永遠の口約束

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永遠の口約束 「ご乗車ありがとうございました。広島、広島です」  リュックサック一つという、新幹線四時間の旅には不釣り合いな量の荷物を持って席を立つ。  県の名前のついた駅は、広い割にガランとしていてなんとなく物寂しかった。待ち合わせ場所を確認するためにもう一度手元の葉書を見る。 『南口から外に出たらお尻の噴水のところで待っていてください』 「(なんだお尻の噴水って……)」  良く言えば男らしい字で力強く書かれたその文章に再度首を傾げる。  それでも尻の噴水とやらに辿り着かなければならない。待ち合わせ相手の情報はあと黒のシャツに赤いスニーカーということのみなのだ。  だが本当にそんな目印が見つけられるかという不安は、駅を出てすぐ杞憂だったことを知った。  うん。これは、確かに尻だ。  銀色に輝くずっしりとした厚みの、真ん中に割れ目のある噴水。その形が連想させるのは紛れもなく臀部だった。地元ではお馴染みの待ち合わせ場所なのかちらほら周りに人が立っている。 「律くん?」  呼ばれて振り返ると、やけに背の高い青年が立っていた。  色素の薄い律とは正反対の真っ黒な髪は短く切り揃えられている。"男前"と表現するのがぴったりの日本男児だ。  彼が待ち合わせ相手だろうか。  しかしシャツは黒でも靴は白だ。葉書に書いてあった服装とは違う。でも確かに今彼は律の名を呼んだ。 「三島さん……?」  伺うように近づいてくる男にそう尋ねると、その男は途端に明るい表情を見せた。 「そう!三島聡太です。写真より大きかったけぇ一瞬分からんかったわ!しかも間違えて白履いてきてしもうて、見つけてもらえんかったらどうしようって思っとったんよ。あ、これからよろしく!」  捲し立てられて一瞬怯む。あまり耳馴染みのない話し方に戸惑っているのを悟られないよう、リュックの両紐をぎゅっと握って頭を下げた。 「須藤律です。こちらこそ、よろしくお願いします」 「何なんその喋り方。これからは家族じゃろ?敬語とかいらんし聡太でいいんよ」  四十五度の角度でお辞儀をしていた身体を、そんなのは必要ないと言うように肩に手を添えて起こされる。突然のボディータッチにほんの少し身体が跳ねた。 「じゃあ、聡太……」 「ん!ほいじゃあ俺は律くんのこと”りっくん”って呼ぶけぇ!」 「あ、それは嫌です」 「ノーが言える子なんじゃね‼︎」  何が面白いのか顔を合わせた時からずっと笑っている聡太を、律は自分とは内面まで真逆の人間だと思った。  これから、この人と一緒に暮らすのだ。  待ち合わせ場所からすぐ近くの駐車場に聡太の車が止めてあった。後ろに乗り込もうとすると、こういう時は助手席に乗るもんだと言われたのでその言葉に従う。  ルームミラーには交通安全のお守りがこんもりと付いていた。神様の集合住宅のようなこの車の持ち主は、きっといろんな人に愛されているんだなと思った。 「(やっぱり俺とは真逆の人だ)」  なんだか見ていられなくて窓の外に顔を向けると、すぐ隣を路面電車が走って思わず目を引かれる。車道の真ん中に線路が引かれているのを見るのはこれが初めてだった。  黙ってじっと外を眺めていると突然運転席から話しかけられる。 「最初に聞いた時も思ったんじゃけど、律ってお洒落な名前じゃねぇ」 「そうかな」 「東京って感じする。なぁ、りっくんはダメでも律って呼ぶんは良いじゃろ?そのうち君付け忘れそうなんよね」 「うん」  東京っぽいというのは褒め言葉なんだろうか。  駅のホームに降り立った時から、今まで住んでいた場所との空気や景色との違いに気圧されていた。ここに馴染めるだろうか。受け入れてもらえるだろうか。  律の不安など気が付かない聡太は運転をしながらも、会話を途切れさせることなく続けた。 「じいちゃんも、せっかく三人で暮らすんじゃけぇって迎えに来たがっとったんよ。ほいじゃけど、こないだ退院したばっかじゃけぇ休みんさい言うて俺だけで来た」 「三島さん身体悪いの?」 「んー、まぁ全体的にほんのり。歳じゃけぇ」  聡太はそう言ってすぐに「あ、今のじいちゃんに言わんとって!殺される!」と口の前に人差し指を立てて笑った。 「じいちゃん野球と歳の話になるとたいぎいんよね」 「たいぎい?」 「あ?あー……これ方言なんかな、面倒臭いって意味なんじゃけど、使わん?」 「使わない。でも三島さんも同じ言葉使ってた」  方言も不安の一つだった。こんな風に分からない言葉が出るたびに尋ねているようでは、周りに鬱陶しがられてしまうだろう。  自分にはもうここしか居場所がないのに、そんなことで躓きたくはなかった。「面倒臭い」という意味の言葉がやけに胸に刺さる。 「俺はじいちゃんとずっと暮らしとるけぇ他の奴らよりちょっと方言強いかもしれんね」  聡太は少し恥ずかしそうにはにかみながらそういって頭を掻いた。 「学校行くようになったら皆んなの言うとることもっと分かりやすいと思うけ大丈夫よ」 「……うん」 「ほいじゃけど、たいぎいは皆んな使うけぇ覚えときんさい」 「わかった」  明るく朗らかで良く喋る、太陽のような男だと思った。  聡太の運転する車は、三十分ほどで住宅街に入った。その中でも一等年期の入った一軒家の前で車が止まる。  家の前には少し腰の曲がった快活そうな老人が立っていた。その人物の前に車を止めて、聡太は運転席から身を乗り出して話しかける。 「じいちゃん何で外おるん。せっかちじゃねぇ」 「ジッと待っとれんよ」  律は老人とは半月前に一度会ったきりだった。あの時よりもずいぶんラフな服装に、なんとなくあの日会った人とは別人のような感じがする。  聡太が車を出るのに習って律も助手席を降りて老人に近寄った。シワの刻まれた目元で輝く瞳は間違いなくあの日律に話しかけてきた優しい人のものだった。  律が見つめている間も、二人は立ったまま流れるような会話を続けている。  挨拶をするタイミングを逃した律は黙って聡太の後ろにいた。ようやく気がついた様子の老人が話しかけてくる。 「律くん久しぶりじゃねぇ」 「お、お久しぶりです三島さん。これからお世話になります」 「なんで敬語なん、三島さんなんてやめんさい恥ずかしい。家族じゃろ?じいちゃんいうて呼びんさい」 「……はい」  デジャヴだ。老人と聡太は似ている。見た目というより雰囲気が。本物の家族なんだなと思った。 「疲れとるじゃろ。聡太、部屋に連れて行ってあげんさい」 「ん。にしても律はやけに荷物が少ないねぇ。そんなんで足りるん?着替えはどしたん?」 「あの、全部、無くなっちゃったから……」  律が気まずそうに目を伏せて答えると前の方からばちん!