0人が本棚に入れています
本棚に追加
門出の舟渡し
死んだように静かな水面を、一隻の舟が滑ってゆく。
ほとんど波を立てずに舟を漕ぐ者の姿は、曖昧模糊として判別しがたい。ともすれば虚空に消えてしまいそうなほど存在感が薄かった。
もしこの場に人がいたならば、その目に辛うじてうつるのは、ローブを羽織りフードを目深に被っている、ぼやけた灰色の輪郭くらいだろう。その他は、顔も、年も、性別すらわからないに違いなかった。
舟が向かう先には、陸地のようなものが霞んで見えつつあった。
ただひたすらに平坦で、地平線と見まがうほどに端から端まで伸びている。
これと同じ光景が、舟を180度方向転換してしばらく進んだ先ーーーつまり、舟がやってきた方向ーーーにもある。
陸地の正体は、巨大な川の岸だった。
ただし「川」といっても、流れてはいない。
普通の川が絶えず脈動し姿を変えるのに対し、この「川」はただそこにあるだけで永遠に姿を変えない。船人が水面をかき回したところで、波紋はすぐに途絶える。
人は、この奇妙な大河を「忘却の河」と呼ぶ。
現世と冥府の境界。
この河の水に浸かったならば最後、全てを忘れて彷徨うとも、余計な考えを捨てて真理を得るとも伝えられている。
生者は必ず死者となり、死者は必ず「忘却の河」を渡る。
しかし、死者ひとりだけでは河を渡ることはできない。
生者の語るところでは、現世側の岸には渡し守が控えていて、やってきた死者を対岸へ無事に送り届けるという。
その伝聞に違わず、先程の船人は、たったいま新入りの死者を冥府側の岸まで送り届けたところだった。これからまた、現世側の岸に戻って新たな死者を迎えるのだ。
するすると進み続けた舟は、やがて音もなく岸に辿りついた。
渡し守は舟を降りることなく、次の客を待っている。
時を同じくして、岸の離れた場所から、別の舟が対岸に向けて漕ぎ出した。その舟には、渡し守とよく似た者と、やや輪郭がはっきりした別の人物が乗っていた。
渡し守にとっては、同業者とその客だ。
しかし、渡し守も、そして同業者も互いに反応を示すことはない。彼らは互いにーーー自分自身にすらーーー興味がなかった。
客の方は女のようだった。生前は高貴な身分だったのか、豪奢なドレスに身をつつんでいる。だが、髪色や顔は霞がかったようにぼやけていた。
多くの死者は、この女のように生前よりもはっきりしない姿になる。
死後の世界における「姿」とは、その人の自我に他ならない。自我が強ければその姿は明瞭に現れ、自我が希薄であれば判別しがたい曖昧な姿になる。
岸から離れた舟は、やがて小さくなって彼方へ消えていった。
件の渡し守は、その様を一瞥すらせず、新たな死者を待ち続ける。
ひたすら待つ。
待つ。
ふいに水面が僅かに揺れた。
「なあ、そこの人」
声をかけられ、渡し守がおもむろに櫂を持ち直した。
いつの間にか、目の前の岸には鎧と剣を身につけた大柄な男がいた。
頑丈な作りの鎧はよく磨かれて光沢を放っている。剣もまた、限られた者しか手にできないような立派なものだった。
青年というにはやや年を重ねている。しかし、そのたたずまいと、白髪ひとつない赤銅色の短髪も相まって、老いているようには見えない。
頬に傷がありながらも端正な顔立ちで、意志の強そうな目が渡し守をまっすぐ見ている。
「向こう岸に行きたいんだ。連れて行ってくれないか」
そういって男が左手を差し出す。大きな手のひらには、数枚の金貨が乗っていた。
差し出された金貨は、男の生前にはどこでも通用する上質なものだった。しかし、この世界では無用の長物でしかない。そのことを男は知らなかった。
