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「それは、あなたを妻らしく扱えって意味?」
「気を遣う必要はありませんって言ってるんです。なんでも嫌味っぽく捉えないでください」
荷物を片付けます。そう言って背を向けた瞬間に抱きすくめられ、ハンドバッグを床に落としてしまった。「貴介さん、」「ベッドに入る前に、これを」──彼がわたしの眼前に差し出したのは一枚の紙だった。ついさっき、区役所に提出してきたものとよく似た作りの。
「……これって」
「離婚届。来たる日に向けて準備しておきたいんだ」
ゆっくりと開くと、「夫」の欄にはすべてが記載されていた。手の震えを止めるように握られ、「茉以子も、書いて」と抑揚のない声で囁かれる。じっとりとした汗でそれが皺になってしまわないうちにと、小さく頷いた。胸が、締めつけられるように苦しい。
「この結婚には終わりがある。だから、なにも心配しなくていい」
ふらふらとガラステーブルまで誘導され、彼のスーツの胸ポケットに挿さっていたペンを手渡される。なにも話さず機械のように記入していく間、ガリガリと鈍い音が殺風景な部屋に響いた。
端正な字の隣に並ぶ、丸みを帯びた字が恥ずかしい。穴が開くほど見つめられているから尚更。名字を間違えなかったのを褒めてほしい、なんてバカみたいなことを思った。
「なにも心配しなくていい。あなたを、悪いようにはしない。俺の目的が先に達成されても、途中で放り投げたりはしない」
書き終わるや否や今度は真正面から抱きしめられ、バランスを崩してラグの上に倒れてしまった。そんなことはお構いなしだと言わんばかりに覆い被さってきた彼の左手薬指には、真新しい輝きが踊っている。
「茉以子の指には、俺が」
左手を取られて無機質な感触が嵌まった。真っ白な天井に映えるように光るそれは、メレダイヤが一周埋め込まれているフルエタニティリング。あなたに似合う、と貴介さんが選んで贈ってくれたものだ。
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