という音と共に「いった!」という聡太の叫び声が聞こえてきた。 「お前にはデリカシーっちゅうもんがないんか!」 「じいちゃんにだけは言われとうないわ‼︎」  背中を押さえて唸る青年と、手を振り上げて叫ぶ老人。  目の前で繰り広げられるコントのようなやりとりに、律だけが一人目を丸くしていた。  律の部屋は二階にあてがわれた。やけに薄暗く天井の低い階段を登りながら聡太が説明する。 「隣は俺の部屋じゃけぇ何かあったら言いんさい。反対隣は物置になっとって、買い置きしとるトイレットペーパーとか洗剤とかあるけぇ頼んだら持って降りてきて」 「分かった」  小さい頼み事だが、この家で役割を与えられてほっとした。高校に通う身の律には、この家で出来る手伝いは限られている。 「ここが律の部屋よ。掃除して窓開けとったけぇ綺麗よ。布団も窓んとこ干しとるやつ寝る時に使いんさいね」  引戸の向こうは六畳ほどの畳の部屋だった。中にあるのは古びたタンスと、真新しい机。そして部屋に二つある窓には、それぞれ敷布団と掛け布団が引っ掛けて干されていた。  鼻歌を歌う聡太に続いて部屋に入る。  壁に手をつくと、手のひらにパラパラと何かかがくっついてきた。 「あんま壁触ると砂落ちてくるけぇ気をつけんさい」 「ええ……?」  触ると壁の崩れる家なんて住んで大丈夫なのだろうか。律は砂壁の家を初めて見た。  ここは初めてのものが多すぎる。でもだから、今までの生活とはガラリと変わるその生活で、過去のことを塗り替えられるような気がした。 「あと、律が良かったらなんじゃけど俺の使っとった服着ん?」 「いいの?」 「ええよ。ちょっと大きいかもしれんけど、袖捲ったら着れるじゃろ」  そう言いながら突然背中をポンと叩かれて、内心ぞわりとする。 「うん、ありがと」 「……なぁ律、もしかして触られるの嫌なん?」  律は驚いた。今までそのことに気がついた人間はいなかったのだ。  顔に出づらい人間だと、自他共に認めている律だ。嫌だと思うことも黙っていれば誰にも気付かれなかった。 「あ、あんまり……人に触られるのは、好きじゃ無いかも……」 「そうなん?俺仲良いとすぐ触ってしまう癖あるけぇ気をつけるわ」  何でも無いことのように言ってまた鼻歌を歌い出す聡太を律は意外な気持ちで見つめてた。  鈍そうなのに。案外人のことをよく見ているのかもしれない。  夜も十時を回った頃。  歓迎会だとご馳走のならぶ食卓に胃を圧迫させ、初めて使うシャワーなしの浴室に戸惑いながら入浴し、律はいつも以上に疲れて沈み込むように敷布団に倒れた。 「あ、」  また、だ。律は顔を枕に埋めて水分を吸い取らせた。  あの日からずっと、夜一人になると勝手に涙が出てくる。何が悲しいと明確に説明できるわけではない。  ただただ止めどなく涙が溢れてくるのだ。  今日からは隣の部屋に聡太がいる。いつも以上に声を押し殺して嗚咽を隠した。    翌朝、聡太の呼ぶ声で目が覚めた。  居間に降りると既に目玉焼き、ウインナー、味噌汁がちゃぶ台に並んでおり、自分で米をよそえと茶碗を渡される。律のために新しく購入されたのであろう青色の茶碗だ。  歯ブラシ、コップ、布団カバー等。来た時に既に用意されていた律の生活用品は、全て青色にまとめられていた。  ちなみに聡太は赤、じいちゃんは緑らしい。  茶碗にこんもりと白飯を盛ってじいちゃんの隣に座ると、反対隣にいた聡太に話しかけられた。 「なぁ、律は明後日から学校行くんよね?」 「うん」 「学校行くんに必要なもの買わんといけんのんじゃないん?」 「あー……」  そういえばそうだ。教科書は学校で渡されるとして、ノートや筆箱、筆記用具などは用意しなくてはない。 「今日どうせ律の制服取りに行かんといけんし、着いてきて要るもん買いんさい」 「うん、そうする」  ありがたい申し出を素直に受け入れる。学校用品以外にも必要なものはあるし、車を出してもらえるのは助かる。 「律、いじめられたらすぐじいちゃんに言うんよ!」 「つい最近入学式があったばっかしゃけぇ、皆んなまだ知らんもん同士よ。律もすぐ馴染むじゃろ」 「いけん!あそこは根性の曲がった子らがおるけ!」 「人の母校に何てこと言うん⁉︎ほいでソレ絶対俺のことじゃろ⁉︎」  朝から元気だな……。この二人は低血圧の律には信じられないほどフルパワーで一日を開始するようだ。  律は話題の中心であるはずなのに全くテンポについて行けていない。  会話に混ざることを諦めて、転入日のスケジュール確認をしようとスマホを開く。画面に表示された今日の日付を見てあることに気がついた。  今日は平日だ。  じいちゃんは置いておいて、聡太は仕事に行かなくていいのだろうか。  一緒に住むならこのくらい聞いても良いだろうかと、隙を見て言い合いに割り込んだ。 「ねぇ、聡太は何の仕事してるの?」 「律、コイツはニートなんよ……」 「ちょっとじいちゃん!律に嘘教えんとって!」  この二人はずっとこうなのだろうか。年齢の差は大きいだろうに、まるで友人のようなやりとりをする。 「俺は建築設計の仕事やっとるんよ。基本家で仕事しとるけ、学校行っとる律からしたらニートに見えるかもしれんけど」 「設計……すごいね」 「え、ほ、ほんまに?」  照れるわ〜と頭を掻く聡太は、とても設計なんて頭脳的な仕事をするように見えない。  人は見かけによらないんだなと失礼なことを考えながら馴染みのない味の味噌汁を啜った。  昨日同様、聡太の車の助手席に乗り込んだ。  律がシートベルトを止めたことを片目で確認した聡太が車を発進させる。車内で流れているラジオのパーソナリティも広島弁で喋っていた。 「ねぇ。さっき母校って言ってたけど、聡太も俺の行くところ通ってたの?」 「ん、そうよ。ネクタイが何処よりもお洒落なんよ」 「お洒落にこだわるね」 「ダサいよりいいじゃろ」 「それ仕事柄?」 「え、関係あるんかな?」 「いや俺は知らないよ」  初めて聡太と会った時、彼のことを自分とは正反対だと思った。  それは今も変わらないイメージだが、反対と言っても案外反りが合わないと言うわけでは無いらしい。  聡太との会話は、テンポ感が心地良い。  じいちゃんと三人でいる時も、律が話したがっている時はわざと入り込む隙を与えてくれているように感じた。 「ネクタイ結べるかな」 「俺が教えちゃるよ」 「結べるの?」 「じゃけぇ同じ制服着とったんじゃって‼︎今も外出る時はスーツ着たりするんよ?」 「そ、想像できない」 「ん?馬鹿にしとる?」  やはり話していてストレスがない。自然と会話が続く。  車を降りてショッピングセンターに入ってからも、二人は会話を途切れさせることなく続けていた。  