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街の真ん中の噴水の囲いに腰掛けて、なかば呆然としながら、お昼時の小鳥のさえずりを聞いていた。
視線を落として、泉を覗きこむ。水面に映るのはみんなが振り向くような豊かな金髪の美少女。エンジ色のドレスがとても良く似合っている。
――でもこれは……本当の私の顔じゃない。
手に持ったピンク色の香水瓶を思わず握りしめた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
子供の頃からやせっぽちで地味すぎて、人に顔を覚えてもらえないことばかり。思春期になると、くしゃくしゃ癖毛のしょんぼりしたブルネットもコンプレックスになった。
そのうち声まで小さくなっていって、存在が透明になっていく自分を感じていた。
「ミント、もっと自信を持たないとダメよ」
「む、無理だよぉ……」
姉がいつもわたしを励ましてくれる言葉。でも、堂々とした優等生のあなたと比べられるのも、いつも辛いんだから……。
私たちは家事や家業の裁縫の手伝いをしているけれど、姉のほうは、試験を受ければ国立の魔法学校に合格して魔法使いになれるんじゃないかと言われていた。
ひととおり、私への"自信を持ちなさい講座"を終えると、姉は立ち上がった。
「お昼のパン、買ってくるわ」
「お、お姉ちゃん! パン屋ならわたしが行ってくるよ……!」
「んもう、あんたなんでか、いつも港のほうまで行くから遅いのよねえ。気を付けて行って、早く帰ってきてね」
適当な相槌を打って、私は財布を持って家を飛び出した。
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私が港に近いパン屋さんに通うのは、大好きな店員のロベルトさんに会うため。
街の中央部にもパン屋さんはあるけれど……、それに目的のパン屋さんに行くには途中で風が強い跳ね橋を渡らないといけないけれど。恋心が足をいつも橋の向こうのパン屋に向かわせる。
跳ね橋を越えてロベルトさんのお店に行くと、店の中は若い女の子でいっぱいだった。みんな同じローブを着ている。魔法学校の女生徒たちだろうか。
その真ん中に、黄色い声に囲まれたハンサムなロベルトさんがいた。
「今度、学長の握手会があるんだよ」
「スリヤクさんの握手会、いいなあ……。俺も行きたいなあ」
「あたしたちだって、学長のことは尊敬してるけど、握手してもらったことなんかないですよ」
みんな、有名人についての雑談をしていた。それをかきわけて、なんとかロベルトさんに声をかけようとする。
「すみませ……」
相変わらずみんなは楽しそうに話をつづけた。私の声が小さすぎて、届かなかったようだ。
ショーケースにもっと近づいて、いつものパンを指さして注文する。
「す、すみません。こ、こ、こ、このエピを五つください」
家の外の人と話すと、いつも、言葉が派手に"どもって"しまう。コメディ人形劇の登場人物に似ているからって、子供の頃はそれもよくからかわれた。
エピは、バケットよりも歯ごたえがある主食のパン。両親と、私たち姉妹と、おじいちゃんのぶん。いつも五つのエピを買うのが習慣だった。
ロベルトさんは、私みたいなちっぽけな人間にも、最高の笑顔で返事をくれる。
「いらっしゃい! ケースのパンとは別で今新しいのが焼きあがるところだから、焼きたてのほうを包むね!」
