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剣戟
岩をくりぬいた通路の両脇には、今もなお幾つもの骸が憩うていた。
数刻前、松明の明かりに起こしてしまった者の残骸が、時折靴底で不満げに、びきりと鳴った。
「足元に気をつけたまえ」
松明に炙られた墓地の空気は、年月を重ねた、骸に上質の蝋のような不思議な香を与える。
上に下に、地虫の道のごとく穿たれた通路を抜けていくと、やがて墓所の最深部である祭祀場に出た。
斜面を大きく削り出すようにして設けられたその空間は、宮殿のテラスにも似て屋根がなく、壮大な星々の広がる夜を一望できた。テラスの突き出す方角には極星があった。恐らくはこの墓所が、そのように建てられたのだろう。いにしえの竜とその民たちが守護星とあがめた輝きだった。星々の儀式の舞台を荘厳に彩っていたのであろう石柱は、今では幾つかが倒れてはいたが、なお数本が星空の屋台骨を気取るが如くそびえ立っていた。
舞台の先に、一本の樹木があった。
骨を思わせる灰色の凍った血にも似た色合いの葉が、表面に、奇妙な光沢があった。
「これだ」
私は足を止めた。
「この遺跡に木の下に、いにしえの竜脈が封印されている――いや違うな。この木そのものが、竜脈の露頭なのだ」
私は言った。
「竜の力を解き放つのに苦労はいらない。これを破壊すればよい。そうすればこの地に生命の息吹は戻り、木々は実りを取り戻すかもしれん。獣たちは子を産み、鳥は豊かな囀りで耳を楽しませるかもしれん。だがそれはいにしえの竜の魂を呼び起こす。古の英雄たちによって勝ち取られた秩序、正しき秩序の世の平和は崩壊するだろう」
「けれど」
チッカは言った。
「穏やかな平和の先に見えているのは、全ての命が枯れてゆく世界の冬です」
「だが、人は幸福に満ちた世界の片隅で己が惨めに生きるより、黄昏の世界にわずかにかかった光に己を照らす道を選ぶのだよ」
「オドウッドさん」
チッカが私の名を呼んだ。
「どうか今、この場であなたと静かに別れることはできないのでしょうか」
肩にボストンを乗せ、傷の痛みをこらえるかのような声を上げ、私を見ていた。
「私は今からこの地の封印を解きます。世界の冬を止めるため。竜の血を大地に還すために。ここに来たのです。……あなたは、私を止めるよう命じられていた騎士ではありませんか」
「まさか。何を言う。先にも話した通り私は冒険者だよ。領主の命でなければこのような陰気な場所には来ない」
私の笑みに、チッカはただ首を振った。
「その剣、紋章を外してあるけれど、二十年前に使われていた教会騎士の剣です」
「……何と」
「エレノー凱旋記念の……選ばれた騎士だけが持つ剣なんですよね……この子が、教えてくれました」
少女の肩の上で竜は動かず、ただ目を細めた。
「いや、違う。………私は、騎士ではない。そう、今は使命などない」
「だったら」
「できないのだ」
彼女の声に滲む懇願の響きは本物だった。だからこそ、私も答えねばならなかった。私は首を振った。
「確かに私は、公道に展開した討伐隊の包囲を、君が抜けてくるだろうと期待していた。君が躱したあのぼんくらどもは私の元同僚たちだ。不実を暴いた私に、逆に罪を着せて追放した愚かな連中の集まりだ。奴らに討つことができる程度の娘なら、中央もわざわざ君の首に手配書など回すまい……わかるか。私の目的は初めから君だったのだ」
私は泣きたくなる思いだった。
「私は手柄が欲しい。君の首と竜の子を提げて中央に掛け合い、その功を以て再び教会騎士の叙勲を受けるつもりだ。君の目的も、それを教会が受け入れぬ理も、私はわかっているつもりだ。神ならぬ我が身の天秤にそれらをかけ、私は選んだのだ。行く手にあるものが黄昏の世であれ、その世界に今一度私は受け入れられたいのだ。どうだ、力を貸してくれないだろうか」
チッカの返事はわかっていた。
互いの呼吸が白く夜気に消えていた。彼女は盾を持ち、斧の刃を下に向けて、ただ立っていた。