翌々日の転入の日。  新しい同級生たちは最初に聡太の言った通り、聡太ほど訛りが強くなかった。  だから圧倒的に聞きやすいのクラスメイトの話し方のはずなのに、何故だか律は、太鼓を打つような勢いをもった聡太の話し方の方が好きだなと思った。 ♦︎   「律ストップ!学校行くん一瞬待って!」 「なに?」  生活の変化にも慣れてきた頃、学校に行こうと部屋を出たところで待ち伏せしていたであろう聡太に足止めを食らった。まぁまぁと促され律は自室に逆戻りする。 「なに、なんなの?」 「律。明日なんじゃけど、学校終わったらすぐ帰ってきてくれん?」 「良いけど……なんで?」  律が尋ねると、聡太は待ってましたとばかりに得意げに両手を腰に当てて真意を話した。 「じいちゃんのサプライズバースデーパーティーするんよ!」 「じいちゃんお誕生日なの?」 「そう!ほいじゃけ誕生日会!」  なるほど、誕生日。それはお世話になっている身としては是非祝いたい。 「プレゼントって何あげたらいいのかな」 「肩たたき券とか喜ぶけぇオススメよ」 「子供じゃないんだから」 「じいちゃんから見たら俺らなんか子供よ。金のかかったもんなんか渡したら見栄はるないうてゲンコツが飛ぶわ」  なんとなく想像できるが、律は未だにじいちゃんにゲンコツやビンタを受けたことがなかった。  受けない方がいいのだろうが、聡太とじいちゃんとの間に行われているそれは叱責というよりじゃれあいのようだ。  そこに混ざれないことに、律はいつも少し寂しさを感じていた。  では何をプレゼントしたら喜んでくれるのだろうかと思案していると「律!」と名前を呼ばれた。 「居間の飾り付けせんといけんけ律も学校帰ったら手伝いんさいね」 「じいちゃん家にいるんじゃないの?」 「あーそうじゃね」  窓の外で、じいちゃんが庭に座り込んで草むしりをしている姿が目に入る。それに気がついた聡太が、立ち上がるとガラっと勢いよく窓を開けてじいちゃんを呼んだ。 「じいちゃーん!律とサプライズパーティーの準備するけぇ夕方から散歩出とってー‼︎」 「おーう」 「サプライズとは……」  窓から身を乗り出して叫ぶ聡太と、庭からゆるゆると手を振るじいちゃんのやりとりに呆れる。毎年のことじゃけええんよ!と聡太は楽しそうに笑った。  学校から帰ると、聡太に指示をされながら居間の飾り付けをした。使い回しなのか、少しヨレた折り紙のリングの飾りを天井にぶら下げる。  聡太は料理を並べるちゃぶ台を広くしようと、上に乗っかっている雑誌やら新聞やらを片付けていた。流しているテレビのお笑い再放送を見てゲラゲラ笑っている。  正直何が面白いのか分からない律は、その様子を横目に見て黙々と作業をしていた。 「いけん、見とったら時間経ってしまう!ご飯作らんと!」 「ええ……?そんなに面白い?」 「面白いで。ほいじゃけど律は普段も全然笑わんよねぇ」 「……ごめん」 「何で謝るん。クールでええよ。面白うないのに笑わんでもええ」  愛想がないと咎められているのかと思い謝ると、聡太は不思議そうに律を見て笑った。  初めて会った時から変わらない笑顔だ。 「……聡太はいっつも笑ってるね」 「ほう?面白ことばっかじゃけぇ」 「いいね」 「いいじゃろ」  ガラリと玄関の開く音がする。じいちゃんが入り口から「もう良いかいね〜」と尋ねる声がした。 「じいちゃん!まだ早いけぇ待っとってや!」 「もう充分待ったわいね。はよ飯食わせぇや」  無視して上がってくるじいちゃんを聡太が慌てて止める。律は二人で買った(といっても大半は聡太が出してくれた)じいちゃんへのプレゼントを、さっと折り紙リングの入っていた袋に隠した。  中に入っている碧がかった湯飲みが欠けてしまわないよう丁寧に部屋の隅にやる。  パーティー開始前から玄関先で騒ぐ二人を、どこか遠くから眺めている気分で見ていた。  面白いことばかりだと言って顔を綻ばせる翔太の目に、世界はいったいどんなふうに映っているんだろう。  彼の目を通してこの世界を見てみたいと思った。  そういえば、ここへ来てから律は不意に涙が出てくることがなくなっていた。 ♦︎ 「何しよん‼︎そんとなところに打っでどうするんね‼︎」 「アイツはほんまいけん‼︎適当なプレーで良いと思っとるんじゃないん⁉︎しばくで⁉︎」 「あ⁉︎クソ審判何見とん⁉︎目ぇ付いとんか‼︎」 「ぎゃーーーー‼︎これ今年、もしかしたら、もしかするんじゃないん⁉︎気張りんさい‼︎ホームランしか打つな‼︎」  両隣で響く罵声ともとれる声援にビリビリと鼓膜が震える。  広島県民というのはこぞって野球が好きなのだろうか。駅に降り立ったその日から、街に出ると赤色の野球グッズを目にしない事はなかった。  律は野球のルールも分からない。  それなのにこの空間で、二人と一緒に応援しても良いのだろうかと、どことなく肩身が狭い思いをする。 「(頑張れ……)」  律は初めてまともに見る赤いヘルメットたちの試合に、心の中で声援を送った。  『優勝です‼︎二十五年ぶりの優勝です‼︎』  球場が悲鳴に近い歓声でいっぱいになる。  三人が肩を並べて応援していたチームが優勝したのだ。  たった今優勝が決まったというのに、テレビ画面には『このあとご覧のチャンネルで優勝祝勝会お送りします』という文字が表示された。  優勝なんてすごい。  律は、応援していたチームが優勝するなんて瞬間、体育祭以外で初めて見た。そもそもプロのスポーツの試合を応援するなんて経験がなかったのだ。  このチームのことも、野球のルールさえもまともに知らないのになんだかひどく感動すした。ふと先程まで騒がしかった両側がやけに静かなことに気がつく。  ちらりと二人を交互に見てぎょっとした。 「二十五年ぶりじゃぁ……」 「ほんま……ほんまによぅやった……」  な、泣いている……。  試合中の大騒ぎが嘘のようにべそべそ泣いている。  大の大人が目の前で泣いているのを律は初めて見た。  途中から祈るように両手を胸の前で組んで画面に食い入っていたが、まさか泣くなんて。  ニュースには街中で他人同士がすれ違いざまにハイタッチをしているところや、お酒を飲んで大泣きしながら優勝までの戦歴を語り合う男たちの姿が映ってる。  商店街をぎゅうぎゅうにひしめき合って大騒ぎする赤の集団。みんな子供のようにはしゃいで泣いて笑っていた。    その姿に、律は先程まで湧き上がっていた高揚感が沈んでいくのを感じた。   ♦︎  目覚ましを止めて布団を出ると、部屋の空気の冷たさに身震いする。  律はさっさと制服に着替え、居間に降りた。  いつも律が起きてくる頃には、じいちゃんは既にちゃぶ台で新聞を広げているし、聡太は朝食を作り終えている。  