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寒さで目が覚めた。ベッド脇に置いてあるデジタル時計を見ると、午前三時。彼女は痕跡だけを残して存在を消していた。察した。悔しかった。もう一度、アパート前の川へ飛び込んでやろうか。いや、今度ばかりは本当に死んでしまおう。恐らく、彼女はして欲しかったのだ。求めていたのだ。答え合わせはできている。横たわる空虚が示している。頼むから鼾がうるさかったなどという理由であってくれ。君は、僕から逃げ出した。夜の合間を縫って、抜け出した。きっと、現在進行形で他の誰かに抱かれているのだろう。僕は瑞希を求めていたし、瑞希も僕を求めていた。なのに何故、こうも最悪の事態を招いてしまうのだろうか。クズだ。意気地なしだ。本当にどうしようもない男になってしまったのだ。据え膳食わぬは男の恥。僕は、恥の男だ。枕を何度か殴った後、枕に謝りながら泣きついた。今日に限っては、夜明けすら来ない。
前日に寝過ぎたせいか、珍しく昼に起きた。カーテンの裾から、白い陽光が差し込んできた。思わずカーテンを千切らんばかりに開け放つと、目一杯の青が広がっていた。山々はきちんと緑で、貴族の髭みたいな雲は悠々と泳いでいた。濡れた髪の毛に潜んでいた、ヒラタドロムシの幼虫が、きちんと春を連れてきたのだ。春の先っぽを引っ張って来たのだ。現状を忘れて、僕は少しだけ微笑んだ。
ボコボコにした枕の下から、スマホを見つけた。いつからか、画面が真っ暗なことに気付く。いつからだろうか。川に飛び込んだ時、ポケットに入れていたのに、何故か助かったスマホ。愛用のスマホ。何か、途轍もなく大変なことが送られて来ていると、根拠のない衝動に駆られ、即座に充電器を差し込むと、ブルブルと連続で通知が走る音がした。一番上は、当たり前のように瑞希だ。
〈私、今から首を吊ろうと思う〉
通知が来ていたのは約一時間前。僕は形振り構わず飛び出した。瑞希の家まで徒歩五分。走レ、走レ。辿り着いた。お洒落なカフェのような赤い建物。強盗のような勢いで突入する。このアパートは、男どもが住むのとは格が違っている。まず入り口で部屋番号を押し、チャイムを鳴らし、住人に許可されて初めて手前のドアロックが解除される仕組み。一○三を入力、確定。チャイムを押した。瞬間、全ての不安が一時的に払拭された。ドアロックは、すんなり解除されたのだ。ホッと一息つく間もなく、奥の一〇三号室を目指し玄関に着くと、今度は扉一枚のみで隔てられたチャイムを鳴らした。スピーカーから、微かな声がする。泣いているようだ。もしくは泣いていたよう。
「来てくれたの……ありがとね。ごめんね」
「今日の晩、ご飯でも行かない?開店三十分前になったら、俺が電話して、予約するから、いつも通り飲みに行こうぜ」
「え、いや……うん」
思った通りだ。僕に似ている。彼女は、誰かに助けて貰いたかっただけなのだ。僕がズマに送った遺言を、彼女の場合は僕に送っただけなんだ。僕はやっぱり、彼女が好きだ。これからは厚かましくなろうと思う。
「いいだろう?よかった。決定だね。ところで瑞希、そろそろ美人さんな御尊顔見せてよ。肺をパンクさせながら駆けつけたんだから、さすがに会いたいよ」
「ダメなの。ごめんね。カーテンをね、ドアノブに巻き付けたりしてて、一人ぼっちで死ぬもんだと思ってたから、すっぴんなの。さすがに見せられない」
「いいよ、俺たちの仲じゃん。とにかく、瑞希の無事を確かめたいんだ。能面でも被ってくれていいから、姿だけでも見せておくれ。御尊体だけでも拝ませておくれよ。瑞希が心配したように、俺だって心配なんだよ」
すると、ドアがゆっくりと片足分だけ空いて、細長い手だけ出て来た。