一方の渡し守は、その金貨を受け取ることも、死後の世界での常識を男に教えてやることもしなかった。
この世界の「渡し守」は、職業ではなくただの役割だ。
生者の言い伝えでは、冥府の渡し守は冥王に仕える特別な存在とされている。だが、彼らにその自覚はない。ただ機械じかけのように河の両岸を行き来しているのが実情で、かつて生きていたのか元から冥界にいたのか、人間なのか魔物なのかも意識しない、あるいはわからない。
他の渡し守がそうであるように、この渡し守も、気がついたらここにいて、自分が何者なのかほとんど意識することがないまま、漫然と死者を運び続けている。
渡し守は、男が乗る場所を空けて、無言で待機するだけだった。
男は戸惑いを見せた。
「これじゃ足りないか?」
「……乗れば、運ぶ」
一拍置いて、低く唸っているような、それでいて小さくささやいているかのような、形容し難い声が渡し守の口ーーーと思われるあたりーーーから発せられた。
「金は払わなくて良いのか?」
「対価は、無意味だ」
「そうか」
男は短く返事をして舟に乗り込んだ。
「でもタダで乗せてもらうのは悪いから、ここに置いておく」
そういって、舟底に金貨を置いた男は頑固、否、律儀な性格のようだった。
渡し守は返事をせず、舟を漕ぎ始めた。
舟がゆっくり岸から離れる。
遠ざかる此岸を横目に、男が渡し守に話しかけた。
「渡し守は他にも何人かいるようだが、あなたはここに来て長いのか?」
渡し守は答えない。
男は気にしたふうもなく話し続けた。
「さっき貴婦人の方を舟に乗せるのを手伝ったんだが、その舟の渡し守は古株らしい。本当かは知らないが本人がそう言っていた。何百年も前の王に仕えていたそうだ。聞いたことのある名だったから驚いたし、親しみを覚えたよ。残念ながら本人はもう記憶が曖昧で、それ以上のことは聞けなかったんだが」
そこで男はまなじりを少し下げた。
「彼に比べればひよっ子だが、実をいうと俺も王に仕えていたんだ。それこそ彼が仕えていた王と並ぶくらいの、偉大なお方だ。……あなたはどうだ? あなたも誰かに仕えていたのか?」
渡し守は黙って船を漕ぎ続けている。
男は少し残念そうな顔をした。
「まあ、会ったばかりの奴に言いたくはないか。すまない、気が利かなかった」
それからしばらく沈黙が続いた。
手持ち無沙汰なのか、男が自分の剣をもてあそび始める。もてあそぶといっても、その手つきは決して雑ではない。剣は、彼にとってよほど大事な相棒であるようだった。
時折抜かれるまばゆい刀身が、男と渡し守、昏い河を照らし出す。
此岸が遠く霞んで消え始めた頃、渡し守が口を開いた。
「わからない」
思い出したように発せられた返答に、男は目を瞬かせた。
「それは思い出せないということか?」
「そうだ」
「そうか。残念だ。いつか思い出せるといいな」
「興味がない」
「自分の過去に?」
「そうだ」
「なぜだ? 自分が何者だったかわからないということだろう? 気にならないのか」
「全く」
無愛想な返事に、男は肩をすくめた。
「冷めてるな。俺だったら気が狂っちまいそうだ」
「気が狂うことは、ないだろう。……本当に全てを、忘れれば」
渡し守は機械的に櫂を動かしながらいった。
「狂う自我すら、失われる」
男は一瞬黙り込んだ。
「……想像もつかない」
一言呟いたのち、何か考え始めた男を尻目に、渡し守は変わらず舟を漕ぎ続ける。
男の剣は軽く抜かれたままになっており、渡し守をちらちらと照らした。
渡し守は、ふいに櫂が何かに引っかかっているような感覚を覚えた。
