1章  雨の出逢い

1/1
35人が本棚に入れています
本棚に追加
/99ページ

1章  雨の出逢い

静かな細い針のような雨を見上げる。 そこに浮かぶ愛しいあの人笑顔 あの人はもういてへん…… 気づけば雨が降るといつも黙って降りしきる雨を眺めるのが好きな子供やった。 気づけばいつもひとりでいた。 貧しい浪人の家に生まれたうちは年の離れた兄がいると両親から聞いていたけれど、 文武とも優秀だったことが幸いし 貧しい生まれながらも他家へ望まれて養子に入った兄との幼いころ一緒に暮らした記憶はもう無い。 ただ時々上等な見たことないきれいなお菓子を持ってきてくれた。 友達もほとんどいてへん、いっつも独りぼっちやったうちの手にお菓子を握らすと 兄さんはそっと頭をなでてくれた。 そして名残惜しそうにすぐお屋敷に帰ってしまう。 養子先のお屋敷の方々が貧しい浪人である実家へ兄が出入りするのを心よくは思ってなかったから…… でも会う回数は少ないけどそんな兄さんのことがうちは好きやった。 数年後、藩の重職に着く予定やった兄さんが藩内の派閥争いに巻き込まれて大きな借金を作ってしまんたん…… 養子先のお屋敷から追い出されるのはいややというて泣いて実家へ泣きついてきた兄さんのために、できることなんか元々貧乏長屋その日暮らしの浪人の両親にはどうすることもできへん。 両親は豪商の荷駄を積んで走る荷馬車の前に二人して飛び込んだ…… 両親はそれが原因で亡くなってしもたけど 風評被害を恐れた豪商からのお見舞金がたくさんもらえて、そのお金で兄の借金はだいぶ返すことができた。 それでも養子先のお屋敷へはもう戻ることができへんようになってしまって。 兄妹二人きりの生活を支えなあかんのと残りの借金を返さなあかんかった。 元は貧乏な生まれとはいえ、お屋敷に養子に行ってからは若様扱いで育った兄さんは昼も夜も慣れない仕事をしてはついに身体をこわしてしもうたん。 兄さんのかわりに……うちが代わりに簡単に稼ぐためには方法は一つしか無かった。 こうして、うちは島原へ身をしずめた。 島原いうても幼いころから芸事を極めた格式ある太夫や天神とはうちは違う。 芸事習うにはもう年齢的に遅かったし、 早い話……遊女や、身体を売るのが商売ってこと。 島原に来てからも客がいない時間、 名都(なつ)は雨の降る日はこんなふうに窓ごしから雨を見ている。 ……雨の音はなんでこんなに心落ち着かせてくれるんやろ。 「今日も朝からずっと雨やから名月〘 なつき〙姉さん、また窓にかじりついてはるわ」 「ほんまや! なんかおもしろいもんでも見えるんやろかってお母さんも呆れてはったえ」 かしましい禿の声を気にするでもなく名都はいつものように静かに窓辺に腰を下ろし 雨を見ている。 子供の頃から雨を見るのが好きなのだ。 今日みたいに細い針のような静かな雨だと特にずっと見ていても飽きない。 自分でもへんな癖だなと思う。 ……うちの汚れたもん、ぜぇんぶ雨が洗い流してくれたらええのに。 兄のためやと思えば春を売るこの仕事がいやでいやでたまらんとは思ってへんのに……なぁんで、こんな気持ちになるんやろ。 今の稼業を割り切ってはいても時々そんなふうに思ってしまう自分がいるのはどうしようもない。 いつか雨がやんで虹が出るように、自分も変われることを心の奥底で願っているということやろか…… まさか? そんなん考えるだけあほらしぃ… 名都は考えることをやめて、やかましく騒ぐ禿に声をかけた。 「松風ちゃんに白菊ちゃん、そんなおしゃべりばっかりして油売とったら またお母さんに𠮟られるえ。  はようお稽古に行っといで」 そろそろ自分も夕刻ごろから遊びに来る客を迎えるための化粧をする時間だ、そう思い 立ち上がりかけた名都の目に窓の下のわずかばかりの軒の陰に立つ若侍の姿がうつった。 ……? 傘も持ってはらへんみたいやし、馴染みの女と遊んだ帰りに急に雨に振られて雨宿りでもしてはるんかしら? 様子を窺うように窓から、もう少し身を乗り出すと、その気配に気づいたのか若侍が上を見上げた。 