私は剣を鞘から抜いた。そして、地には突き立てず、切っ先をチッカに向けた。
それを見て、チッカは少しだけ悲しそうに笑った。
「あなたは、一度も私の背に打ちかかることはありませんでしたね」
「ああ、そうだ何度も機会があった。しかし出来なかった。私はどうしても出来なかったのだ」
竜の子がちち、と鳴き、するりと少女の肩から降りた。何を思う声なのかは、わからなかった。
星が瞬いていた。
極星は星々を従え、二人を見下ろしていた。
私は剣を高く構えた。
チッカもまた盾を高く掲げ、薄帳のような前髪の向こうから私を見据えた。迷いのない目をしていた。姿に騙されてはならぬぞと戦士の勘が告げていた。事実、油断ならぬ相手であった。話が確かならこの少女は過去にも二度、討伐隊を振り切り、聖都より派遣された教会騎士レオウィンを一騎打ちで破っている。
私は重心を左に変えた。盾に隠れて見えづらい位置で、チッカの斧の刃が向きを変えた。
半円を描くように歩き、移動した。
チッカの足がそろりと動いた。わずかに身を沈めた、ように見えた。だがそれよりも彼女の靴底がじりと鳴ったことの方が重要だった。瞬間、私は足元の砂を蹴り上げた。予めこの場所に撒いておいた細かな砂が地吹雪のように吹き上がってチッカの胸を襲った。彼女はたじろいだ。盾を掲げる手が揺らいだ。それを目にした時私はすでに彼女との距離を一歩分まで詰めていた。剣を振り下ろした。チッカは反応した。盾が剣を受け止めた。だが弾きはしなかった。姿勢が崩れた。そこへ打ちこんだ私の二撃目をチッカは転がって躱した。
剣を引き戻した。その時私の胸に隠していた聖母の護りが突然びしりと罅割れた。それは私が教会騎士だった時から身に着けていたもので、悪しき呪いを払う司祭の祈りがこめられたものだった。呪術が自分を襲っていたようだ。チッカに呪いを操る余裕があるとは思えなかった。
あの竜の子の仕業か。考える暇はなかった。チッカが鼬のように飛びこんできた。低く構えた盾を槌に見立てて体ごとぶつかってきた。私は大きく撥ねのき、同時に襲いかかってきた斧の一閃を捌かねばならなかった。斬撃は華奢な体に比べて信じ難いほど重く、また燕のように素早かった。チッカの得物は柄が短く、彼女はそれを息も切らさず手元でくるくると操った。間合いが頻りに伸縮した。御前試合で近衛槍兵を相手にしているかのようだ。打ち合ううちに私は手数で押され始め、幾度か踏み誘われ、焦燥を感じた。ところがその時チッカの足がまたも砂に掬われ、彼女の呼吸が乱れた。私はすかさず剣を横凪ぎに振るったが、彼女はそれを盾で受けず、斧の刃で絡め取った。彼女がひと息に腕を振り、剣が私の手から奪われた。その時私はとっさにチッカに組みついた。私の剣を取り上げ降伏を促すのがチッカの狙いだったのかもしれない。それ故の油断か彼女は私の手にたわいもなく腕を掴まれ、ねじり上げられた途端に斧を取り落した。盾を引き離し、私はチッカを組み倒した。
二人して地面に倒れ、その拍子に私はチッカの細い首に腕を回して締め上げた。聖母の護りがその時、大きな破裂音を立てて砕け散った。破片の粒が頬を掠めた。竜の尾を探す猶予はなかった。私は歯を食いしばって力を込めた。チッカは喘ぎ、足をばたつかせた。私は全体重を込めて彼女を押さえつけた。
「頼む! 頼む!」
私はそう叫んでいた。知らず涙を流していた。何の涙なのか自分にもわからなかった。
突如視界いっぱいに星が弾け、私の目は閃光と同時に暗闇に包まれた。それはチッカが握って私に叩きつけた骨と聖母の護りの破片が混じった砂だった。打たれた犬のような声が喉からほとばしった。目を抑えてのた打ち回ろうと痛みは消えなかった。そしてその隙に抱き止めていた温もりが私の腕からどこかへ去ってしまったことに気がついた。