「はい、お土産、ちょうだい」
僕はその手を握りしめ強行突破した。彼女がしたように、僕から強く抱きしめた。彼女のすっぴんは、まさに能面そっくりだった。なんてことはない。どこが気に食わぬのか、いつも通りの、ハーフのような整った顔立ちのままだった。二日間歯磨きをしていない僕は、それでも我慢できずにキスをしてしまった。彼女は驚いた様子で、それでも嬉しそうな様子で、身を任せてきた。
寄り添うようにして部屋に入ると、真っ白を基調としたワンルームには、数多の段ボールが重ねられていた。以前来た時も整理整頓された几帳面な部屋であったが、これはやり過ぎだ。恥じらうように先ほどから俯いて落ち着きがない。
「これ、どうしたの?」段ボール群を指して言うと、気まずそうに笑った。そこで異変に気付いた。僕は彼女の顎を甘いキスをするように引き寄せて、しっかりと正面を向かせた。泣きすぎて腫れている、もしくは大きな隈だと思っていた、彼女の大きな目の周りのシャドウは、明らかに青痣だった。左目の下から頬にかけて、不気味な染みが横たわっていた。
「誰にやられたの?」
「いいの。気にしないで。大丈夫だから」
彼女は涙ぐんで、悔しそうに、振り絞るようにそう言った。僕は、どうしようもできない。彼女の彼氏は強面なのだ。そうじゃない。例えそれが関係あってもなくても、どうすることもできないだろう。僕は瑞希の、都合のいい人間になることしかできない。彼女が望んでいる限りそれにしかなれないのだ。そして現に、そう望まれている。それ以上の行いをしても、以下の行いをしても、彼女にとって、僕は話を聞いてくれる抱き枕に過ぎない。いや、もっと下等であるかも知れない。天地がひっくり返ったって、瑞希に僕は似合わない。ならばいっそ、ここで一緒に死んでやろうか。最後に幸せに襲ってやろうか。ほら、儚い。僕は最後までいい人を演じ続けなければならない。そういう運命だ。ベッドを背もたれにして平机を前に座ると、彼女は回り込んでまた馬乗りになった。今度は二人とも座ったままで、そこに真夜中の妖艶な獣の姿はなかった。彼女は腰を振るでもなく、左肩に顔を乗せる習性だけそのままにして、巨大な何かから落ちないように、必死に僕にしがみついていた。決して離さないように、彼女の外骨格を一回り小さくさせるほど強く抱きしめた。
落ち着いてから、彼女は僕の部屋と同じように、換気扇の下でセブンスターを吸いながら話してくれた。僕も煙草を吸いながら聞いていたが、よくもまあ当人がいる前で赤裸々に言えるな、と思った。しかしあくまで僕は都合人間であるので、親身なフリして全貌を聞いていた。
つまりこうだ。僕を心配して来たと思っていた夜、彼氏と喧嘩して、別れて来ていたらしい。ムシャクシャして、誰でもいいからヤりたかったとのこと。そこで、一番近い男友達の僕を心配がてら訪れた。黙って抱いて欲しかったのに、してくれなかったから、喧嘩別れした彼氏とはまた別の、その前の彼氏のアパートに向かい浴びるようにセックスをした。しかし帰り道、なんだか悪いような気がして別れた彼氏の元へ仲直りしようとしに行くと、セックスして来たのがバレて殴られた、とこのようなわけであった。僕の役割は唯一つ、「彼女を失望させる」それだけだったのだ。随分と呆れてしまった。表面上は、彼女に寄り添うようにして、「瑞希は何も悪くないよ」と言って感傷的になった“フリ”をしていたので、瑞希は満足なようで、煙草を吸い終わると立ったまま、少し見上げるようにしてキスをしてくれた。僕はこれで、全ての記憶を抹消され満足だけが残る。天女に恋する単細胞な沼地のぼんくらだ。
