MIDDLE NOTE

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 驚いた事に、彼女はそれから一週間もしない内に転校していった。  人から伝え聞いた話だと、婚約者となった幼馴染が通う学校が転校先らしい。  オレと彼女の関係はほとんど知られていなかったから、生活の上辺は何も変わる筈もなく、  ――――――違う。  自分が何も変わっていない事に対するこの気づきが、大きな進歩だった。  【――――――それはアレだな。情ってヤツ】  そこに居るだけで王子様然としたルビさんの美しさとは違う、野生の獣のような色気が売りのルネさんから発せられた単語に、意味を呑めずオレは反芻した。  【情?】  【情】  頷きながら繰り返しただけのルネさんは、耳にかかったブロンズの毛先をうるさそうに指でかきあげて、それからグレーの眼差しを正面のオレに向ける。  近況報告を兼ねたランチを約束していたルビさんの代わりにレストランに現れたルネさんは、その洞察力から直ぐに何かを察したのか、後見人代理として命令を下し、容赦なくオレから過去のデイリーログを引き出した。  そして、彼女との出会いから別れまで洗い浚い吐き出したオレに対する感想が、さきの"情"という言葉だ。  【馴染んだぬいぐるみ、履き慣れた靴、使い古したローブの感触、いつもの事にも、心はちゃんと動いているんだよね。安心感とかさ、満足感とか。人の深層心理のどこかに、それは蓄積されていく】  いったん言葉を止めたルネさんは、そこで唇を斜めに笑った。  【男は本能で勃つからさ。燃えるような愛を感じていない相手でも、セックスは出来るし、関係を続けて、慣れて馴染んで、楽しい時間を共有しているうちに、大切な気になっていく。愛しい子だと思うようになる】  【…】  【比較対象が無い人には、それを愛かどうか区別するには難しいよ】  【オレが…本気じゃなかったって? …ぁ、すみません】  さすがに、ルネさんに対して失礼だと思えた口調を自戒しようと俯けば、ルネさんの笑い声がまた目線を誘った。  【いいよ別に。――――――否定してるわけじゃないよ。お前は本気だっただろ。一緒にいて幸せだったと女に思わせたのなら、彼女に向けていたお前の気持ちや、セックスにかけていた手間は真剣だったはずだよ。そういうの、敏感だからね、女は】  【…手間って】  混乱した頭では、突っ込みどころが判らなくなってしまった。  【ただし、濃さはあるんだ】  【…濃さ?】  【濃度というか…】  【―――――グレード、ステージ、フェーズ…とか…?】  【うーん…】  何かを追憶するように、ルネさんの人差し指が自身の唇を二往復した。  【…テイスト?】  【味?】  【サクヤなら、香りの方がいいのかな?】  【…香り…】  【そう】  目を細めてルネさんが浮かべた微笑みは、これまでに見た事がない柔らかさで、  【世の中には香りが溢れているよね? ありふれて、お馴染みで、よく知っていて、苦手なものもあれば、慣れて好きになるものもあって、好きだと思っても直ぐ名前も忘れてしまう香りもあれば、脳内で何度も呼び起こされる香りもあったりさ】  オレがボディソープを作った時に追い求めた香りを思い出す。  【サクヤは今、その彼女の"残り香"に浸っているだけだよね】  ギクリと、背骨にヒビが入ったような気がした。  【その彼女が、お前にとってのファム・ファタール《唯一の香り》じゃなかったって、自分でも思っちゃったから、自己嫌悪してるだけなんじゃない?】  【…オレは…】  言い淀んだオレに、ルネさんは突然、声を上げて笑う。  【ルネさん…】  きっと情けない表情だろうオレを指さしながらしばらく笑い続けていたルネさんは、【悪い悪い】と手を上げて、湯気のなくなったコーヒーを口にした。  【なんにしても、男女の仲を知った気になるのにはまだ早いよ。そして、それを勉強させてもらったという意味で、これまた良い女が残り香をつけてったもんだと、逆に感心するね、オレは。お前のその強運に】
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