今までにない違和感に、渡し守が水中を覗き込もうとしたとき、男が口を開いた。
「あなたは、なんでこうしてここにいるんだ?」
舟を漕ぐ櫂の動きが一瞬止まった。
「……役割だ。舟を漕ぐ。死者を運ぶ。それ以上でも、それ以下でもない」
男は渡し守をじっと見つめて、さらに追及した。
「それはあなたが決めたのか?」
「……いや」
「なら、誰に決められた?」
「冥王が決めた、のだろう」
「冥王はどんな統治者だ? 賢君か?」
「知らない」
「容貌は? 人に近いのか? それとも魔物の姿なのか?」
「知らない。会ったことがない」
「会ったことがない? 冥王に仕えているんじゃないのか?」
「渡し守は、冥王に仕えていることになっている」
「伝承の話じゃない。あなたのことだ」
「……わからない」
「なぜ会ったこともない、顔も性格も知らない、主人と仰ぐわけでもない存在の決めたことに従うんだ?」
「……わからない」
剣の刀身は相変わらず渡し守を照らしている。渡し守はその光から逃れてすがりつくかのように櫂を握りしめた。
「考えたこともない。役割だ。気がつけばそうなっていた。それだけだ」
渡し守は、今までになく強い口調で言い切り、舟を漕ぐことに集中した。その動きは先ほどよりも鈍い。渡し守は櫂に引っかかっている感覚が強くなっていると感じた。
一体何が引っかかっているのかと、渡し守が水面を覗き込んだとき、男がぽつりと呟いた。
「さっきもあなたは水面を見ていたな。何がある?」
渡し守は答えられない。目の前には、何もない。櫂がかき回す水面の下には、河の水がただ底なしに続いている。
「冥府の河は、この世とあの世の境目だと聞いた」
そういって、男は昏い水面を見つめた。
「なら、飛び込めば戻れるのか?」
ーーー仕えるべき主の元へ。守るべき民の元へ。
男が口にしなかったにも関わらず、渡し守はなぜか男のいいたいことがわかった。
「早まるな」
渡し守の口から言葉が飛び出した。
「取り返しがつかない」
「入ったことがあるのか」
「いや、ない。しかし」
「じゃあ、どうなるかあなたの目で確かめてくれ」
そういって、男は傍らの剣を手に取った。剣がしっかりとさやに納められ、光が途絶える。
剣を腰に下げながら、男が懐かしげに語った。
「この剣をとても欲しがっていた子供がいた。その時は主君に授かったものだからと渡さなかったがーーーいまは、その子にあげればよかったと思っている。戻れたら、我が君に許可をいただいてその子が眠っている前に捧げるつもりだ」
男が舟のへりに足をかけた。
「こう見えて、英雄と呼ばれてたんだ。泳ぎも得意だった。きっと大丈夫さ」
言葉とは裏腹に、男は哀しげに笑った。
そして次の瞬間、河へ飛び込んだ。
渡し守の手から、櫂が離れた。
否、男の方へ手を伸ばすために、渡し守が櫂を手放したのだ。
しかし、その甲斐むなしく、男の体は水飛沫をあげて河へ吸い込まれていった。
体勢を崩した渡し守の体もまた、河へ落ちてゆく。水飛沫は上がらず、辛うじて波紋を生じさせるにとどまった。
二人が落ちた証である波紋はすぐに静まり、元のうすら寒い水面に戻った。
河の上に残されたのは、舟とそのへりに引っかかった櫂だけだった。
薄昏い中、何かが揺蕩っている。
魔物だろうかと考えてすぐに違うと思い直す。
あんなひ弱そうな魔物はいない。魔物はもっと大きく恐ろしい。
では盗賊が手にする松明の炎か?
それも違う、とゆらめく物体を見て思った。
火は赤い。だが、目の前にある物体は亜麻色をしている。
芒洋と拡散したままの意識の中で、ふいに思い出した。
あれは、髪だ。人の髪だ。
では、誰の髪だ?
