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「それを言うなら、貴介さんも後悔していませんか?わたしを妻にしたこと」
「していません」
即答されて胸が跳ね上がったのと同時に、どう答えるべきか考えあぐねた。
いまのわたしは、昨日までのわたしとは違う。梁川から佐野に姓が変わり、高層階からの見事な眺望に圧倒されながら、ほぼなにも知らない男性と生活を共にする。
思い切った決断をしたものだとこの二ヶ月間を振り返るたび、うまく言い表せない緊張感が全身を包んだ。それはもちろん、いまも継続している。
「わたしも、していません。お互いに目的を達成するまで、どうぞよろしくお願いします」
「契約とはいえ妻ですが、どこまでの務めを果たすおつもりですか?」
彼はにこりともせず、上質なグレンチェックのネクタイを鬱陶しそうに振り解いてソファーの背に凭れかけた。そんな些細な動作ですら、どこか上品で美しい。
「貴介さんの思うままに」
「酷くしてもいいと?」
「ご所望なら」
「顔に似合わず積極的ですよね、あなたは」
続いてベストを脱ぎ、ネクタイに被せるように掛ける。ワイシャツのボタンを外しながらニヒルな笑みを浮かべ、こちらに三歩ほど近づいてきた。
おそらく、あの夜のことを言っているのだろう。
すべてが変わった、8月のパーティーの夜。夏真っ盛りで随分と暑かったが、この人ともつれるように抱き合ったホテルの部屋はエアコンが効きすぎていた。
だから、必要以上に心地よく感じたのだ。ムスクが纏わりつくしっとりした肌も、ほぼ言葉を交わすことのなかった情事も。
「本当に酷くしますよ」
「そんな人じゃないっていうのは、なんとなく分かっています。それと」
「それと?」
「敬語と、僕、って一人称をやめてください。わたしの前では、俺、でいいです」
意を決して顔を上げると、貴介さんは呆気に取られたような表情でわたしを見ていた。
今日、初めて彼の顔をまともに見た気がする。いつもとなんら変わりがないように見えるけど──しいて言うなら、少し強張っている?気のせいか。普段はどうなのか知らないが、わたしといるときはだいたいこんな感じだ。
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