数分して厨房からたくさんのパンが運ばれてくると、ロベルトさんが太陽みたいな笑顔で無地の紙袋にほこほこのエピをひとつひとつ詰めていってくれる。
渡されると、焼きたてのパンの温度に手のひらがびっくりした。
お金を払い、ドアを出て、店内を振り返ると、ロベルトさんはパン屋のロゴが書かれたガラスの向こう側で、まだ可愛い女の子たちに囲まれていた……。
私は、ただの脇役。パン屋さんでも、街中でも、きっと名前も顔もないような脇役なんだ。物語の主人公はどこか他にいて、私は背景の通行人の役目にもってこいなんだろうな。
港のほうには風をいっぱいにはらんだ帆船が並んでいるのが見える。石造りの街の向こうに鷺のように気高く輝く城がそびえ立っている。
どのブロックの壁にも、国軍の英雄にして魔法学校の名誉ある学長、魔女のスリヤクさんのポスターが並んで白い歯を見せて笑っている……。
ここはなにもかも、明るくて素敵な街。私だけがそぐわないように思える。
その街のなかを、嘲笑されているような惨めな気分で小走りに帰った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とある日のお昼のパンを買って帰る途中だった。
またロベルトさんと話すときに、どもってしまって……。とても恥ずかしい思いで身を小さくして大きな跳ね橋を歩いていた。
私みたいに下を向いて歩いていると、日々いろんな落とし物を見つける。今日は橋の欄干の脇に、桜色の小さな箱が落ちているのを見つけた。
拾い上げて、落とし主を探そうとしたが、こんな人通りの多い橋で見つかるはずもない。しばらくおたおたその場で回転した後で、私は興味をそそられて小箱を開けてみた。
中に巻貝をデフォルメした丸っこい瓶があり、夕暮れの雲を溶かしたようなピンク色の液が入っている。そしてセピアの筆記体で書かれた説明書がついている。液体は、少しだけ使われた形跡があった。
(香水……?)
説明書を読んでいくうちに、鼓動の加速を抑えきれなくなってしまう。
そこには、"この香水を手に振りかけて、その手で誰かに触れると、触った人の姿を自分にコピーできる……"、とあった。
――間違いない。これは魔道具だ。普通の香水じゃない。魔法の力があるアイテムだ。
(もし、もしも、これを使ったら……。どんな私にでもなれるの……?)
ただし、効果はヒトツトキの間のみ。一時間だけという意味だ。
変身、変身できる……。一時間だけ。
あたりを見回してみると、金髪の美人な女の子が跳ね橋のすみで、夢中で河岸の家々のスケッチをしていた。折り畳み椅子の足元の土手にはコスモスがいくらか咲いていて、エンジのドレスが風にわずかに揺らめいている。
おとぎ話のヒロインみたい。「絵になる」、「華がある」ってこういうことを言うんだろう。
この子の姿なら、私はどんなに自由にのびのびと振舞えるだろうか。
手の中の香水の蓋を開けてみると、キンモクセイのいい香りが広がり、港のほうからの風に乗って流れていった。
指先に香水を少しつけて、彼女に後ろから近づく。誰かに気付かれたらどうしよう。心臓が早鐘みたいだ。
女の子に気づかれないほど軽く、そっと肩に触れる。
そして音をたてないように数歩後ずさりして、エピでいっぱいの紙袋に顔を隠し、何事もなかったかのように取り繕って土手から降りた。
(ごごご、ごめんなさい、ごめんなさい……!)
