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祠にて
雨は随分前に止んでいた。湿った落葉を踏みながら近づいてくる足音を、私は、薄闇の中でもはっきり耳にすることができた。
入口そばの通路に焚いた火は、すでに小さな燠となっている。私は椅子代わりにしていた石棺から離れ、枯れ枝を使って炭を崩した。
炭の香を感じたのだろう。気配は、入口でぴたりと足を止めた。
ためらいの滲む沈黙が過ぎ、それからまず、私の視界に髪が見え、やがて恐る恐る、少女の顔が入口の左手から現れ、私の方をのぞき込んだ。彼女の吐く白い息が、夜気に浮かび、音もなく滲んでは消えた。
私は剣を抜き、地面に突き立てていた。少女の目が私よりまずその刃に向いたことに気づき、私は自分の失策を知った。
「御身に平穏あれ」
私は立ち上がり、そう声をかけた。
「一戦交えた始末の不行き届きを詫びておきたい。魔物はいないよ。私が片付けた。もっともこの奥の骸骨どもが君の待ち合わせ相手だったというのなら、それも詫びねばならないところだが」
石窟にただよう陰気な湿気を払うように、私はことさら気さくに、村の娘をからかう傭兵のような口調で笑ってみせた。
少女は答えず、やはりためらいを見せていた。
と思うと、ぷいっと髪を翻して姿を消した。私は腰を浮かしかけたが、気配が遠ざかってはいないとわかり、すぐ石棺に上に腰を下ろして待つことにした。
ややあって、挨拶が聞こえた。
「……二つの日が照らしますように」
おずおずと入ってきた少女は、石棺に腰掛ける私を見、その背後の石壁を見渡し、その壁面に掘られた紋様に少しだけ目を止めた。
「竜を崇めるいにしえびとの、青石で描いた紋様だ。南都の旅籠の飾りにも劣らない……火のそばに寄りたまえ。雨に濡れていたのだろう?」
「ありがとうございます」
少女は礼を言い、火の近くまで歩くと、ゆっくりと膝を折った。
私は彼女の身なりを見る。古びた旅装束には、ほとんどこすれて消えかけた巡礼者の聖印があった。長い髪を束ねているが、それもずいぶんと乱れている。瞳を隠す前髪も、雨露に濡れて瞼に半ば張りついていた。衣服も濡れて黒ずんでいたが、その肩口には、明らかに雨とは違う色の黒ずみがあった。血の色だった。
少女は傷を負っていた。
私の視線に気づいたらしく、少女は身じろぎをした。それから、きまり悪そうに眉を下げ、微笑んだ。そしてようやく主の手を離れたものが脇に置かれた。彼女の得物だった。3タルク(50センチ)ほどの幅の革張りの盾と、柄に比べて小振りな刃を持つ、黒刃の斧だった。それら一連の動作が終わった時、私と少女を包むこの墓所を、湿った沈黙が再び包んだ。沈黙が闇に響く時間となっていた。すでに空は星々のものとなっている。
手当てをするがいいと少女に言い置き、私は火を強めると剣を鞘に納め、入口へ足を向けた。
外に出て、凍える夜気を胸に吸い込みながら、宵の帳の降りた森を眺める。公道を大きく離れた森の果て、切り立った渓谷の崖にあるこの墓所からは、街の灯を見ることは叶わない。仮に灯を見ることがあるとすれば、それはさまよう霊魂だろう。あるいは彼女に傷を負わせた者たちの掲げる松明か。幸い、見渡す限りの青い闇にはそのどちらも現れなかった。
夜空は冷たく冴え、木々は押し黙ったようにいじけた枝を掲げて黒々と静まり返っている。遥か天空の星だけが自由を謳歌するかのごとく、さやかに瞬いていた。渓谷の向こうで、大地は乙女の肩にも似た緩やかな斜面を帯び、そのため空は広く開けていた。北の果てを指し示す極星の白い光、その輝きを囲んで鰊のように群れをなす星々の渦がよく見えた。
私は手元の剣の位置を確かめつつ、そっと振り返った。
火のそばを勧めたにも関わらず、少女は壁際に寄り、少しでも体を隠そうとしたいのか背を縮めて、入口から目を背けていた。おかけで私は、彼女の観察を見咎められることはなかった。
少女は分厚い外套を苦労して脱ぎ終えようとしているところだった。
巡礼者に与えられる旅装束だが、赤黒い染みの目立つ衣服を取り去ると、首筋から背中にかけて白い肌が露わになった。浅薄な傭兵なら口笛でも吹くところだろうが、そこに走る深い亀裂のような傷を見てはそうもいかなかった。肩と脇に、槍か剣の一撃を受けたのだろう。恐らくは正面と右から、背を隠すように長い髪が垂れた。頭巾で隠されていたが、
少女は傷を布で拭い、それから鞄を探った。うつむいたまま何事かつぶやき、目の高さに持ち上げた鞄を左右に振って、それからまた何事か、ささやいたようだった。
時をおかず鞄の上蓋がめくれ、灰色のおかしな影が姿を現した。それは素早く少女の背中を這い上り、傷口でぴたりと止まると、赤いてらてらとした舌で少女の傷を舐めた。
少女の背が震えた。
