銭を支払うように、厚意に感謝を返さなければと思うのは自然なことかもしれません。    店主はそれほど時間もかけずに、問題解決への糸口を見つけたようでした。   「汽車の中は居心地がいいんだね。これから向かう先は、どうだと思う?」 「……どうだろ」 「もし、あの汽車にずっと乗っていていいと言われたら?」 「乗っていたいよ」 「そうかい。たぶん、坊やの感謝の気持ちを砕くのは、寂しさだ。胸をぎゅっとさせるのは、恐れだね」    店主の声が、ふと少年を通り抜けたように感じました。前にもこんなことがありました。私を貫いて、違う誰かにも届く声。あのときはおそらく、戻らない配偶者に。今は――過去の彼女自身に? 「汽車からはいつか降りなきゃいけない。鉄道員の優しさは一時(いっとき)のもので、旅が終わればもう、自分を気にかける人はない。それが寂しいんじゃないかい。しかも幸せな旅の終わりは、見通しの立たない新たな生活の始まりだ。それが怖い。違うかい?」 「うん――そうかも」 「正体を暴けばこっちのものだ。まず寂しがる必要はない。坊やを思う人はいるよ。この私だ。ここへ来た人を、私は皆憶えてる。ときどき思い出しては、あの言葉をかけるんだ。看板商品の名前にするほど好きな言葉だよ」    指し示されて、少年はようやく私を見てくれました。けれど私の意識は冴えませんでした。字が読めない彼は、何も私に感じるものがなかったのです。   「何て書いてあるの?」 「さてね。私は意地悪だから教えない。文字を覚えて、読みに来ておくれ」 「切符は高いんだよ」 「働けばいつか買えるさ。望みをもって、奉公先へ行きな。まずは当て推量だ、あの言葉はこんな味。口に入れて、軽く歯を立ててみな」    店主が差し出した糖衣菓子は、今度こそ細い指に受け取られました。  かりっと、ごく小さな音を口内に閉じ込めて、少年が(うな)ります。   「ちょっとひんやりして、甘いけど――苦いね。あ、混ざるとちょうどいい」 「そうだろう。くるしいような幸せの味さ」 「余計に答えが気になる」  少年が口を尖らせたとき、扉が開いて、鉄道員が「時間だよ」と顔を覗かせました。そちらに向いた少年の目はもう虚ろではなく、明確な明日の自分を捉えているようでした。   「僕、絶対に文字を覚えてくる。だから僕を……忘れないで、待っててね」 「待ってるさ。坊や、未来に期待するには案外、勇気がいる。坊やのお陰で、私はより『いつか』が楽しみになった。ありがとう」 「うん。僕も。お婆さん――ありがと!」    頬を真っ赤にして叫び、少年は走り出て行きました。    汽笛の前の静けさ。そこへこんな呟きが落ちました。   「勇気がいるものなんだ。今どこにいるかって問いかけるのは。どこにもいないかもしれないって思いながら――やっぱりいると信じてなきゃ、成り立たないんだから。それでも繰り返せるくらい、人を大切に思えるってのは……幸せなことだ、やめられないねえ。あんた(・・・)の二の舞だよ。ねえあの子、ここへ嫁いできたときの私みたいだっただろう」    陳列窓に飾られた、硝子玉入りの珈琲椀を、店主は瞬きもせず眺めていました。
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