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契約
「僕と契約しましょう。利害は一致しているはずです」
深夜1時、皺ひとつなかったはずのシーツはすっかりよれていた。重みのある掛け布団で顔の下半分までを覆い、「契約」と乾いた声で鸚鵡返しをする。
ほぼ初対面と言ってもいいくらい、わたしはこの人を知らない。そんな人とついさっきまで身体の奥で繋がり合っていたのだが、それでもやっぱり、知らないに等しい。
「セックスの前にしていた話の続きです。率直に言います。僕と結婚してもらえませんか」
美しくしなやかな背筋だ、と見惚れていたところだった。突然のプロポーズに驚かない自分に驚きながら、「結婚」とまたもや鸚鵡返しをする。
「僕は瑠璃と結婚するつもりはない。だけど、このままではそうなってしまう。万一そうならなくても、父が見繕ってきたよく知らない女と結婚することになる。最悪の展開です」
セックスのあとに、缶ビールではなくミネラルウォーターを飲むところがこの人らしい、と思った。知らないに等しいくせに、「らしい」とは何事だ。
「わたしは佐野さんにとって、よく知らない女ではないんでしょうか」
「すべては知らないけど、まったく知らないわけではないと思います」
彼女役、完璧にこなしていただきましたし。ふと見えた横顔にときめきが走った。こんな人に抱かれていたのかと、今更ながらに鼓動が速くなる。
「……瑠璃さんのことは」
「瑠璃は、兄の恋人です。僕が介入する余地などない。昔からずっと」
端正な顔が不器用に歪み、ときめきの次に痛みが走った。先ほどパーティー会場で会った、すっきりとしたショートカットの女性を思い出す。
綺麗で明るく話しやすい、男性からも女性からも好かれる典型のような人だった。一見して地位の高いお偉いさんばかりが集まる豪華なパーティー会場を7センチヒールで颯爽と歩き、誰とでも分け隔てなく会話を楽しみ、成長著しい大企業の御曹司であるこの人を「きーくん」と呼んでいた。その瞬間に、勝てない、と察した。
「あなた、結婚したいんでしょう。あんなところに来ていたんだから」
呆れ返ったように見つめられ、恥ずかしさで顔を背けた。ほんの出来心だったんですが、と布団に潜って小さく返す。
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