脳内でも、どもりながら、初めておかした"悪いこと"に心がぎゅっと締め付けられていた。
街の中心部へ向かうにつれ、身体に異変が起きた。とっさに住宅のかげに隠れないといけなかった。
少しずつ、私の姿が変わり始めたのだ。
髪が毛先から、じわじわと黄金色に変わっていく。ドレスが裾から、秋ブドウみたいなエンジ色に染まっていく。指先から腕にかけてひんやりしたものがこみあげてきたかと思うと、爪が伸びて女性らしい尖った形に変わっているのがわかった。
ひんやりしたものは体中を駆け巡って、最後にぐんっと少しだけ背丈が変わったのが分かった。悔しいことに、バストもだいぶ……かさが増していた。
視界に、自分の鼻が見えていて驚いてしまった。普通の人って視界に鼻が見えるのかな……。鼻ぺちゃには想像もつかないことだった。
もとの私の棒みたいな脚とはちがう、きれいに引き締まった脚で、そおっと歩き出す。
知り合いばかり住んでいる噴水広場にさしかかっても、誰も私に気付かない。いまだに私のことをからかってくる近所のいじわるな幼馴染が道の向こうから歩いてきて、緊張で身を固くしたけれど、彼女は私を完全に無視して通り過ぎて行った。
噴水に腰かけて、水面に映る自分の姿を見て、少しの間ぼーっとしていた。
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私は噴水から立ち上がって、ふらふら歩きだした。この姿のままでは家にも帰れないし、何よりも……、この姿で、話してみたい人がいた。
橋を戻り、港のそばのパン屋にもう一度入ってみる。すでにパンの香りがする紙袋を持ってるのに、パン屋に来るなんておかしいだろうか。
ロベルトさんはさっきと変わらず、美味しそうなバケットやら、ちび雪だるまみたいなブリオッシュやらを熱心に並べながら、仕事をめいっぱい楽しんでいる。
勇気を出して、話しかけてみる。
「すみません……。エピを五つください」
「はーい! 焼きたてが今上がるから、そっちを包むね!」
いつもの習慣でエピを頼んでしまった。声はいつもより大きく出せたかもしれない。出たのは、私の声じゃない鈴みたいな声だけれど。
彼は優しく微笑んでパンを紙袋に詰めてくれた。
店内にいた一人の男性客が、私の姿を見て「ほうほう」という感じの反応をしているのが視界の隅に見えて、少し不安になり、くすぐったく思った。
ロベルトさんが私に優しい笑顔を向けてくれる。
「お嬢さん、初めて来てくれたでしょ? なんだか秋の女神の化身みたいだね」
「そそそ、そう? ありがとう」
どもりが出てしまった。いまの私は美しいのに。
(これじゃあいつもと変わらないや……)
でも、ドアを出るまで、夢心地だった。「まいどあり」と、大好きな温かい声が背中に聞こえた。
女神……。美人って、毎日そんなことを言ってもらえるんだろうか。
やがて橋のそばへ来た頃、頭の上のほうからあのひんやりした感覚が襲ってきて。
パンケーキの上のシロップが垂れるように、私の容姿の魔法は解けた。
もとのしょんぼりブルネットの鼻ぺちゃに戻っても、私は彼の言葉を反芻していて、十個になってしまったエピといっしょに、ドキドキ膨らんだ胸で家まで帰った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
朝の光で広場は白く輝いている。掲げられた大きな旗も。今日は国軍の英雄にして魔法学校の学長、スリヤクさんの握手会が噴水広場で催されるのだ。
テンションの高い姉に早くから起こされて、私はこの場に連れてこられていた。こんなに噴水広場に人が集まったことがあっただろうか?人々の背中しか見えない。
広場のすみの街路樹の囲いに乗っかって、やっと噴水のほうを見ることができた。泉の前に、金色の唐草模様で装飾された机と椅子がある。そこに何枚か乗っているイチョウの葉っぱさえ、この舞台のためにしつらえられたようだ。
机の脇に立つ赤毛の妙齢の魔女が、ボディガードに護られながら会場の人々へ手を振っている。群衆が、盛り上がっている。
(わ、本物のスリヤクさんだ……)
彼女は聡明さを形にしたような人で、ゆっくりした動作も濃い橙色のローブも、何百年も生きている立派な鹿を思わせる感じだ。
でも初めての生スリヤクさんを見て、私が一番先に思ったのは、ロベルトさんのことだった。
たびたび雑談で聞いていたから知っているけれど、ロベルトさんはスリヤクさんの大ファンなのだ。
それなのに広場じゅうを見渡しても、彼らしき人は見当たらない。握手会に来ていないってことは……。パン屋さんを休めなかったに違いない。
――もし、スリヤクさんがパン屋まで会いに来たら、彼はどんなに嬉しい気持ちになるだろう?