そう疑問に思ったとき、華奢な手が髪に紛れて揺蕩っていることに気がついた。その手から伸びる腕もまた華奢だ。
これらは同じ人のものに違いない。一体誰のものだろうか。
そもそも、これを見ている自分は誰だ?
私だ。
では私とは何だろうか。
冥府の渡し守だ。どこの誰とも知らぬ英雄を乗せている途中だった。
他の者は周りにいなかったが、亜麻色の髪と華奢な腕を持つ人間がどこから現れたのか。
否、最初からいたのだ。
ーーーあれは、私。亜麻色の髪も華奢な腕も、私のものだ。これは、私だ。
その答えにたどり着いたとき、彼女は記憶の奔流に襲われた。
「女の子か。名前はどうしよう」
「相変わらずお転婆な子ね」
「父さん、あたし剣が欲しい」
「次は勝つ。もう一回勝負しろ、シェリー!」
「外でばかり遊んでいないで、たまには家の手伝いもしなさい」
「おお、坊主たちよりずっと手強い。これは将来が楽しみだ」
「助けて!」
「ここは騎士様にお任せするんだ! 我々では敵わない」
「お前さんには悪いが、これは我が君より賜ったんだ」
「騎士様、魔物の倒し方を教えてください。今度は自分で家族を守りたいんです」
「また来たのか。これが欲しいなら、将来我が君に仕えるんだな」
「騎士様、またいらしてください」
「あたし、大きくなったら騎士様みたいな剣士になるの」
「起きろ! 火をつけられた」
「早く逃げて!」
「くそ、盗賊どもめ」
「母さん!」
「シャロン、あなただけでも」
ーーーああ、そうだ。私の、あたしの名前はシャロンだった。
しがない辺境の村娘。近所の子供たちの中ではチャンバラが少し強いだけで、家事はからっきしのお転婆娘。
変わり映えのしない生活を送っていたところに、騎士が立ち寄った。王の懐刀とも呼ばれた彼は、村を襲ってきた魔物をあっという間に倒した。井の中のお転婆娘は、その強さに憧れて騎士につきまとった。彼にわがままをいって、数年後にまた会いにくるという約束を取り付けた。
その約束が果たされることはなかったが、偉大な騎士との出会いは、シャロンという少女の短く平凡な人生における光となった。
ーーーなんで忘れてたんだろう。あんなに憧れてたのに。
そう考えた時、シャロンははたと気がついた。
ーーーあの人は?
あたりを見回すと、姿が揺らいで消えつつある、あの立派な剣が目に入った。そのすぐ近くには、淡い影のようなものが揺蕩っている。
ーーー助けなきゃ。
がむしゃらに泳いで手を伸ばし、淡い影ごと剣をつかむ。
方向感覚がないまま水面を探していると、頭上に舟影が見えた。そちらへ向かって必死に泳ぐ。
自分の体が重い。手にした剣も影も、消えかけているのに重い。
ーーーかまうもんか。今度は、あたしが助けるんだ。絶対に。
空いている方の手が、水面から出て舟のへりを掴んだ。
力を振り絞って、舟の上に転がり込む。
シャロンの全身はずぶ濡れだった。
記憶が戻ったためか、その格好は一介の村娘だった頃のものになっている。河の水を吸ったスカートは重く、くせのある髪が頬に貼りついている。生前のシャロンは、落ち着きのなさがたたって、しばしば川に落ちていた。久しぶりの不愉快な感触に、シャロンは顔をしかめた。
が、すぐにはっとして傍らを見た。
そこには、苦労して引き上げた剣があった。水中にあったときよりも少しだけ輪郭がはっきりしている。
シャロンが手を伸ばす。
しかし、大事そうに触れたのは、剣ではなくその隣の淡い影だった。
ーーーさっきまでのあたしみたい。ううん、それよりもひどい状態になってる。
憧れた存在の、成れの果ての姿。
ーーーなんとかしなきゃ。
