149人が本棚に入れています
本棚に追加
若い人はH棟とかの新しい棟に住みたがるというのは本当のようで、家族連れが歩いてくるのはほぼ団地の奥の方だった。通りすがりに見たA棟は、男性が言う通りあまり綺麗ではない印象である。掃除がされていないのではなく、文字通り古びているという方向だ。ちらりと自動ドアの向こうを覗けば、なんと今時珍しい“全階に停まらないエレベーター”であるようだった。――停まらない階に住んでいる人は大変ね、特に高齢者ってどうするのかしら――と自分も高齢者に充分足を突っ込んでいる年齢である弓子は思う。
「こちらです」
管理棟の前まで案内してくれた時、島村はもう汗だくになっていた。本人がやや太り気味なのもそうだが、実際今日は少し気温が高い。もう十月も末だというのに、二十五度を超えている。地球温暖化もここまできたかというべきか、それとも稀にこういう日があるのは珍しいことではないのかどうか。こういう時、常にスーツを着ていなければいけないような職種の人は本当に苦労するだろうなと思う。ちなみに、弓子は私服である。果たして今の若い人の言うところの“オフィスカジュアル”というものが、灰色のスカートにワイシャツ、ベージュのカーデガンという服装で正しいのかはわからないけれど。
「基本的にはこちらの受付で……あ、座って応対していただいて大丈夫ですので、そこにいて頂くというかんじで。で、住人の方から何か言われたら、その都度マニュアルに従って対応してください。たまに住民トラブルへの対処をお願いされることもありますが、一番多いのは落し物対応ですね。何か落としたから届けに来たとか、逆に落し物として届が出てないかとか、そういう」
「わかりました。えっと、トラブルに関して相談された時はどうすれば?」
「マニュアルにも書いてますが、他のスタッフに頼んで確認しにいってもらってください。エントランスが汚れてるとか、騒音とか、精々その程度だとは思いますけどね。そういう契約ですし、浮島さんご本人は基本的に受付で座っていてくださればいいですから。どうしても人が足らない時は動いて頂くかもしれませんが」
「はあ」
話を聴いている限りでは、そんなに難しい仕事ではなさそうだ。少しだけ緊張していた弓子はほっと胸を撫で下ろす。
自分もそろそろいい歳だし、娘と孫のために少しでもお金を貯めておこうと思い立ち、ハローワークのドアを叩いたのが今年の春頃のこと。ここまでこぎつけるのには苦労したのである。なんせ、七十歳の自分を雇ってくれる仕事も少なければ、そんな自分が出来る仕事もそう多いものではなかったからだ。
最初のコメントを投稿しよう!