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雪道に二つの灯が揺れる。顔の近くにあったり降り下がったり、忙しない。もうすぐ春なのに、せめぎ合った雪が軋む音がして、四つの足跡をスタンプ。来年はどうする?僕ら、どうなっちゃうんだろうね。四年生になったら、さらに来年は卒業で、離れ離れになっちゃう。大人になっちゃう。それだけは避けなければ。僕らはまだ、生きていく術を確立できていない。向いていないのかもしれない。煙が顔にかかる。君は悪戯な顔をする。店では止めてくれよ。疑われたら厄介だ。ところで一つ、お願いがあるんだ。
「ねえ、瑞希。折り入ってお願いがあるんだ」
「セックスはしないからね」
君は、カーテンみたいに髪を乱しながら振り返った。僕は、打ちのめされた。完熟トマトの心臓が、か弱い握力によって握り潰された。全てを捨てて、赤く尖った唇を奪いたかった。勿論、叶うはずもない。
「僕らの仲だろ?そんなこと頼まないよ。あそこの街灯の下に立って欲しいんだ。それだけ。欲を言えば、一回転ターンをして欲しい。ほら、モデルみたいにさ。滑らないように気をつけて」
「え、なんで?変なの。まあいいけど」
そう言って笑って、トコトコペンギンみたいに歩いて行った。
「ここでいい?」
僕は十分だったが、あえて不釣り合いな一眼レフを持ってる風に構えて、頷いた。彼女は少し勿体ぶった後、バレエダンサーみたく天空に対して華麗に円環を描いた。肩下までのホワイトパールのブロンドは虹色に輝いていた、と思う。定かではない。なんせ、彼女のはにかんだ顔しか見ていなかった。本当は、髪色が光に照らされて、何色に輝くかを見ておきたかったのだ。しかし忘れてしまった。あまりに純粋に笑う、ほほの赤らみや、長い睫毛ばかりに注視して、目的を果たせなかった。長方形を作った指のフレームを胸まで下して、ただ見惚れていた。どうしようもない男だ。ターンの後少しバランスを崩した彼女のことも、放っておいてしまった。スローモーションのシーンを切り取ってしっかりと保存しておくことで、現像して写真立てに収めておけるように、しっかりと胃腸まで落とし込んでいた。いつか家族ができたら、その写真立てを居間に飾るんだ。扇みたいに広がった、虹色の輝きを纏ったブロンドの若い女性の写真を、ずっと飾っておくのだ。そうすることによって、僕はこの日を生涯忘れないでいれる。忘れない限り、生きていけるのだ。
親元へ帰るペンギンみたいに戻ってくると、一寸の距離まで近づいて来て、寒そうに足踏みをする。
「なんでこんなことさせたの?変だよ。正直ちょっと楽しかったけど」
抱きしめたかった。温めてあげたかった。でもできない。僕は彼女に、指の一本も触れられない。もう一度、煙草に火を点ける。同じ銘柄。帰り道はいつもこうで、いつも幸せで、時間はゆっくりと過ぎるが、別れる時がくれば早かったと感じる。もうお別れなのかと。今日もそうやって、彼女をアパートまで送った後に、一人寂しく帰路につく。
空は雪を降らし続けたまま、紺色になっていた。もうすぐ朝が来る。
カーテンの裾から、青黒い空が見えた。山々はシルエットになって聳え立つ。もうそんな時間か。起きなければ。立ち上がらなければ。今朝はそのまま寝てしまっていたから汗臭く、口内は粘り気で満たされる。これを消すには、まずお湯を沸かし、コーヒーを淹れる。すると口内も部屋もその香りに満たされて、時間軸のずれた身体が起動する。濃いブラックを飲みながら、仕上げの歯磨きにセブンスターを吸う。瑞希と同じ銘柄の煙草。彼女の匂いの一部が再現される。スマートフォンを見ると、電子じゃなかったらポストから溢れている数の通知が目に入る。厄介だ。トップにある〈瑞希〉の通知だけを開く。
〈今日もバイトなの。どうせ混まないだろうし、開店から来ない?〉