姉は興奮しながら、長い長い列に並んで、握手の時スリヤクさんに何を質問しようかなんてとりとめもなく喋っている。
私は、握手会の列に並んでいる間に、こっそりあの香水を、手に振りかけた。
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さいわい、そのときは店内に他の客がいなかった。
スリヤクさんの姿の私がパン屋に入ると、ロベルトさんは目をまんまるくした。
「い、いらっしゃい……ませ……」
スリヤクさんの背は高いから、今日はロベルトさんと変わらない高さに私の視線があった。こころなしか、自信を持って話せるような気もする。さっきのスリヤクさんの話し方をよく思い出しながら、私は架空の設定を頭の中で構築しながら話しかけた。
「え、ええと、こんにちは。美味しいパン屋がこの辺りにあるって、わ、わ、わたしのボディーガードが言ってたのよ。何か見せてもらえる?」
「はいっ! 秋の新作は栗の入ったカンパーニュ、となりが砂糖のコーティングのシュロート……」
憧れの人に自分たちが焼いたパンを見てもらえて、無意識に、祈る乙女みたいに両手を組んでしまっているロベルトさんがものすごく可愛らしい。
熱心なパンの説明を聞きながら、私の心も弾むようだった。
その時。恐ろしいことが起こった。
姉がパン屋の店内に入ってきたのだ。
彼女は私を見るなり、不思議そうに問いかけた。
「あれっ……、スリヤクさん? 握手会は終わったんですか?」
(お姉ちゃん……っ!? どどど、どうして今日に限ってこっちのパン屋に……っ)
冷静に考えれば、どうしてもこうしてもない。いつもパンを買う役目の私が、お昼前になっても、雲隠れしていて見当たらないのだ。そして街の中心部のパン屋は今日は握手会の人混みでごった返しているのだ。
家族のお昼ご飯を買うために、姉が離れた場所のパン屋に来るのは、当然のことかもしれない。
「いらっしゃいませ!」
「こんにちは。はじめまして」
ロベルトさんと姉が初対面の挨拶を交わしている間、私はスリヤクさんの容姿のまま、ものすごい脂汗をかいていた。ショーケースのたくさんのパンが、私を面白そうに眺めている。
まずい。一刻も早く店から出なくては。握手から何十分経っているかわからないが、いま二人の前で変身が解けたらいろいろと終わりだ。
私は声の震えをごまかしながら急いで伝えた。
「は、話せてよかったわ。買えなくてごめんなさい。悪いんだけど、握手会に戻らないといけないの。パン屋を頑張って頂戴ね。ききき、きっとまた来るから」
「はいっ! 光栄です、ありがとうございます!」
ロベルトさんはお花みたいな笑顔でぺこりとお辞儀をくれた。
パン屋から出て歩き出し、変身が解けるまでに隠れられる場所を探さなきゃ、と考えていると。
私の前に、黒い大きなブーツが一足、立ちはだかっていることに気が付いて進めなくなった。
顔を上げて凍り付く。山のように大きな男が一人、私のほうを睨みつけている。
男は何か光るものをこちらに差し向けて、ゆっくりと言い放った。
「スリヤク学長、この日を待っていた。ここで死んでもらう」
私は思わず体を護るように両手で肩を抱えた。
男はそれを制止するように、空いているほうの手のひらを向けてきた。
「おっと、おかしな動作も呪文もなしだ。お前が指揮した五年前の戦争で、難民がどれだけ出たと思っている?」
「ななな、なんのこと?」
数人いた通行人が、走って街路樹の影やいろいろな店の中に逃げていく。
男が持っている銀色のものが刃物だと気が付いて、私は怖くて縮み上がってしまった。
この人はスリヤクさんが魔法攻撃をしてくるのを警戒しているのだ。しかし今の私は姿や声が同じでも、スリヤクさんと同じ能力を使えるわけじゃない。
「あ、あ、あ、あとをつけてきたの? それをしまいなさい! 話は聞きます!」
「国の栄光の影で苦しんできた者たちの、刃を受けるがいい」
おそらく、香水で変身した私をどこかで見て、スリヤクさん本人と間違えてここまで追いかけてきたのだ。
戦争がどこかに必ず暗部を生むことくらいは、私にだってわかる。この男の目的は、暗殺だ。
彼が一歩一歩、こちらに近づいてくる。
――もうダメ。でも、待って。ミント、よく考えて。スリヤクさんの無事と名誉のために、私がここでこの人を止めなくちゃ!
