MIDDLE NOTE

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 Sakuya Murose――――――  会社の正式な代表名として登録されている名前で示された二箇所にサインをいれて、ダイヤモンドが一粒光る万年筆をスタンドに戻せば、向かいに座っていたルビさんがチラリと視線を背後に向ける。  身に着けている、光の加減で柔らかい光沢を生む素材のスーツが、微かにも揺らめかない事が不思議なほどの凪の動作。  そんなルビさんの無言の指示を受けて、本宮グループの法務部をまとめている大輝さんが、たった今、オレが署名したばかりの契約書二枚をテーブルからその手にとった。  「――――――問題ありません」  鋭い眼光で隅々まで再確認した大輝さんが日本語でそう頷けば、真顔だったルビさんの表情がふと緩む。  【契約がうまくまとまって良かった。僕も、仲介した甲斐があるというものです】  その眩しいくらいの蜂蜜色の視線は、オレの隣に座る男へと向けられる。  正面からそれを見る事も出来ず、さっきから落ち着きなく額を拭いたり貧乏ゆすりをしたり、――――――これでも、アジアのリゾート地に巨大な高級ホテルを幾つも所有する会社の副社長で、その背後に控えている秘書も、冷や汗ダラダラ。  オレ一人と向き合っている時は横柄な態度で誠意の欠片すらなかったのに、ルビさんが登場して以降、小者と化した。  話の中心となっているのは、五人で取り囲んでいるこのテーブルに鎮座した紺色のボトル。  イランイランの花が上品に描かれた、オレが運営する会社で開発から販売まで取り扱っているボディソープだ。  オレが契約書に署名した瞬間から、卸先はすべてこのホテルの独占になったけど。  【も…本宮さんには、大変お世話になりました。その、社長が、くれぐれもよろしくと】  【――――――社長にお会いできず残念でしたが、意義のある締結に携われた事を嬉しく思うとお伝えください。本宮は、今日の事を忘れないでしょう。…ロランディも――――――とね】  【え、いや…、それは…その…】  ハリウッドスターを父に持つルビさんの、その隙の無い綺麗な笑みは無双。  瞳に温度がないと、かなり冷たく見えるもんだ。  …結構怒ってるな、ルビさん。  【副社長、そろそろ飛行機のお時間では?】  大輝さんに役職でそう促されて、さすがにこれ以上の長居はマイナスだと判断できたのか、よろよろとした所作で一人掛けソファのひじ掛けを支えに立ち上がった。  それでも、足元がふらついたところを、慌てた秘書の手に支えられる。  【で、…では、私はこれで…】  契約書の一部と、詳細をまとめたメモが入っているモバイルをどうにか腕に抱きこんで、二人は後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返りながら部屋を出て行く。  そんな風に後悔するくらいなら、最初から、会社を経営しているからにはオレをただの十五歳の子供のように扱うべきではなかったし、せめて後見人がルビさんである事や、それが判る程度まで怠らずに調査していれば、オレの本名くらいは出てきたかもしれない。  そうすれば、もっと違う今があったかも知れないのに――――――。  「――――――最後まで余裕だね、咲夜(さくや)。もしかして、僕が出るには早すぎた?」
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