律はじいちゃんの隣にもそもそと近寄って座って「おはよう」と挨拶をした。 「ねぇ、秋過ぎ去るの早くない……?まだ十月だよね、すごく寒いんだけど……」 「律、大丈夫かいね?じいちゃんが炬燵出しちゃろうか」 「じいちゃん⁉︎さっき俺が寒い言うたら甘ったれんな言うて叩いたよねぇ⁉︎」 「やかましい‼︎早よ律に味噌汁出しちゃれ!」 「朝から煩い……」  台所から顔を出す聡太と隣に座るじいちゃんに挟まれたままいつもの言い合いが始まる。  机に頭を擦り付けて、我関せずの態度を示していると「律〜、二度寝しとらんでご飯よそいんさい」と聡太に叱られた。  青茶碗を渡されて寝ぼけたまま高校生男児らしい量の米をよそう。再度元の席に戻ると、じいちゃんがブランケットを置いてくれていた。  ニュース番組のキャスターが今日の日付を伝える。その日付に何かとっかかりを感じてすぐに「あ」と声を出した。 「俺今日誕生日だ」  忘れていた。だからなんだと言うわけでもないかと味噌汁を啜ると、突然「はぁ⁉︎」と二人分の声が部屋に響いた。 「律!なんで先に言わんのん⁉︎」 「誕生日に本人がサプライズしてどうするんね‼︎」 「え、ええ……?」  両側から怒鳴りつけられて鼓膜がきーんと鈍く震える。 「律は何ケーキが好きなん⁉︎」 「え……チョコかな」 「ほーね!ほいじゃったらじいちゃんがチョコのケーキ買うて来ちゃるけぇ!」 「律!なんか欲しいもんないん⁉︎俺がじいちゃんの年金くすねて何でも買うちゃる!」 「お前は自分で稼いどるじゃろアホ孫が‼︎」  お叱りと共に容赦なくベチンと背中を叩かれて聡太が「いってぇ!」と情けない声をあげる。 「べつに、欲しいものとかないけど……」  律がそう言うと聡太が「えー?」と不満げな声を上げた。 「欲がないねぇ……ほいじゃったら俺のセンスで律に合うもん選ぶわ!律が帰ってきたらすぐサプライズパーティーじゃけぇ学校終わったら寄り道せず帰るんよ!」 「だからサプライズとは……」  呆れる律の声はもう二人には届いていなかった。 「「ハッピー‼︎バースデー‼︎律‼︎」」  学校から帰って玄関を開けるなり、パーンとクラッカーの大きな音が鳴らされる。  髪に被さる銀テープ越しに見える聡太とじいちゃんは、先日の誕生日会の時にも使用していたパーティー帽を被っていた。  聡太がニコニコと近寄ってきて「バースデーボーイ」と書かれた襷を律の肩にかける。こんなもの何処で売っているのだろうか。 「……ありがとう」 「あ、律!入る前に玄関の紙吹雪掃除しとって!」 「それバースデーボーイがやるんだ……」  散らばった銀テープをワサワサとかき集めているうちに、パーティー帽の二人は居間に戻る。  襖の奥からまた喧嘩する声が聞こえてきて、こんなに賑やかな誕生日は初めてかもしれないと思った。  律の両親も毎年ちゃんとお祝いしてくれていたが、誕生日の当事者を置いてはしゃぎ回るようなことはなかった。  ふっと居間の電気が消える。蝋燭の立ったケーキが出てくるんだろうな、と察して可笑しくなった。こんなにも分かりやすいサプライズがあるだろうか。  律は二人がタイミングをうまく測れるように、わざと足音を立てて居間への廊下を歩いた。  聡太の作った料理を食べ、じいちゃんの買ってきたケーキを皆んなでつついた。じいちゃんと聡太の歌うハッピーバースデーは、音程もタイミングもバラバラだったのに聞き心地が良かった。  パーティーが終わるとじいちゃんは早々に寝てしまったので、聡太と律が二人で後片付けをする。 「律は何歳になったん?」  じいちゃんの誕生日顔の時にも使用していた折り紙のリングを、聡太が丁寧に紙袋に入れながら話しかけてくる。 「十六」 「若いねぇ、何でも出来るわ」  若い、は世間一般では褒め言葉だろう。だけど律はそれを他でもない聡太に言われるのが気に食わなかった。お前はまだ子供だと言われているようで。  けれどもそれをじいちゃんに言われてもきっと腹を立てたりしない。律の中で、じいちゃんと聡太の違いはなんなんだろうと思った。きっとそれは歳だけじゃない。 「聡太は何歳なの?」 「俺?俺は二十六よ!律の十個上じゃねぇ」  じゅう……。  律にとっては途方もない数字だ。十年後の自分がどんなふうになっているのかなんて全く想像がつかない。 「聡太の誕生日はいつなの?」 「もう過ぎたんよ。三月の三日じゃけぇ来年お祝いしてね」 「ひな祭りじゃん」 「祭り事が重なってめでたい日よ!」  祭りと言ったって女の子の祭りだろうに。お雛様でも出すつもりかと聞くと、聡太はそれもええねと笑った。 「律、これ誕生日プレゼント」  聡太がカバンの中からラッピングの施された袋を取り出して律に差し出す。 「じいちゃんの年金で買ったやつ?」 「違うわいね!自分で買うたんよ!」  中には様々な服に合わせやすそうなグレンチェック柄の厚手のマフラーが入っていた。 「まだ早いかもしれんけど、本格的に寒くなってから買うんじゃ遅いけぇ」 「ありがとう、使う」  試しに首に巻いてみると肌あたりが良くて、律は頬をマフラーに埋めた。 「律は冬服まだ買っとらんよね?俺のお下がりまた何着か持ってくじゃろ?」 「欲しい」 「ほいじゃけどコートは新品のかっこいいの買おうかね、せっかくじゃし」 「何で?聡太のお下がりがあるならそれでいい」  ここにきてから何着か新しく服を購入したが、律は未だに最初にもらった聡太のお下がりをよく着ている。聡太の服を着るのは嬉しかったけど、この頃よく余った袖を捲るとき聡太との体格差を感じて嫌になる。  体格的にも社会的にも、聡太に「守られる側」であることがひどくもどかしかった。 「(俺が聡太を支えられるようになれればいいのに)」  そう思ってふと首を傾げる。そんな風に誰かに対して思ったのは初めてだった。父さんにも母さんにも、友達にだって自分が支える側になって頼られたいだなんて思ったことがなかった気がする。  "お前は誰も守れなかったくせに"  脳内に自分の声が響いた。 ♦︎  つい半年ほど前のことだ。  あの日、学校から帰ったら家が無くなっていた。  隣の中華屋がガス爆発を起こしたらしい。律は両親とよくその店へ麻婆豆腐を食べに行っていた。  律の家だった場所は人だかりが出来ていて、律はその群衆の中から他人事のように警察や消防隊を眺めることしか出来なかった。  母も、父も、中華屋のおばちゃんも、昼から飲んでた常連の爺さんも、皆んなみんな、律の知らないところで居なくなった。  律は火事の翌日からふとした時、急に涙の出るようになっていた。以前から感情豊かではなかったが、ますます周りに笑顔を見せることがなくなっていった。  