ケムる

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 気付くと、僕は体躯のいい男に身体を預けて歩いていた。右足を引き摺っていたが、どうやら致命的な痛みはない。まず第一に、死んでいない。 「すぐに分かったよ。訳の分からない言葉を叫んでいたから。お前だって」  ぼやけた視界で右横に目をやると、茶髪のイケメンが優しく微笑んでいた。見覚えがある。近所に住んでいる親友のズマだった。僕が学校に行かなくなってから、久しく会っていない。 「お前が遺言みたいな文章送って来たから、心配してアパートまで行ったら、手前で叫んでる奴いたから、ああもうこれはお前か人魚かだと思って、見たら案の上だよ」  どうやら助かったらしい。川は見かけよりも浅く、雪も降り止んでいたので、背中の打撲と右足の捻挫だけで済んだようだ。腹が立つ。結局僕は死にたかったんじゃない。誰かに助けて貰いたかったのだ。心配して貰いたかっただけなのだ。ズマは僕を大学前のコンビニの駐車場のブロックに座らせて、温かいコーヒーとおでんを買って来た。何故か二人ともどちらかの部屋には入らず、帰り際に学校の体育館まで行って、寒空の下、二人でおでんを食べた。僕は一言も話さなかった。どれだけ時間が経ったかは分からない。だが靄の掛かった墨汁のような夜は次第に緩和されて、乾燥した鮮やかなブルーが山の向こうからやって来た。湿度の匂いは急激に消え去った。もうすぐ朝が来る。  ズマは僕を部屋まで送ってくれて、去り際に「たまには学校来いよ」とだけ言って帰った。僕とは人格に大きく差があるようだ。不釣り合いな、いい友人を持ってしまったらしい。  部屋に入ると、電気を点けたままだった。歩く度に全身から水が滴り落ちる。靴下の跡がナメクジみたいに這う。思いの外身体が凍えているのに気が付いて、暖房のスイッチを押し、浴槽にお湯を溜め始めた。洗面所で鏡を見ながら、涙とそれを流した川の水でグチャグチャの顔を眺める。なんとも醜い。ムシャクシャして、髪を掻き乱すと、白い背景に黒い点が落ちた。注視してみると、小指の爪の先ほどの大きさの、丸い幼虫のようなものが蠢いていた。小学生の頃、川の冒険でよく石の裏に着いていた生物に似ている。そうだ。ヒラタドロムシの幼虫だ。あの川には、簡単に見えないだけで、確かに生物が存在しているのだ。春先は間近かも知れない。ミクロな世界にしばらく没頭していると、突如としてマクロな鈍器で後ろから頭を殴られるような感覚に陥った。浮遊するような感覚で、ジャケットも脱がず、僕はベッドに飛び込んだ。  起きると、外はまたもや暗かった。眠りが浅かったのではない。しっかりと半日熟睡していたのだ。人間には不幸が似合うように、僕には夜が似合う。水の音がする。流れる水の音。緩やかな滝の音。源を突き止めるべく洗面所の方へ向かうと、浴槽はお湯で溢れ、洗面所まで水浸しになっていた。大惨事だ。アパートの構造には明るくないが、下の階にも漏れ出ているかもしれない。幸い、不真面目に蛇口を捻っていたようで、水流の線は細かった。そのおかげで日本沈没を免れたようだ。有りっ丈のタオルを掻き集め、応急処置に走る。すると間が悪く玄関のチャイムが鳴り、間の悪さに空に向けて悪態をつきながら向かう。ドアを開くと、そこには涙目の瑞希が潤んだ目で立っていた。「心配したんだよ」と子供みたいに無邪気に言うと、同じく無邪気に抱きついた。僕は不意を突かれてよろけ、後方に倒れそうになったが、強く抱きつき返すことでバランスを保った。欲しかったのは、この温もりだ。部屋に入ると、向かい合うようにして楕円形の平机に座した。