目が合う…… 「あ……」 若侍は少し慌てたように頭を下げる。 「申し訳ない。急な雨のため軒先をお借りしておりました」 そう言って再び頭を、今度は深く下げた。 そんな若侍の生真面目な様子になんとなく親しみを感じて名都は思わず笑顔になる。 「ええんどす。まだしばらく雨ぇ止まんと思います、お困りどすやろ? うちのお店の傘お貸ししましょか?」 「いえ、今日は私の上役の者が向こうのお店に」 そう言って目線を道の斜め二軒ほど行った向かいの店、『花砂屋(かさごや)』へ向ける。 花砂屋は名都の店、『丸櫛屋』より少しだけ格上の店だがやはり春を売ることが主な店だ。 「私は供として参っておりますので、上役の“御用”が済むまで待っていなければなりません。 商いのご迷惑でしたら場所を変えます」 “御用”……などと気取って言ってみたところで窓の上から自分を見下ろすこの女は“御用”の内容を当然察するだろう。 きっと心の中では失笑しているに違いない。 もちろん上役は供として付いてきた自分に外で突っ立って“御用”が済むのを待っていろと命令したわけではない。 酒と女がことのほか好きな上役は機嫌がよければ寛容でもあり、一緒に登楼して遊んでいくように誘ってくれていたのだ。 しかし自分はさらに別の上役からの命令で仕事として来ているとういう責任がある。 店で遊んでいる上役が飲みすぎていつ暴れだすかわからない、そうさせないためにも近くから見張っていなければならず、 また遊んだ後は道中これまた騒ぎを起こすことなく無事に壬生に送り届けなければならない。 花砂屋の前で待っていたのだが先ほどからの雨に困らされる、花砂屋は雨をよけることができるような場所が無かったせいだ。そうして目についた丸櫛屋の軒先を借りてしまったしだいである。 そこを突然二階から声をかけられた。 「せやけど…」女は思案するように首をかしげる、軒先はかろうじて頭を雨から守る程度で袴の足元はびしょ濡れなのが見て取れる。 春先とはいえまだ冷える、放ってはおけへん。 名都はそう思うと若侍に再び声をかけた。 「こんな雨の中ずっとおったら風をひいてしまうかもしれまへんえ。ちょっと待ってておくれやす」 窓から顔をひっこめるとすぐに、申し訳程度に螺鈿細工が施された簪などをしまえる小さな箪笥(もちろん丸櫛屋の中に限っていえば上客からの贈り物)から新しい手ぬぐいを取りだす。 すぐ階段を駆け下り、丸櫛屋の号が入った傘を一本つかむと慌てて店の外へ飛び出した。 若侍に駆け寄り「どうぞ…つこうておくれやす」そう言って手ぬぐいと傘を差し出す。 いきなり自分も傘もささずに走ってきた女に驚いたのか若侍は焦ったような顔で 「かたじけないが…そなたも濡れているではないか」と手ぬぐいを持つ女の手を押し返した そこで初めて気づいたように名都が濡れてしまった商売衣装の着物の裾や、頭を気にする。 「! ……ほんまや、どないしよ。お着物濡らした言うてお母さんに叱られるわぁ」 そんな様子に思わず若侍の頬に笑みが浮かんだ。 「これは…えらいみっともないとこ見られてしまいましたなぁ」と名都も笑顔になり 若侍の濡れた肩などをそっと手ぬぐいで拭ってやる。 めっちゃきれいな瞳〘 め〙ぇしてはるんやなぁ…… 若侍の涼やかな瞳が名都の視線に戸惑い揺れるのを見つめて名都は思う。 こんなきれいな瞳ぇしてるひと見たことあらへん。 自分の着物を一生懸命拭いてくれる名都に「あ、いや……すまない」などと慌てる若侍に『真面目なお人なんやな』とつくづくそう思う。 「手拭いを汚してしまい申し訳ない、新しいのをあとで買って届けます。 こちらのお店の方ですか? お名前は? ……いえ、いきなり失礼いたしました。他意はございませんが……」 しどろもどろになりながら若侍は思う。 何を言ってるんだろう……俺は。 これではまるで京に来て舞い上がっている田舎者丸出しではないか…いや、事実そうには違いない。 自分たちがとりあえず、あくまでとりあえずのつもりで滞在している壬生は京でものんびりした郊外であるのだが、そんな壬生“村”あたりの人たちからも田舎者という目で見られていることは承知している。 