その日、夕方まで彼女の部屋にいたが、何をするでもなく、話を聞き慰めるを繰り返していた。ご飯に行く予定など端からなかったことになった。疲れたと言い彼女はベッドに潜った。僕が入ろうとすると「明日早いからね。ごめんね。今日は来てくれてありがとう」とむにゃむにゃ言ったので、「ああそうか。そういうことなのか」と歴史のように繰り返す落胆と共に部屋を出た。
涙を堪え、道行くカップルの繋ぐ手と手をゴールテープのように切りながら、来た時よりも速く走って帰る。自分の部屋のベッドに飛び込むと、半ば薄れた彼女の匂いで深呼吸をしながら眠りについた。
午前三時。腹時計は勝手にアラームを鳴らす。雪は降ってない。窓を開けると、肌寒いが、刺すような痛みはない。もうすぐだ。きっと春が来る。僕は迷惑ながらズマに連絡し、冬眠していた自転車を借りることにした。シャーベットぐらいなら、このバイクで行けるはずと、お高い自転車を気軽に貸してくれる、やはり人格者である。
僕は直ぐさま走り出した。午前五時には出発していた。雪は思いの外積もっておらず、走りやすい。街を抜け、木々を抜け、山を抜け、随分と自転車にも慣れ、スピードが上がる。それに目的地付近は山道。車なんて通りゃしない。我が道を行く、我が道が望みの通りの形で開けて行く。グルグルと綺麗な曲線を描くカーブを曲がる。風が強くなる。湿っぽい潮の匂いに唆されて、ペダルの回転は速くなる。辺りは仄暗い。しかしもうすぐだ。ライトが常に心強く道を照らす。咆哮を示す。台風のような風によって、自転車ごと吹き飛ばされそうになる。案山子のように堪えては、もうすぐ、さあもうすぐだと言い聞かせる。山の木々が一斉に開けた。デートスポットとしても、心霊スポットとしても有名な、この街を象徴する岬へ辿り着いた。水平線の向こうから、橙頭の海坊主が登場する。鏡写しみたくなった、空と海がそれを大事そうに挟む。同じ青色が、目に映る景色の九割を占める。海坊主に照らされて、髭雲はピンク色になった。僕には朝焼けと夕焼けの違いなんて毛頭分からない。ただ、心が細く搾られる感覚は分かる。これが感動ということなのかも知れない。これが、生きるということなのかも知れない。彼女からの連絡を待つ。きっと、来てくれる。必ず来てくれる。ほら、来たぞ。
〈黙っててごめん。私、大学を退学したの。今日でお別れ。今まで色々とありがとうね。大好きだったよ〉
海坊主が冷やかしの笑みを浮かべている。生意気だ。僕はこんなにも美しい夜明けを初めて見た。こんなにも世界が美しいなんて、初めて知った。皮肉だな。もうすぐ春が来る。朝が来た。
海坊主の顔面を飛行機が横切った。そんな筈はない。朝焼けで目を焼きながら進む飛行機なんてあるものか。あれはきっと、瑞希が乗っている飛行機。それもない。今はまだ空港にも着いてないだろう。引っ越しや賃貸との契約云々は潔く解消できたのかしら。いや、やはりあの飛行機に乗っている。今僕をじっと見つめている。頼む、行かないでくれ。君のいないこの街に、何があるっていうんだ。君のいない僕の人生じゃ、意味がないじゃないか。振り向いて、虹色の髪で笑って見せてくれなくても、傍にいれるだけで愛しいんだ。お願いだ。涙を流す僕を見つけて、雲よりも上の高度で見つけて、何も考えずに飛び降りてくれないか。そうすれば僕がこの岬から、あの床屋のポールみたいな紅白の本格的な浮き輪を投げて、君を救い出してみせるのに。大丈夫。二人でどこかへ逃げよう。夜が明けないように、大きな蓋で閉じよう。君が来ないなら、僕が行こうか。そうだ、それが一番容易い。
男は自転車に厳重な鍵を着けて固定すると、数日前と同じ過ちを犯した。
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