騒ぎを聞きつけてパン屋から出てきたロベルトさんと姉が、私たちの恐ろしい対峙を見て慌ててパン屋に避難した。誰かが憲兵を呼んでくれるまで何分持つかわからない。
周りの住宅やお店にも、絶対に被害を出せない。横方向へ逃げれば、跳ね橋まではすぐだ。橋の脇の土手から川に逃げ込めるかもしれない。
意を決して駆け出した私のローブを、男ががっしり掴んだ。
私は石畳の上に引き倒され、したたかに顔を打った。
「ううっ」
ここで負けるわけにはいかない。倒れこんだ私は男のコートを掴んで、彼の足の甲を拳でガンガン叩いてやった。
刃物がかすめて、私の着ているローブを切り裂いた。間髪入れずに、腹を蹴り飛ばされた。道の端まで吹っ飛ばされる。
丸くうずくまって痛みに呻いていると、ふと、秋風で冷えた脚がふんわりした布で覆われる感覚がした。
数人のやじ馬が、驚いたような声をあげている。
やがて、私の頭の上から、握手会で聞いた深い声が降ってきた。
「やめなさい。本物のわたしはこっちよ」
……本物のスリヤクさんがすっくと立って、ベルベットのローブの裾で私をくるんでいた。
私たちの周りにいつの間にか、十人ほどの憲兵が並んでいる。彼らは、槍先を暗殺者に一斉に向けている。
「わたしがもう一人いて、跳ね橋を通って海のほうへ行ったって、握手会に来た憲兵が言ったの」
スリヤクさんは私のほうに視線だけ向けて、そう言った。
暗殺者は、本物と私を交互に見比べて、明らかに動揺しているようだった。
自分を暗殺しようとした者にも、魔法で自分の姿を盗んでいる者に対しても、スリヤクさんは怒る気配を見せない。
「スリヤク……さん……逃げて」
私は蹴られたお腹の痛みで、倒れこんだまま声を出すのがやっとだった。
「大丈夫よ」
スリヤクさんは、すっと右手を上げると呪文もなしで緑色に光る電撃を飛ばした。攻撃魔法だ。
白昼をもっと明るくさせる強力な魔法が、男の顔に直撃した。
彼はふらふらして刃物を取り落とした。
「くそっ! 目、目が……!?」
「安心なさい、一時的に見えなくしただけよ」
暗殺を企てた男は見えない目で後ずさりして逃げようとしたが、よく訓練された十人もの憲兵に一瞬で囲まれて、街路樹のほうまで追い詰められた。ついには、観念したように両手を上げて石畳に伏せた。
憲兵に押さえつけられた暗殺者に近づいて、スリヤクさんが少し悲しそうな顔で、伝える。
「今晩、城に行きましょう。話があるならすべて聞くわ」
男は、両眼を閉じ複雑な感情を抱えきれない表情でそれを聞いてから、がっくりとうなだれた。
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ようやく立ちあがっていた私は、自分の髪にひんやりしたものを感じた。香水の魔法の時間切れだ。濃い橙色のローブが裾から消えていく。
驚く姉やロベルトさんやみんなの前で、私の姿はトロトロと溶けるように、やせっぽちのブルネットの……ミントに戻った。
「ミント……?」
姉が、襲われていたスリヤクさんが私だったと気が付いてだんだん頭の中で状況を整理しているのか、怯えたような顔をしながらゆっくり私のほうに近づいてきた。
そして、数歩進む間におおかた理解したのか、今度は一気に私に飛びついてきつく私を抱きしめてきた。
「ちょっとミント! 何してるのよこんなところで! どうしてこんな危ないこと!」
家族の体温で、私もやっと安堵に包まれた。「バカバカ」なんて言いながら、涙目の姉は私の癖っ毛をもふもふと撫でた。