彼女はさり気なく持っていたコンビニのビニール袋から、お酒を二缶出して真っ赤な目と笑顔で「飲もう!」と言うと、あまり強くないチューハイを開け放った。連絡したのに、心配したんだよ、あなたが居なくなったら私どうすればいいの?と畳み掛けながら、純白の肌は徐々に桃色になっていた。彼女は弱い。そこが愛おしい。それでも病み上がりの僕は楽しんでいる調子で皮肉を言ってしまう。 「それにしちゃ、来るの遅かったじゃん。瑞希ちゃん」  途端、彼女は机に突っ伏した。様子を伺えど腐ったみたいに微動だにしないので、隣に行って揺すってみる。すると、獣のような速度で起き上がり、一縷の涙を流すと、分厚いキスをしてきた。突拍子もなかった。こうなることが端から分かっていたなら、歯磨きをする時間がなくても、リステリンを樽に注ぎ込んで、顔ごと突っ込んで口を濯いでいればよかった。彼女は一度顔を引いた。どうか満足してくれないか?絶望的観測だけが頭の中で勝る。しかし裏腹に、彼女はもう一度キスを迫ってきた。どうやら、それなりに満足してくれたようだ。この雪に染まった肌と輝かしいブロンドの、ハーフみたいな綺麗な顔立ちの女性と、一戦交える世界線が遂にやって来たのかも知れない。陰と陽が交わるのかも知れない。この人を、自分のものにしたかった。願いは叶うのだろうか。それは思わぬ形で。彼女はキスをしたまま僕を押し倒し馬乗りになった。下半身では腰を振るような仕草をしながら、食道を目指す勢いで舌を伸ばす。勿論届くはずはないが、口内で蛇のように蠢く彼女の一部に、全神経が痺れてしまった。ワンルーム、美女が野獣にride on。あまりの興奮に酸素が欲しくなり、顔を背けようとすると、僕の顔を両手で挟み込み固定した。ああ、そういうことか。彼女は僕を窒息死させようとしているのだ。生半可に死のうとした僕を、自らの手で絶ってやろうとしているのだ。堪らず、今度は彼女の顔を背けようとしたが、両手を両手で制止された。磔みたいだ。ある程度の量の唾液を僕の中に入れ終わると、ブロンドを掻き上げながら彼女の方から起き上がった。笑っていた。血走った目は、大切な人を愁う目ではなかった。獲物にありつく直前の、豹の目であった。レザージャケットを着た野獣が、僕の上に軽く乗っていたのだ。だが生物として美しい。下から見る彼女は壮観だった。ずっと、この状態のままでいて欲しい。もう一度キスをしてくれる素振りを見せたが、違っていた。今度は僕の左肩に顔を沿わせて、隙間無く身体を密着させた。熱力学で学んだことがある。熱は高い方から低い方へ移動する。つまり彼女は、僕の温もりを吸い取っているところなのだろう。満足した彼女は左耳にキスをする序でにそっと囁いた。 「私ね、彼氏と別れてきたの」  甘い唇でそう言うと、途端咆哮のように泣き出した。身体中の水分を全て捧げるほどの涙を流した。慰めようと彼女が絡みついたまま起き上がったが、それでも泣き止むことはなかった。僕は竿だけ熱くして、何もできなかった。違う、これは抱いてという合図。ブロンド以外、からっきしの清楚である彼女の正体は、野獣だったのだ。しかし分からない。正解が分からない。それでもし傷つけてしまったら?この後の展開で、いい関係になれるかも知れないが、もしそうならなかったら?僕は、彼女と二度と会えなくなるのなら、友達のままでいい。僕は、誰よりも、意気地なしだ。彼女をベッドに連れて行き、最も強く抱きしめた。何度もキスをした。そして彼女が泣き疲れて眠りに落ちてしまうまで、優しく虹色の髪を撫でていた。
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