シャロンは失望しなかった。むしろ、一度救われた恩義を返そうとやる気をみなぎらせた。
河の水に触れてこうなったのならば、水気を拭き取ればいいのではないか。
そう考え、何か拭くものがないかと周りを見る。だが、めぼしいものはない。
ーーー布。よく水を吸う布……。あっ。
河の水をたっぷりと吸って重くなったスカートが、シャロンの視界に入る。破いて絞れば布巾がわりになりそうだった。
悩んだのは一瞬だった。
シャロンは意を決してスカートの端に手をかけた。
英雄は、浮遊感の中で意識を取り戻した。
主の名を呼びかけて、無駄であると思い出す。
重い腕を動かし、主の信頼の証である剣を求めた。
探すまでもなく剣はすぐ隣にあった。
引き寄せてその感触を確かめると、英雄の胸に安堵と後悔が去来する。
まだ霞んでいる彼の視界に、小柄な人物の姿が映り込んだ。
その亜麻色の髪を見て、徐々に記憶が蘇ってくる。
英雄は、ふいに、かつて救ったものの結局全滅した村のことを思い出した。
一度目は魔物が、二度目は夜盗が村を襲った。
辺境にあったために対処が遅れ、最初は撃退できたものの二度目は駆けつけられなかった。
その後、盗賊は一網打尽にできたが、村人たちは還らない。
魔物に対処するために立ち寄った際、特によく懐いてくれた村の子供を思い出し、古傷が疼いた気がした。
舟をややたどたどしく漕いでいた小柄な人物が、英雄の視線に気がついた。
「ああ、起きた。よかった」
英雄は、目の前の人物が冥府の渡し守であることを思い出した。同時に、こんな姿、こんな話し方だったかと疑問に思う。
顔はよく見えない。だが、先ほどと違い背丈や髪色がはっきりとわかる。端が不揃いのスカートも履いていなかったはずだ。
男が疑問を口にする前に、渡し守が口を開いた。
「スカートの端きれでも、意外と役にたちました」
「……ああ、あなたが破いた服で拭いてくれたのか。ありがとう。……そして面目ない」
「何がですか?」
「馬鹿な真似をした俺を助けてくれたんだろう」
「ええ、まあ。でも昔助けてくださいましたから」
「……俺を知っているのか?」
英雄が聞くと、渡し守はなぜか一瞬押し黙った。
「……たぶん」
「たぶん?」
渡し守は、英雄の疑問に答えるようにぼやき始めた。
「ほんの少し前までは、全部思い出せてたんです。なのに、だんだん思い出せなくなってきて。頭に霧がかかってるみたい」
英雄は、ひどく申し訳なさそうな顔をした。
「俺の、せいだろうな。『忘却の河』の水に浸かったから記憶がーーー」
「あっ、そうだ! 河の水だ」
「ああ。本当に申し訳なかーーー」
「いいえ、あなたのせいじゃありません。あなたのせいじゃないんです」
英雄の言葉を遮って、渡し守がまくしたてた。英雄は面食らうと同時に、その落ち着きのなさになぜか懐かしさを覚えた。
「むしろ、思い出せたからよかったんです。あなたを追って河に入らなければ、全部忘れたままだった。自分のことも、あなたのことも。あたしはただの村娘で、あなたは偉大な英雄ーーー」
そこまでいって、渡し守が言い淀んだ。
「あれ? あたしは……私は……渡し守とかいうのじゃなかった?」
渡し守の全身は、少しずつ乾き始めていた。河の水とともに、「シャロン」の自我と記憶も蒸発しつつあった。
英雄の体は、すでにほぼ乾いていた。彼は自我を取り戻し、それに伴って姿も元通りはっきりしている。
「あんたが思う自分が、自分なんじゃないか」
いってから、英雄は頭をかいた。
「いや、いまのは忘れてくれ。俺も人のことをいえない」
「心配しなくても、色々と忘れつつあるから問題ない。……問題ないです」