私も、震える声で思わずこう言った。
「……竜の子か」
声が演壇の司教の声のごとく墓所に反響した。
死者が眉をひそめて寝返りを打つ音を聞いた気がした。
少女が身を固くして服を掻きあわせ、私の方を振り返った。だがその間も、灰色の、醜く尖った翼を揺らす小さな竜は少女の傷を無心に舐めていた。その唾液に宿る霊力が、薬草よりも遥かに傷を癒すのであろうことは想像に難くない。
「し、失礼」
私は彼女に背を向けた。
「それは、竜だな。生きた竜族を見るのは初めてだ。間違いなく本物なのだな。思わず声を上げてしまったよ」
言いながら、私は顔を背けた。剣をもう一度握ったが、もう振り向くつもりはなかった。
「ええ、……竜です」
少女の声がした。
「危なくはないです。大丈夫」
少女は、ちょっと笑っているようだった。
少女は「どうぞ」と私を呼んだ。
私は火のそばに戻った。
彼女の姿に違和感を覚え、その原因が、大きく乱れた髪をもう一度丁寧に編み直したことにあると分かった時、たとえそれが勘違いであっても私は喜びを認めねばならなかった。身だしなみを整えて対面するにあたる相手を見なされたことに途方もない救いを覚えるのだった。
感情を悟られないことを祈りつつ、私は彼女の向かいに座った。私を見る少女の顔は。先ほどよりも幾分和らいでいた。
「私はオドウッドだ。冒険者をしている」
剣を鞘に納めて石棺に立てかけ、私は言った。
「領主の依頼を受けて、森に棲む獣の数と、この遺跡の状態を調査していたところだ。ここはひどい森だな。草は痩せ、獣も減り、弱った雛や鹿の仔を狙う悪鬼や亡霊ばかりがはびこっている」
実際、公道の賊を捕らえる余力すら、辺境の教会隊には残っていないのだろう。だから私のような流れ者が街々に必要になる。剣の柄を手にしたまま、私はそう話した。
「私はチッカです。この子は、ボストン」
少女は名乗った。
私はうなずいた。
チッカは公道の巡礼者だという。とすれば巡礼者を管理する「教会」が放って置かないだろう竜の子は、チッカの肩から懐に降り、退屈そうにあくびをしただけだった。
いにしえの、竜。
その血の一滴が金塊いくつになるかというのは、ひとまず別の問題だ。竜は滅んだ。それが教会の公式な発表なのだから。神話の時代に隆盛を誇った彼らの足跡を示すもの化石と、彼らと共に神話の世を生きた者たちの遺した遺跡と、伝承者も絶えた古文書のみだ。
チッカは西からやって来たという。
語ったことと言えばそれだけで、先ほどの傷については何も触れなかった。決定的な一言を避けたまま火を囲んで、小麦の獲れ具合や魔物の分布など、しばらく当たり障りのない話をした。
前髪に隠されていたが、チッカの瞳は、話の内容に合わせて思いの他くるくるとよく回った。盾と斧で武装していなければ、それは山葡萄を詰みに来た素朴な村娘の仕草だった。私は、以前西の山岳地方に遠征した時、駐留した街で聞いた農村の風習を思い出していた。そこでは成人前の娘はみな、前髪を切り揃えずに目を隠すのだ。
話はやがて尽きた。
気づけば私とチッカは黙り込み、再び燠となった火を向かい合って眺めていた。チチ、という鈴に似た音が、先ほどから時々、二人の話に割り込むように聞こえていた。何の音かわからなかったが、話が尽きた今、それがボストンという竜の鳴き声なのだとようやくわかった。ボストンはしきりにチッカの方を見上げ、首を揺らして、小さな声を立てていた。
チッカは、じっとボストンのことを見ていた。
「……この遺跡は今、教会の管理下にあるのですよね」
やがて、そう言った。
「そうだ」
「守護者はいないのですか」
「いない。いや、いたのかもしれないが、今はいない。審問官も守護獣も。今では都の司教共も、この地をただの墓所としか思っていないのかもしれないな。そうでなければ私のようなあぶれ者など、門前で黒焦げにされてしまうところさ」
私はおどけて見せた。
チッカは黙っていた。乾いた前髪が火の明かりを浴びて、綿毛のように所在なく瞳の前を揺れていた。
「――竜の力は、生命の力。竜の血は、命のうねり」
火を見ながら、ぽつりと言った。
ボストンが、何かのにおいを感じたように、鼻面を高く持ち上げていた。だがそれだけだった。
「そうだ。封じられた生命の、混沌の力だ。……どうだ、君は興味があるかね」
私はチッカに問いかけたが、彼女は無言のままだった。
「見せよう。奥だ。来たまえ」
私は、彼女の返事待たずに立ち上がった。
チッカは私の背中を見ているようだった。竜の子が、また鳴いた。チッカは迷うように立ち上がり、ゆっくりと服の埃を叩いた。私の剣をちらりと見、斧と盾を取り上げて、私の後に続いた。竜の子は彼女の肩に止まり、私を見ていた。
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