島原という粋な世界に身を置くこの女に俺はさぞかし田舎者と見えてることだろう…… 「おかしなお侍さんどすなぁ、うち…名都、言いますぅ。手ぬぐいのことは気にせんといておくれやす」 若侍のあまりに生真面目すぎる様子に島原で身を売るようになって二年、色んな客を相手にしてきた名都はくすくすと笑いながら 源氏名の名月ではなくほんとの名前、名都と答えてしまった自分に驚いてる。 「お侍さん、ほんまに真面目なおひとやなぁ」 着ているものは近くで見てみるとあまり良いとは言えない粗末な感じではあるが それでいて若侍にはどことなく育ちの良さの感じられる品が備わっている。 そう、きっとうちとは全然違う世界の人。 多分いつかええとこのお嬢さんと恋仲になって……お似合いなんやろうな。 なんとなくこの若侍には不釣り合いであろう自分を自嘲してしまう気持ちを振り切るように名都は空を見上げた。 あ……お天道さん 気づけば雨が上がってる。 「ほんなら、うちもう店に戻ります。手ぬぐいのことはええんどす」 若侍を残し慌てて店に戻る。 若侍が呼び止めたのが聞こえたが振り返らずに店に入って戸を閉めた。 これ以上、あの人と話したない。 あの瞳ぇに吸い込まれそうや…… 名都は今まで感じたことのない気持ちを持て余すかのように土間の水瓶から水を汲むと一気に喉へと流し込んだ。若侍に感じた気持ちも押し流したい、そんな思いで……。 手拭いを持ったまま若侍は二階を見上げる、名都と名乗った女がまた顔をだすのでは…… そんな期待は、かなうはずもなくなんとなく名残惜しい気持ちを抱えたまま 丁寧な手つきで手拭いをたたみ、懐へ入れようとしたその瞬間、 名都が焚き染めたのだろうか、わずかに香のにおいが鼻腔をかすめた。 京に来て洗練された女と遊ぶことを自分の格付けに利用している仲間も多いが、 どうしてもそんな気になれない。 京女は苦手だと思っていたはずなのになぜか名都のことは気にかかる。 そんなことをぼんやりと考えていると花砂屋から男衆が走ってくるのが見えた。 なんとなく高鳴る気持ちは一瞬でどこかへ去ってしまう。 「どうしました? なにか騒ぎでも? 」 「いやいや……ちゃいまんがな」そう言って花砂屋の男衆は顔の前で、違う違うという風に手を振る。 「芹沢先生、ゆっくり遊んで行かれるもんやとこっちも覚悟決めてたんどすけどな、なんや急に『今日はもう帰る』言わはって。せやから藤堂はんも、早よう店に戻ってくれまへんか」 男衆は藤堂と呼んだその若侍の袖を引っ張るように急き立てる。 気性が激しく気分の変りやすい芹沢の機嫌を損ねるのを恐れているのだろうというのはよくわかるので 「わかりました」短く答えると男衆を追い抜いて花砂屋へ飛び込む。 玄関の間に芹沢が赤い顔をして座り、お気に入りの鉄扇で自分の肩をびたっびたっとたたいている。本気でたたけば骨も砕く鉄扇である、力を加減してるのだろう。 もっと酔いつぶれているかと思ったが意外にもしっかりしている様子の芹沢に安心し声をかけた。 「芹沢先生、大丈夫ですか?籠を呼びますか」 芹沢の高下駄を男衆より先に見つけると足元へ置いてやる。 「……ああ、藤堂君か。どこにいっておった? と聞くのも野暮天だな。ぐわはっは」 上機嫌のようだ、芹沢は藤堂もどこか馴染みの女がいる別の店で遊んでたと思い込んでるようだが、面倒なので否定もしない。 すぐ男衆に芹沢の遊び代の銭と籠を呼ぶ手間賃を握らせ、急ぐようにと目配りした。 「芹沢先生、すぐ籠がきますから。立てますか?」 ふらつく巨漢のしかも酔っぱらいに肩を貸すにはずいぶん細っりしていて頼りなく見えるが、 動じることなく芹沢に肩を貸し店の外へ出る。 藤堂は背は高くないものの、とても鍛えられて筋肉がひきしまっている。芹沢を担ぎだすことくらい造作ない。 のちに数々の斬り込みに先陣を切って踏み込むことから『魁先生』と京で恐れられるようになるこの若侍、 新選組、藤堂平助と名都の運命の出逢いはこうして始まった……
/99ページ

最初のコメントを投稿しよう!