思わず出た口調を直しつつ、渡し守は剣を見た。言葉に反し、その視線はすがりつくようなものだった。
つられて英雄も、傍らの剣に目をやった。
「なあ。馬鹿な男の話を、少し聞いてくれないか」
英雄は剣を見つめながらいった。
「あなたがする話なら、いくらでも」
唐突だったにも関わらず、渡し守は間髪入れずにうなずいた。
英雄が話し始める。
「そいつは本当に馬鹿だった。生きている間はその場その瞬間のことばかり考えて、死んだら生前のことばかり気にしている。一旦は、後戻りしたくてもできないように冥府の河を渡ろうと思ったが、途中で心の弱さが出て戻ろうとした。……俺みたいだろう」
最後、英雄は取ってつけたようにいった。
渡し守は、黙って聞いている。
「生前、そいつには仕えるべき主君がいた。守るべき民もいた。でもいまは、死後はどうだ?」
英雄は上を仰いだ。
「何もない。何もないんだ」
渡し守は何かいいかけ、また口をつぐんだ。
「主もいない、民もいない。当然、役目もない」
英雄だった男の嘆きが、昏い河に吸い込まれる。
「冥府にいるのは、俺が助けられなかった仲間だ。人々だ。彼らとは、とても顔を合わせられない」
彼は、他人の話という体裁も忘れ、堰を切ったように話し始めた。
「俺は、死んだら土になって終わりで、あの世なんてないと思ってた。もしあの世があれば居心地が悪すぎて、死んだ奴らは帰ってくるはずだ。でも誰一人帰ってこない。だから死んだ後のことは考えずに、偉大な主と民のために粉骨砕身してきた。でも、あったんだ。死後の世界はあった。……正直、どうすればいいかわからない」
そういって、まだ現れない彼岸の方向を悄然と見やった。
それを見守る渡し守の服装は、いつの間にか長いローブに戻っている。
渡し守の霞みゆく自我、シャロンは、忘却に逆らおうと足掻いていた。
精神力を振り絞り、英雄に語りかける。
「助けられなかったなんて、思わないで」
英雄が振り向く。
「最終的に助からなかったとしても、その人たちはあなたを恨んでなんかいない」
シャロンとしての自我が失われる前に、伝えるべきことを伝えなければ。
その一心で、なおも言葉を続ける。
「あなたは目の前の誰かに真摯に向き合った。子供だろうと関係なく。あなたが英雄だったからじゃない。王に仕えていたからでもない。あなたがそう在ったから、あなたは英雄になれた。そして王に信頼されたんだ。ーーーそんな人を誰が恨める?」
生前、シャロンをはじめ多くの人は、会ったこともない、顔も性格も知らない、心から主人と仰ぐわけでもない存在の下で日々を過ごしていた。生まれたときからそう決まっていた。
それ以外の道を歩み、他人のために働く者は稀有で眩しい存在だった。そんな人間が、自分たちを助けようとしてくれた。その事実だけで救われる者は多かった。
「あなたは特別なんだ」
まるで託宣のような断言に、英雄は虚をつかれた。
「……照れくさいが、そう思ってくれる人もいるんだな」
そういって少し考え込むそぶりを見せた。
それから、おもむろに傍らの剣を掴み、横向きにして渡し守の方に突き出した。
真意を掴めずじっと剣を見つめる渡し守に、英雄はいった。
「もし会ったら、これを渡して欲しい人がいるんだ」
渡し守が、少し輪郭がぼやけた手をこわごわと伸ばす。
「小さいがものすごく活発な子だ。女の子のわりになかなかチャンバラが上手かった。この剣をずいぶん欲しがっていてな。俺にはもう必要ないものだから、渡したい」
「……主の許可は?」
「とっていない。だがあのお方なら許してくださるだろうさ」
