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貴志は立ち上がり、治療室のガラス窓の中を確認してみるが、そこには眠り続ける叶恵の姿があった。
まるで夢のような、嘘のような感覚が貴志を包み込んでいく。
ほんの今日の朝までは、いつものように明るく元気にしていた叶恵。
貴志の頭の中で、走馬灯のようにグルグルと今朝の情景が次々と浮かび上がっていく。
——————————。
ボサボサの寝癖ある髪で、二階から下りてくる貴志。
「母さん? 何してるの?」
貴志にそう呼びかけられて、振り返った叶恵。
イキイキとした表情で叶恵が伝えた。
「母さん、今日はハイキングに行ってくるから。」
叶恵は吹っ切るようにして答える。
「もちろん、一人よ。母さんも、たまには一人でハイキングにでも行きたいのよ。」
。
「・・・ふうん。そう。」
「じゃあ、行ってくるから、後をお願いね。」
叶恵は、そう告げると、出掛けていく。
その時の元気な笑顔と姿が、頭の中に甦ってきた。
————————————。
再び、現実に戻る。
静かな、夜の病院。
貴志は長椅子へと座り込むと、ポツリと呟くような声で言葉を漏らす。
「・・・母さん。」
それとともに、貴志の目から涙が零《こぼ》れた。
受け止めきれない現実に困惑していたのだろう。
貴志の緊張して張り詰めていたものが、ふっと力が抜けたように、それが涙となって崩れるように泣いた。
母親がいなくなってしまう、寂しさと恐怖に襲われ、ただ震えて現実逃避するしかなかったのだ。
母・叶恵と生きてきた日々は、かけがえのないものであり、それが今こんなにも大切な事だったと貴志自身、改めて感じていた。
いつしか、貴志の脳裏に遠い過去の映像が浮かびはじめる。
—————・・・笑いながら、走り回る女の子。貴志は、その女の子を追いかけていた。
「待てよ〜。走ると危ないぞ。」
しかし、女の子は気にせず笑い続けながら、走る。
貴志は、更に追いかけた。
「千恵〜! 待てったら!」
千恵は、逃げ続ける。
そうして、やっとの思いで、貴志は千恵を捕まえた。
「よし! やっと捕まえたぞ、千恵!」
「あ〜あ、捕まっちゃった。」
千恵は、残念そうにしながらも、貴志を見ると嬉しそうに笑った。
貴志は、10歳。千恵は、5歳。
「貴志兄ちゃん!」
千恵がそう言った。
名前は、秋原 千恵。
貴志の妹である。
まだ5歳の小柄な千恵は、貴志を見上げて言った。
「千恵ね。貴志兄ちゃんに、教えたい事があるんだ。」
貴志は、不思議そうにして聞き返す。
「教えたい事? 何だよ〜。」
千恵は、少し照れ笑いした。
「えへへ。・・千恵の秘密の事。」
そう聞いて貴志は、興味を示しながら話す。
「え〜⁈ 千恵の秘密〜⁈ 何だよ〜、秘密って。」
「あのねえ、誰にも内緒だよ〜。」
すぐに教えてくれない千恵。すると貴志が、
「誰にも言わないから、・・・・教えろ〜!」
そう言って、千恵の体をこそぶる。
千恵は、元気な声ではしゃいだ。
————。
浮かんだ映像は、そこで途切れる。
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