目が開かなかった。私はのろのろと立ち上がり、感触だけで剣を探した。見つけたのは剣ではなくチッカだった。ひどく咳き込み、よろめきつつ私の間合いから逃れようとしていた彼女の服の裾だった。私は唸り、飛びかかろうとした。だができなかった。足元が凍りついたようだった。恐怖が全身を駆け巡り、手足が震えだした。遥かな頭上から私を冷ややかに悪意を持って見つめる獣に似た何かを感じた。それが〈凝視〉の呪術だとわかったところで私はもはや口も動かせなかった。何も見えなくなりつつあった私は、突如解放された。視界が急回転し、父親の肩に乗せられた幼子の視点のように回転していっぱいに夜空が広がった。極星が眩しかった。瞼を閉じることができず星々は輝きを広げて私の視界を白く満たした。
・・・・
チッカはうつむき、長いこと肩を震わせて息をしていた。
やがて呼吸が落ち着くと、乱れた髪を掻き上げ、斧を杖にして立ち上がった。
地面に散った血はすでに温もりを失って冷たく乾き始めていた。
竜の子は、チッカの肩に乗る。
『だから言ったのさ』
少女の耳元で竜の子はささやく。
『この手の男どもの心うちなど知れたもの。導きの教会騎士崩れが受けた聖杯は、今や下賤な欲望でいっぱいなのさ』
「……ううん、そんなこと、ないよ」
『はあ、よくも言えるものだね。油断を誘い先んじて討てと、僕の助言のようにしておれば、このような手間など無くて済んだものを』
チッカは答えず、刃の血を拭った。
それから、もはや動くことのなくなった男の首を布で包み、そっと持ち上げると胴体のそばに置いた。苦労して体を仰向けにし、腕を祈りの形に組ませた。
『僕の秘儀に救われたことを感謝してくれよ、チッカ。君のその甘さは幾度白刃が掠めても治りそうにはないらしい。ああ、僕は君がただただ心配だ』
灰色の歪んだ翼を得意げに揺らし、尚もボストンはチッカの肩で言葉を続けた。その声が聞こえるのはチッカだけだ。古き竜の神の呪いを受けた人間にしか、竜の声は届かなかった。
『さあさあ、怪我はないかな? 治癒は要り用かな? ふむ、よさそうだね。ではいざ『竜の娘』よ。解放の儀を』
「うん」
チッカはうなずきつつ、オドウッドのそばに跪いたままだった。
目を閉じ、小さな声で、もう何百年も前に絶えた故郷の祈りの言葉を彼に贈った。
立ち上がり、斧を握り直すと、チッカは男の骸から離れた。
封印の木の前で足を止め、小さく息を吸った。
次の瞬間、振り下ろされた黒い刃が封印の木を頭から真っ二つに切り裂いた。
吹き出した輝きに、音は無い。
鮮血色の葉が燃え上り、火の粉となって森へと広がった。幹から溢れ出た黄金色の樹液は、最初、迷子のように宙をうねるのみだったが、やがて遥か眼下の渓谷へ、幾つも枝分かれしながら力強く伸びていった。
チッカは「竜の娘」。
竜の神に選ばれし者。大地に封印されし竜の生命を解き放ち、再び恵みをもたらす使命を帯びた者。
極星は輝き、地上を見守り続けた。
解き放たれた光はやがて森に、川に、あまねく広がりゆくだろう。
チッカは膝を折り、再び祈りを捧げる。
・・・・
祈るチッカの背を、私は見ていた。
彼女が顔を上げ、空を見上げた時、私も共に空を見上げていた。するとまったくだしぬけに、私は自分が光のひとつに吸い込まれ、空を流れる赤い糸のとなって宙を漂っていることに気がついた。もはやチッカの姿も竜の姿も見えなくなった。
赤い、艶やかな林檎のような火を私は見ていた。
かたわらの壁に花模様の壁飾りが飴色の衣をまとって私に微笑んでいた。妹が幼い頃に作ったものだった。私はようやく、自身が長い旅から我が家へと帰ってきて、ここに寛いでいたのだということを思い出した。温かなまどろみの中で見ていた夢が薄くぼやけて形もなく、私もまた思い出すことはしなかった。
背中で、母と妹が夕餉の仕度をする楽しげな声がした。
薪がぱちりと弾け、火の粉と共に林檎の香りがした。
私は安らかな心地で目を閉じ、椅子に身を預けて、ゆっくりと息をついた。
終
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