僕は即答して、早速支度を始める。いつも通り黒いレザージャケットを引っ掛けて部屋を出る。アパートの二階、二重になっているドアを開けると、頬にツバメのような冷気がぶつかった。階段の下からは白い世界。目の前の川には生物の気配すらない。雪が緩やかな軌跡をなぞって、水面へ追い打ちを掛けている。そろそろ僕らの春先を返してもらいたい。
待ち合わせのコンビニへ着くと、瑞希はすでに煙草に火を点けて円柱の灰皿に陣取っていた。一回り小さいレザーを纏っている。お互いの存在を認めると、僕も煙草に火を点けた。どうせ二人共寝起きだ。言葉は少なくていい。勤勉な学生が大学とこのコンビニを繋ぐ交差点を渡って来ている。最後の授業を終えたのだろう。
「何年生だろうね?」瑞希は煙と一緒に吐き出す。
「判らないな。少なくとも僕らよりは真面目だよ」彼女は「そうね」と言い、寂しそうに笑った。
瑞希のバイトまで少し時間があったので、二人で近くの居酒屋へ行き、決して腹を満たせぬ量の食事をし、いつものバーへ向かった。
「あら、いらっしゃい。彼氏ちゃんも来たの!」巨漢のママが迎える。「彼氏じゃないって」瑞希は笑いながらそう言い、僕は笑いながら軽率に傷つく。腰を据えてゆっくり二人で飲みたいものだが、瑞希は今からここの店員になる。ピンク色の電飾に彩られた学生限定のバー。価格は安い。
時計の針がてっぺんを回る頃、かなりの客が忙しなく来店していた。中には、教授混じりの研究室メンバーもいる。『学生限定』だったのではないか。瑞希は手が離せなくなり、用がある度吸っていた煙草を僕に預ける。それを野獣みたいな男どもの前で深呼吸みたいに吸ってやるのが常だ。気持ちも気分もいい。やっと一段落したのは午前三時。瑞希は帰り支度を始め、ママの「後やっとくからいいよ」を合図に店を出る。時間になる前から、今日の瑞希は落ち着きなく何度もスマートフォンに目をやっていた。重いドアを開けて外気を浴びる。雪は積もるだけで止んでいた。代わりに眼球が濁っている錯覚に陥るほどの靄が張り詰めていた。夜の帳を具現化したようだ。僕らはいつも通り、煙草を吸いながら帰路に着いた。少し歩くと、昨日彼女が天使に見えたあの街灯に辿り着いた。彼女は立ち止まり、「ごめん。今日行くところあるんだ」と言った。なんとなく察してはいた。
「逆方向でしょ、彼氏の家」
素直になれなかった。だから精一杯嫌味ったらしくしてしまった。彼女は気まずそうに頷いた。
「分かった。送っていくよ」
「いいの。一人で行く」
こうなったら彼女は頑なだ。しつこくやると他の男みたいに質が悪い。僕はあっさりと別れを告げた。彼女は華麗にブロンドを振り乱し、街灯を中心として僕と正反対に歩んだ。心なしか、嬉しそうだ。光に照らされて、肩下までの髪は虹色に輝いた。僕は、間違っていなかった。
道中、いてもたってもいられなくなった。長時間飲んでいるのだ。少しは酔いが回っていて、靄の中で独り取り残された感覚が強かった。女友達ならいくらでもいる。今まで無視していた通知画面を開き、この時間から一緒にいてくれそうな人を選ぶ。返信するのが面倒なので、直ぐさま電話を掛けようとする。しかし、緑色の丸を一向に押すことができない。指先が凍り付いた訳ではない。より虚しくなったのだ。身体を温めたい訳ではない。ただ孤独ではないことを証明してくれさえすればよかった。そのような人物は、一人しか知らなかったのだ。結局独りで家の前まで帰って来た。冷めるはずの酔いも醒めない。それどころか、顔が熱い。発熱ではない。寂しさでもない。これは、僕の最も苦手な『嫉妬』の症状かも知れない。そんな自分が嫌になる。ますます惨めじゃないか。内面だけではなく外界にも掛かった靄で、途方もなく息苦しい。僕は、小さな男なのだ。間違いない。
アパートの目の前にある川に、僕は柵を越え飛び込んだ。
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