スリヤクさんが片手で指示して憲兵たちを城に向かわせながら、私に話しかけた。
「危ないから、その香水を有名人に使うのはよしたほうがいいわね。ヒーローさん」
私はびっくりして、姉を振りほどいて飛び上がってしまう。
「どどど、どうして香水のことを知ってるんですか……?」
「だって、さっき握手したときに覚えのある香りがしたから。その香水を落としたのはわたしだもの。その直後に現れたもう一人のわたしの話。いっぺんに理解できたわ」
私は慌ててスリヤクさんに向き直ると、ポケットから香水瓶を取り出して、これ以上ないくらい腕を突き出してスリヤクさんに差し出した。
持ち物を盗んだ挙句、姿まで盗むなんて、私はどうしたら許してもらえるんだろう。
「ご、ごめんなさいっ! 使っちゃいました」
「いいわよ。理由は聞かないわ。これも最近気まぐれに魔道具屋で買っただけだし、落としたわたしが悪いんだしね」
スリヤクさんはピンク色の瓶を受け取ると、特に気にする様子もなく「お腹すいたわあ」と、ついてきたボディーガードたちと会話し始めた。
そのうちに、状況を見ていたロベルトさんが、おそるおそる私に近づいてくる。
「君、ミントちゃんっていうんだね。ヒーローさんケガはない?」
「おおお、お店の前で騒ぎを起こして、本当にごめんなさい!えっとこれは魔法で……その」
私は深く深く頭を下げた。
「大丈夫大丈夫。どうしてスリヤクさんになってたの?」
「あの……あの。ほんとは……。ほんとは、ロベルトさんを喜ばせたくて」
「あのさ、変身できるんだったら、昨日、君は……。もしかして金髪でエンジ色の服だった?」
頬に、かあっと血がのぼって熱くなった。
こわごわ顔を上げてロベルトさんを見ると、彼はいつも通り優しく笑っている。
「え、えと、なんてわかっちゃうんですか……?」
「昨日の金髪さんも、今日のスリヤクさんも、喋り方が同じだったから。いつもエピを五つ買いに来てくれる君と」
「ロ、ロベルトさん……私のこと……?」
覚えてくれていたんだ。私が好きじゃない私の喋り方も、そのおかげで誰かに覚えてもらえることがあったんだ……。
みんな、強い人が好きなわけでも、美人が好きなわけでも、私を嫌いなわけでもないんだ。私のほうが他人の目を気にしてずっと怖がって、世界に出ていかなかっただけ。
気が付くと今日の私は、ほかの人を護るために夢中で戦っていた。そうできる力が、もとから私の奥にあったんだ。
人と関わるのに必要なのは、容姿やアピールなんかじゃなくて。
必要なのは、私自身の、たとえば勇気とか……なのかもしれない。
ロベルトさんと私のやり取りを見ていた姉が、なんだか大仰にニヤニヤしはじめた。いつも港のほうのこちらのパン屋に通う理由が、すっかりバレてしまったに違いない……。
スリヤクさんが「せっかくだから」と、ロベルトさんのパン屋に飛び込んで、お昼ご飯をあれこれ注文し始めた。それにならって、騒ぎを見ていた人々がパン屋の入口に詰めかける。暗殺犯を運んで行った憲兵たちの残りまで、焼きたてドーナツの香りに誘われだした。スリヤクさんのボディーガードさんたちが、少し慌てている。
ここは今まで以上に繁盛するんだろうな。
ロベルトさんがこっちに向かって手を挙げた。
「ミントちゃんも、買い物してく?」
「……。きょきょきょ、今日のお昼のエピ、五つください!」
〈了〉
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