俺としたことが、君臣関係にこだわりすぎて主の懐深さを失念していた、と笑う英雄。その声も耳に入らず、渡し守は一旦漕ぐのをやめ、両手で剣を受けとった。
「あんたの背丈だと、背負う方がいいだろうな」
そういったところで、英雄は渡し守のフードからこぼれ落ちたひと房の髪に目を止めた。
「ああ、あの子も綺麗な亜麻色の髪で、あんたに似て……いや、まさかな」
英雄は途中で言葉を濁した。
「とにかく、頼んだ」
「……渡すのは構わない。でも、その子はもう死んでしまった、はずだ」
「ああ」
「……なら、冥府に行くあなたが持っていた方がいいのでは?」
「それはそうなんだが……あんたに預けた方が、あの子に届く気がしたんだ」
まっすぐな眼差しを向ける英雄を前に、渡し守はそれ以上何もいわなかった。
剣を背負い、再び櫂を漕ぐ。
しばらくして彼岸が霞んで見えはじめたとき、英雄が唐突にいった。
「これからのことだが、向こうでは冥王に仕えてみようと思う」
「……どんな存在か分からないのに?」
「ああ。俺が元々仕えていた我が君もいずれはこちらにいらっしゃるはずだからな。死者が等しく冥王の支配下になるんだったら、先にその近くで働いてどんな感じか見ておくのも良いだろう」
岸はすでにはっきり見え、近くまで迫っていた。
渡し守は、彼岸の静謐な空気を感じながら口を開いた。
「あなたが仕えることになるのであれば、冥王はきっと良い主だ」
渡し守の口調は確信めいていた。
「だといいいんだが」
英雄は苦笑いした。
「もし冥王が暗君だとわかれば、あなたが倒してしまえばいい」
渡し守の過激ともいえる一言に、英雄は一瞬目を見開いたあと、今度は快活に笑った。
「ははは、そりゃあいい。難しそうだがその分やりがいもある」
「あなたが敬愛する王のためにもなるだろう」
「違いない」
舟が岸に着いた。
英雄の足が彼岸を踏みしめる。この先は冥府だ。
「まだあまり実感はないが……本当に死んだんだな、俺は」
渡し守に語りかけるでもなく、英雄は小さくつぶやいた。
それから渡し守の方を振り向く。
「無事に送り届けてくれてありがとう。あんたがいなければ、ここまで辿り着けなかった。……達者でな」
それを聞いて、わずかに残る灯火のようなシャロンとしての自我は、大きな満足を覚えた。
互いに手を振って別れを告げる。
英雄が背を向ける直前、渡し守が言葉をかけた。
「冥王の祝福があらんことを」
英雄は笑って礼をいい、彼岸の奥、冥府へ消えていった。
渡し守が再びこの世側の岸へ戻ると、早速、新たな死者がいた。
呆然とそこに立ちすくむ死者を導くため、渡し守はゆったりと河の水をかいて向かった。
曖昧な影となっている死者はそれに気がつき、渡し守を見上げて聞いてきた。
「あなたは?」
自分は誰だったか。
その記憶は、渡し守にとってすでに遠く霞んでいる。
しかし、背負った剣の重みが、不思議な懐かしさと誇らしさを渡し守に感じさせている。
微かな記憶を頼りに、渡し守は名乗った。
「ーーーカロン。渡し守のカロンだ」
舟が此岸を離れる。
遠ざかる岸をぼんやり眺めていた新入りの死者は、ふと渡し守に似合わない立派な剣に気がついた。
「その剣は……」
「私が、ここにいる理由だ」
渡し守は、それだけ答えた。
舟は静かな水面をゆっくり進む。
途中、灰色の影を乗せた舟がすれ違った。
以前の自分のようなぼやけた輪郭を少し見つめてから、渡し守は再び前を向いた。
向かう先に彼岸がある。
そこでは、「彼」が新たな主人に仕えているだろう。
「彼」が誰だったか思い出せないながらも、渡し守は口に出さずに祝福した。
ーーー彼と、全ての死者の門出に幸あれ。
最初のコメントを投稿しよう!