葬式は両親の親戚家族が請け負ってくれた。  火葬が終わった後も、律はその場からしばらく動けなかった。  それでもせめて何か手伝ったほうがいいだろと会食場へのろのろと歩く。部屋の前まで行くと、中から大人たちの話し合う声が聞こえた。  律のことだった。  うちでは引き取れない。うちも引き取れない。うちは同い年くらいの女の子がいるから……。  四月に高校生になったばかりの律を引き取りたがる親戚は誰も居なかった。これから自分は施設に送られるんだろうと思った。何もかも、どうでも良かった。 「何ねぇ、誰も面倒見れんのね。ほいじゃったらワシが育てちゃる」  そこに突然、老人の力強い声が割って入ってきた。 「ですけど三島さん、お一人でしたら大変でしょう」 「一人じゃないわ。孫もおるけぇこれからは三人暮らしじゃ」  三島と呼ばれたその老人はもう決めたとばかりに「ワシが育てる」の一点張りだった。  迎えにいくと立ち上がってこちらへ向かってくる足音がする。慌てて隠れようとしたが間に合わず、襖を開けた老人と目が合ってしまった。  律の両親とどんな関係だったのかも分からない、話したことも顔を見たこともない人だ。 「あ、あの」  驚いた様子の老人に立ち聞きの言い訳をしようと思考を巡らせる。  すると彼はすぐにニカっとわらって律の頭をワシワシと撫でた。 「律、広島は良い所じゃけぇすぐ好きになる。たいぎい事は全部大人に任せて早よ来んさい」  他人に触られるのが苦手だった。ましてや知らない人間に頭を撫でられるなんてもっての外なのに、その時律は不快感どころかもっと撫でて欲しいとすら思った。  聞いたことのない方言で話しかけてくる三島の言葉に、気づけば律は頷いていた。 ♦︎  一年も終わりを迎える日。  三人は並んでテレビを見ながら色違いの半纏を着ていた。その中でも律の青色の半纏だけが真新しい。 「今年は律も家族になったし、優勝もしたし、良い年じゃったねぇ」 「律、忘れんうちにお年玉やろう」 「ありがとう」 「じいちゃん俺にはないん?」 「三十路が何言うとん……聡太が三十路⁉︎」 「自分で言うて何驚いとん」  両端の会話には慣れたもので、律は受け取ったお年玉をありがたく懐にしまう。 「ほいじゃあワシは寝るけぇ」  いつもより長く起きていたじいちゃんも、もう用は済んだとばかりに立ち上がる。自分の部屋に戻るじいちゃんにおやすみの挨拶をして見送った。 「律はまだ寝ん?」 「うーん、せっかくの年越しだし……」  別に年越しに何か特別な思いがあるわけではないが、なんとなく聡太と二人で炬燵に入っている時間を打ち切るのが惜しい。  曖昧な返事をしていると、流し見ていた年末の番組が元旦を告げた。 「あ、聡太あけおめ」 「あけましておめでとう、じゃろ〜」  そろそろ寝ろと言われるだろうか。律が立ち上がる素振りを見せないので付き合ってくれているが、聡太だってもう眠いはずだ。「なぁ」と話しかけられた。 「律が良かったらこのまま初詣行かん?」 「行く」  即答をしてしまい恥ずかしくなる。  律の食い気味な返事に聡太は笑って車の鍵を取りに行った。  広島城はささやかなライトアップがされていた。まだ深夜だというのに人がたくさん並んでいる。 「何で広島城のとこに皆んないるの?」 「お城の敷地内に大きくて有名な神社があるんよ。じゃけど並ぶんは大変じゃけぇ、俺はいっつも別の神社に行っとる」 「ふぅん」  聡太に連れられて行った神社は、商店街の中にぽつんと建っていた。律たちの前にいたのは家族連れと若いカップルの二組だけだ。 「礼と拍手ってどっちが先だっけ」 「お辞儀を先に二回やって拍手も二回、ほんで最後にもっかい頭下げるんよ」  高校に上がる頃には初詣に家族で行くことのなくなっていた律に、聡太が丁寧に教える。  何をお願いすればいいのか分からなかった律が「健康でいられますように」と心で呟いていると、突然頭の上をワサワサと異物に撫でられた。  驚いて顔を上げると、神主が紙の束のついた棒を持って律と聡太の頭にかざしている。 「え、な、何」 「何って……お祓いじゃろ?」 「お、お祓い?新年に……?」 「東京はやらんのん?」  広島に来てから自分はすごく無知なのではないかと感じることの多かった律は、自分が知らないだけかもしれないと返事に困る。代わりにお祓い棒をふりふりと翳しながら神主さんが答えてくれた。 「東京は知らんけど、広島で新年にこれやっとんのうちだけですよ」 「そうなん⁉︎」  この神社以外に初詣に行ったことが無かったのであろう聡太が、衝撃の事実に後ずさる。その後「ちなみにここ商売繁盛の神社なんじゃけど」と言われてさらに驚いていた。  お参りの後、二人でおみくじを引いた。 「お、大吉じゃ!律は?」 「……大凶」  両極端な結果に唖然とする。大凶なんか初めて見た。  悪い結果はおみくじ掛けに結んだ方がいいと聡太が言うので、律はそちらに向かって歩く。  既にぎゅうぎゅうに敷き詰められている紐のどこに括り付けようかと思案していると、横からひょいとおみくじを奪われた。聡太が自分の大吉と律の大凶を重ねて折り畳み、それを紐にくくりつけていた。 「これで二人合わせて吉じゃね」 「……いいの?聡太の大吉分けちゃって」  おみくじなんてただの道楽だ。どうせ春になったら自分が何を引いたかなんて皆んな忘れているだろう。  けれども自分の運を分け与えるなんてこと、普通だったしない。 「良いんよ」 「……ふーん」  ありがとうと言うのもなんだか憚られて俯くと、そろそろ帰ろうかと提案される。  体も冷えてきたので律は大人しく頷いた。 「律、これ」 「なに?」  車に乗り込んですぐ聡太が差し出してきたのはお年玉袋だった。  お小遣いをもらえて嬉しいはずなのに、なんとなくモヤっとして微妙な顔をしてしまう。 「なんね、嬉しくないん?」 「いや、嬉しいよ。ありがとう」 「ん」  律が今度こそきちんと礼を言うと、聡太は満足そうに頷いた。  律はまだ高校生。聡太は十歳も上の社会人だ。お年玉を貰い受けることはなんら不思議ではない。  それでも手の中のお年玉が、律は大凶のおみくじよりも厄介なものに見えた。 ♦︎  桜の咲く兆しが見えてきた頃。  三月とはいえ、まだ早朝は冬のように冷える。聡太は炬燵に潜り込んでプルプルと震えていた。 「さむ……三月は、春じゃないん……?」 「洗い物は俺がするよ。あと、聡太。これ……」  ぽん、と聡太の目の前に昨夜準備していたものを置く。  聡太は三秒ほど目の前のものを眺め、律に視線を移して答えを求めた。 「何ねこれ」 「ひ、ひな壇」 「ひな壇……」  去年聡太の誕生日にはひな壇を用意しようかと冗談で言った時、思っていたよりも嬉しそうだったから。  今日は聡太の誕生日だ。  律は幼稚園の頃折り紙で雛壇を作ったことを思い出しながら青とピンクの色紙を折った。  ヨレヨレの男雛と女雛の顔に、かろうじて目と口だと分かる線が引かれている。  恥ずかしい、やめれば良かった……と顔を伏せていると、聡太に下から覗き込まれる。突然視界に入ってきた顔にどきりと鼓動が脈打つ。 「ありがとう律、嬉しい」  目をジッと見つめながら、本当に嬉しそうに微笑むから。  じわりの自分の顔に熱が上がるのを感じる。  律はなんとなく居心地が悪くて、そっぽを向いて「どういたしまして」と可愛げない声色で答えた。  聡太の誕生日会といっても、ご馳走を作るのは聡太だ。この家には聡太以外まともに食事を用意できるものはいない。  だというのに。 「あ、俺明日からちょくちょく夜おらんけぇ、そんときはうどんかなんか茹でて食べとってね。たまにだったら出前取ってもいいけぇ」 「おー、もう準備するんか」 「今回は優勝じゃけぇねぇ、衣装も演出もみんな張り切っとるんよ」 「え、なに、何の話?」  すでに合点がいっている様子のじいちゃんに置いて行かれた律は戸惑いながら尋ねる。 「フラフェスの準備せんといけんけぇ」 「ふら……」  聡太とじいちゃんの所属している地域会では、フラワーフェスティバルという広島で一番大きな祭りのパレードで、有志の人間がソーラン節を踊っているのだそうだ。  もともと野球チームの優勝を記念して開始した祭りで、今年は二十五年ぶりの優勝だということで皆んな気合が入っているらしい。  聡太はこれからその準備があるのだそうだ。 「聡太踊れるの?」 「アイドルみたいなんは無理じゃけど、ソーラン節なら毎年踊っとるけぇね」 「そうなんだ……」  ソーラン節。聞いたことはあるが実際のものは見たことがない。聡太はどんな風に踊るのか、律は祭りの日が楽しみだった。  そうして聡太のいない日は出前とうどんで夕食を繋ぎ、あっという間に五月。祭りの当日が訪れた。  律はじいちゃんにイカ焼きを買ってもらった。タレを溢さないように身体から離して食べていると、聞き慣れた声に後ろから話しかけられる。 「お、律食べとるね!」  振り返ると、そこには聡太が立っていた。しかし聡太の服装は、いつものカジュアルなものではない。 「な、何その、衣装」 「これ?かっこええじゃろ!ソーラン節、今から踊るんよ。飛び入り参加も歓迎じゃけぇ律も入りんさい!」 「いや、俺はいいや……」  確かにカッコいい。袖なしの長半纏は黒地に赤色の花の刺繍が彩られて美しい。鉢巻の巻かれたお陰でいつもよりもよく見える聡太の凛々しい眉毛が、男らしさを増長させていた。  ただ律が見逃せなかったのは聡太の上半身だった。他のメンバーは長半纏の中にシャツを着ているのに、聡太だけ胸元をサラシで巻いているため露出度が高い。  理由を尋ねると「リーダーなんよ!じゃけぇ一番目立つようにしとる!」と嬉しそうに言われて、律は「そっか……」と返す他なかった。  元気に拳を振り上げる聡太の脇が半纏の隙間からチラリと見える。そこに視線を引かれて居た堪れない気持ちになった。 「あっちにじいちゃんの椅子取ってもらっとるけぇ、律と一緒に前の方で見とって!」 「じいちゃんの椅子?」  聡太が指を差した方を見ると、テントの中に椅子が並べられており、そこへ老人たちが並んで座っている姿があった。なるほど、長く続いている祭りだからこそ歳をとっても来たいという人たちへの配慮なのだろう。  律が納得していると、頭上から流れてきたアナウンスがソーラン節の開始を予告した。それを聞いた聡太は慌てて控えのテントへ戻っていく。  パレードはどうやら、先程まで歩行者天国になっていた道路で行なうようだ。  律もじいちゃんと連れ立って、聡太の指定したテントに向かう。  テントに着くと、座っていた老人たちが一斉にじいちゃんに挨拶をした。 「三島さんお久しぶりねぇ」 「なんねぇやっぱりもう踊らんのね」 「三島さんの席、聡ちゃんに言われたけぇ取っとるよ」 「前のとこよ三島さん。近いとこで見ちゃりんさい」  じいちゃんは一人一人に返事をしながら、みんなに促されて一番前の端っこの席へすわった。律はその隣にテントから少し足を出して立つ。  じいちゃんの椅子に麦わら帽子を置いて席取りしていてくれた老婆が、律に笑いかけた。 「三島さんとこに東京から来たいう子じゃろ」 「はい、須藤律です。よろしくお願いします」  そう挨拶をすると、四方八方から声が飛んできた。 「礼儀正しい子じゃないね」 「聡太にも見習わせんさい」 「あら何言っとん、聡ちゃんは良い子じゃろ」 「りつ、言うんね、東京は洒落とるわぁ!どんな漢字なん?」  あまりにも自由に話しかけられて、どれに返事して良いものか迷う。  とりあず「りつ、は旋律の律です」と答えると、何故か「お〜‼︎」と歓声が上がった。  三味線の音がスピーカーから鳴り響く。  聡太を先頭に率いた赤と黒の集団が、腕を回して天に突き上げるたびに「どっこいしょ‼︎」と踊り手からも客席からも合いの手が上がった。  すごい迫力だ。踊りの熱量もそうだが、客席の盛り上がりも尋常ではない。  今年は地元の野球チームの優勝もあってか、見ている人間の服装もそのチームのイメージカラーの赤が多く目立つ。それも相まって、この場にいる全員が一つのチームであるように感じた。  曲も中盤になると、我慢できなくなったのか客席から大人子供、女男問わず様々な人々がロープを潜って道路に出る。ステージのダンサーが一気に増えた。  なんて自由なんだ。こんなパレード、律は今まで見たことがない。  その中でも一等目立っているのは聡太だった。  がっしりとした男前な姿形を存分に生かして、全身で力強く踊っている。  その姿があまりにも美しくて、律はただただ呆然と立って見つめていた。  聡太は自分とは違う。  暖かい仲間たちに囲まれてああやって真ん中で笑ってるのが似合う。  道路との距離はそんなに離れていないはずなのに、聡太のことがひどく遠いような……まるで知らない人間を見ているような気分になった。 「すごいじゃろ」  不意にじいちゃんから話しかけられて現実に引き戻される。じいちゃんは律を見上げて得意げに笑っていた。 「うん。すごい。じいちゃんもああやって踊ってたの?」 「踊っとったよ。五年前腰やってしもうてから、聡太にソーラン節は禁止じゃ言われてしもうたけど。ほいじゃけどそしたら誰が先頭で踊るんじゃ!言うたら、聡太のやつ俺がやる!言うて、次の年からほんまにやりよった」  一年で一番目立てる日を孫に奪われたわ、と憤慨するようなセリフを吐くじいちゃんは、言葉とは裏腹に嬉しそうだ。  ボリボリと頭を掻いて照れ隠しをするじいちゃんに、(ああ、聡太の癖はじいちゃん譲りなんだな)とぼんやり思った。 「律も踊ってきんさい」 「俺は振り付け知らないし」 「見様見真似で良いんよ」  そう促すものの、律がそこから動きたがらないことを察した様子のじいちゃんは話題を変えた。 「聡太はな、ああ見えて周りにえらい気ぃ使うんよ」 「知ってる」 「ほんでアイツは見栄っ張りじゃけぇワシにも弱音を吐かん。ほいじゃけど、どっかで出さんと人間ダメになる」 「……うん」 「弱さを見せれんのが弱い証拠っちゅうんが分かっとらん」 「うん」 「ほいじゃけぇ、律が聡太の弱いとこ受け止めてあげんさい」  急な話の方向転換に驚いて、律は再度じいちゃんへ顔を向ける。しかし、じいちゃんはジっと聡太の方を見つめていた。 「でも俺、聡太より十個も歳下だよ」 「そんとな細い数字、じじいになったら些細なもんよ」  それは、そうかもしれない。  けれどそんなに先まで聡太は律のそばに居てくれるのだろうか。 「聡太が、俺なんかに頼りたがらないよ」 「そんとなこと無いわいね。聡太は律のこと頼りにしとるよ」  何を根拠に言っているのか、じいちゃんは自信満々だった。  けれども聡太のことを一番よく分かっているのは間違いなくじいちゃんで、そのじいちゃんが言うなら"そうなのかも"と思ってしまう。 「(そうだったら、いいな)」  こちらに気がついた聡太と目が合って心臓が跳ねる。  聡太は嬉しそうに律とじいちゃんに手を振ってきた。じいちゃんは「真面目に踊りんさい!」とお叱りを飛ばしている。  律は控えめに手を振りかえしながら、以前、聡太の目には世界がどんなふうに見えているんだろうと考えたことを思い出した。  聡太の目に、律はどんなふうに映っているのだろうか。  いま律の視界は、聡太だけが特別キラキラ輝いて見えていた。  玄関の引き戸が開く音がする。スマホを点灯させて時刻を確認すると、既に日付を超えていた。  布団から出て階段をおりる。  律はなんだか眠れなくて、祭りの打ち上げで帰りの遅い聡太をずっと起きて待っていた。  玄関には、上り框に腰をかけたまま腰を折って船を漕ぐ聡太の姿があった。 「ちょっと、上着何処置いてきたの!」 「律は〜ほんまに可愛いねぇ〜」 「聞いてる⁉︎」  よろつく聡太の身体を支えようと近づくと、ふわりと酒の香りがして顔を顰める。  もう五月とはいえまだ夜は冷え込む。酒を飲んできたなら尚更だ。律は聡太の身体を暖めようと、彼の部屋に引き摺り込んで布団でぐるぐる巻いた。 「律〜暑いんじゃけど〜」 「うるさい。水飲んで」  律がコップに入れた水道水を持ってきて渡すと、聡太は素直に受け取ってそれを飲んだ。  目がトロトロと微睡んで頬が赤くなっている聡太がなんだか色っぽくて、見てはいけないものを覗いている気分になる。  コップを洗いに行くのを口実に部屋を出ようと立ち上がると、半分眠りかけの酔っ払いが話しかけてきた。 「律は〜じいちゃんによぅ似とる」 「どこが……聡太の方が似てるよ」 「ほいじゃったら、家族三人そっくりじゃね」 「……うん」  酔っ払いの戯言だと分かっていても嬉しかった。  嬉しいのに、なんだか泣きそうになった。  一度部屋を出て台所でコップを洗ってから戻ると、窓を開けて顔を外に出している聡太に「おかえり」と言われる。  彼の部屋なのにただいまと言うのは変な気がして「うん」とだけ返した。  聡太は大人しく律が巻いた布団を身体に羽織らせており、アルコールで熱った顔だけを出して夜風で冷ましていた。 「律〜、フラフェス楽しかったじゃろ」 「うん、東京のお祭りと違ってみんなが親戚みたいな感じで新鮮だったよ。この街の人たちは、なんか……野球を通じて繋がってるんだなって思った」 「何言うとん。律も、もうこの街の人じゃろ」  当たり前のように告げる聡太に、律は胸の中を黒く渦巻いていた疎外感がずっと薄れていくのを感じた。  そうだ、寂しかったのだ。全員が家族みたいに笑い合って騒いでいるあの空間の中で、自分だけが部外者だった。 「でも、俺野球のルールも知らないし」 「そんなんねぇ、知らんでも良いんよ〜。知らんでも勝ったいうことだけで喜んどる奴らはよぉけおるし、フラフェスなんか勝っても勝たんでも毎年やっとるもん」  聡太は笑って続けた。 「ほいでも、律が知りたいんじゃったら、俺が教えちゃるけぇ」  その笑顔を見て、胸に何かがすとんと落ちる感覚がする。  そうか、そうだったのか。  律はもうずっと、聡太のことが特別な意味で好きだったのだ。  恋に気がついた瞬間に失恋を理解する。  聡太にとって律が恋愛対象になることはきっとない。そんなことは、はなから分かりきっていることだった。  それでも、聡太の好きと律の好きは違うけれど、聡太は律のことを大切に思ってくれている。  律は今それだけで泣きそうなほど幸せだった。 ♦︎ 「須藤くん」  下校中呼び止められて振り向くと、同じクラスの橋本がいた。彼女は律と共に図書委員をしている子で、委員会と図書室の受付当番のときに会話する程度の仲だ。 「なに?」 「あの、何ってわけじゃ、ないんじゃけど……家、こっちの方なん?」 「うん」 「うちもなんよ」 「そうなんだ」 「そう、なんよ」 「(……え?で?)」  用事があるような無いような、もじもじとして要領を得ない態度の橋本にどうしていいか分からず律も黙ってしまう。  なかなか続きを言わないクラスメイトに、もう一度何の用かと聞こうとした時、視界の端に見慣れた姿が通り過ぎた。  聡太だ。  聡太が反対側の歩道を、エコバッグをもこもこにして抱え歩いていた。 「聡太!」 「律?」  車も通らないような道だ。少し声を張って呼び止めると、律に気がついて小走りで近寄ってきた。 「偶然じゃね〜。今帰るとこなん?ほいじゃったら一緒に……あ!」 「なに?」  聡太が律の後方に視線をやるなり声を出すので、何事かと聞き返すと「何じゃないわいね!」と顔を近づけて小声で囁いた。突然の至近距離に胸がどきりと跳ねる。 「律!後ろの子彼女じゃろ?もー!そんなんおるんじゃったら言うてや!邪魔しちゃいけんけ先帰っとるね」 「は?」  聡太は気を使ったつもりだろうが、律の機嫌は急降下する。律に彼女ができても良いと暗に言っているその態度が気に食わなかった。 「彼女じゃないし、たまたま道であっただけのクラスメイトだから」 「え、そうなん?」 「そうだよ。じゃあね橋本、俺この人と帰るから。何かあるならまた明日聞くよ」  律がそう言って手を挙げると、橋本は少し気まずそうに笑って「また明日ね」と言った。 「あの子、律のことが好きなんじゃないん?」 「……何でそんなこと聞くの。違うよ」  律の好意を知らない聡太の無神経な勘違いに苛立つ。せっかく外で会えたのに、こんなのはあんまりだ。 「可愛い子じゃったけど」 「へぇ、聡太はああいうのタイプなんだ?」 「俺がじゃなくて律じゃろ〜?」 「違うし。もうその話題やめてよ」 「ほいじゃけど」 「しつこいってば‼︎」  怒鳴ってからハッとした。こんなのは八つ当たりだ。自分が聡太に恋愛対象としてみてもらえてないからって、それで聡太に腹を立てていい理由にはならない。 「ごめん、今日夕飯いらない」 「律?」  踵を返して元来た道を戻る律を聡太は引き止めない。  それでも、角を曲がるまで律の背中にはずっと聡太の困惑した視線が刺さっていた。  最悪だ。  この間ようやく自分でも自覚したばかりの感情を察してもらえなかったからと八つ当たりをしてしまった。  家族として好きでいてくれれば良いだなんて思っていたのに、ほんの些細なことでこのザマだ。  あまりにも幼稚な自分の行動が恥ずかしくて、律は家に帰れないでいた。  スマホには、メッセージと着信がいくつか届いている。  じいちゃんと聡太からだ。  心配をかけてしまっている。早く帰らなくては。  のろのろと立ち上がると、再度着信を知らせる音楽が鳴る。律は画面を確認せずに応答ボタンを押してスマホを耳に当てた。 『律、いまどこおるん?』  じいちゃんなら良いなと思って受けた声は聡太のものだった。 「……どこでしょーか」 『律』  あ、怒ってる。聡太のこんな低い声はなかなか聞かない。情けないことに少し怖くなって、律は正直に答えた。 「不動院前の太田川んとこ」 『……何でそんとな微妙に遠いとこに』  受話器の向こうから頭を抱える気配がする。歩いていたらここまで来ていたのだ。何故と聞かれても答えられない。 『車で行くけぇ、そこで待っとりんさい』 「うん」  歩くと一時間ほどかかってしまう距離だ。迎えに来てもらったほうがいい。  律は言われた通り、川の前で大人しく聡太を待っていた。  二十分ほど座って川を眺めていると、後ろから草を分ける足音が聞こえてきた。 「律」  居場所を知っていたからか、先ほどの切羽詰まったものよりも随分柔らかい声で呼ばれる。 「律」 「うん、帰る。ごめん」  もう一度名前を呼ばれて漸く振り返る。  心配させてしまったことを謝ってから聡太の乗ってきた車に向かって歩くと、三度目の「律」が川原に響いた。 「何か気に触ること言ったんじゃったら教えて。俺気ぃ使えんけぇ言ってもらえんと分からん」  迷子のような顔をして律を見つめる聡太に、ほんの少し動揺する。  聡太のことを気が使えないと思ったことはない。快活で勢いは強いが、人の機微には敏感で余計なことは言わない。相手が嫌がっていると気が付いたらそれ以上はその言動を自制することもできる。  そんな聡太だから律は好きになったのだ。 「聡太は悪くないよ」 「でも律は俺に怒っとる」 「聡太に怒ってるけど悪いのは聡太じゃないよ」  難しいこと言わんとってと聡太が眉を下げた。その顔が可愛くてもっと困らせたいだなんて思ってしまう。  律はなんだかおかしくなって、ついクスリと笑った。 「!律、」 「俺、聡太が好きなんだ」  想像よりずっと簡単に言葉が出た。するすると解いた糸を垂らすようにスムーズに、心の内側にあるものが口から転がり出ていく。 「女の子と付き合いたいと思わない。ていうか聡太以外と付き合いたいと思わない。だから誰が俺のこと好きでも関係ない。俺は聡太が好きだよ」 「……家族の好きじゃろ?律はまだ、」  何を言われているのか理解できない様子の聡太は、それでも動揺を隠さず律に言い返してくる。しかし律は聡太の言葉を遮ってさらに続けた。 「聡太は家族とキスしたいとかセックスしたいって思う?」 「お、思うわけないじゃろ!」  聡太はまさかそんなこと律の口から出ると思っておなかったのだろう。わたわたと慌てて顔を赤くした。 「だよね、俺も。でも聡太には思うよ」 「え」 「聡太のこと抱きたいと思うよ」 「俺が抱かれる方なん⁉︎」  言われた途端、聡太が驚きを全身で表現するように後ずさって大声を出した。  その姿になんだか胸にモヤモヤと溜まっていたものがスーっと消えていくのを感じる。  律の言葉に随一動揺する聡太が可笑しかった。 「聡太」 「な、なんね」 「帰ろうか、じいちゃんが心配してる」  聡太は不意をつかれたような顔をして、それから「ん」と頷いた。  少しだけ開けた窓から風が吹いて二人の前髪を揺らす。  車内を、反対側の道路を通る車のヘッドライトが不規則に照らした。 「律お腹空いとらん?」 「空いた。ご飯なに?」 「そぼろ丼」 「また?」 「たまには律が作っても良いんよ」 「そぼろ丼楽しみだな〜」 「律〜⁇」  聡太は普段一度に沢山喋るのに、律がそうして欲しいと思う時には敏感に察して手短な会話をしてくれる。  律は聡太のそういうところも好きだった。 「聡太」 「んー?」 「好き」 「っ!」  いつまでこうやって新鮮な反応をしてくれるんだろうか。きっとそのうち慣れて律の恋心なんて上手くあしらう様になってしまうんだろうなと思う。  受け取りもせず、だからといって捨てさせてもくれない。聡太は律を絶対に傷つけたがらないから。  だから律は告白する前からずっと、聡太への恋はぬるま湯に浸かるみたいにゆるゆると抱え続けることになると察していた。 「可愛いなぁ」 「お、俺のことなんか抱いても絶対楽しくないけぇ……」 「じゃあ楽しいか楽しくないか試させて」 「何言っとん⁉︎律のケダモノ!」  ハンドルを握ったまま肩を寄せる聡太は、律よりもずっと図体が大きい。それでもそれが可笑しくて可愛くてジリジリと運転席に近寄る。 「そうだよ、ケダモノだよ。がおー」 「ちょっ待、」 「ふ、ふふ」 「〜っ‼︎律‼︎」  こんな風に笑うのは久々だった。  好き。好きだ。  どうしようもなく聡太が好きだと思った。 ♦︎  律が来てから二回目のじいちゃんの誕生日を迎えた。  ただ今回は居間ではなく病院で。一週間前、急に倒れたのだ。  ただそれも今は持ち直し、こうして元気にまた一つ歳を重ねている。  なかなかくたばらんね、なんて冗談を言えるくらいには元気になっていて律は内心ほっとしていた。 「じいちゃん、俺仕事で三日くらい東京の方行かんといけんくて……」 「おー、行ってきんさい」 「ほいじゃけど大丈夫なん?なんだったら断れる仕事なんじゃけど」 「いらん心配しんさんな、律がおるけ大丈夫よ」 「そうだよ、仕事頑張ってきて」  お土産もよろしくね、と律が言うと聡太は漸く頷いた。  律は二人に頼って欲しかった。いつも世話になってばかりの自分が、聡太とじいちゃんの役に立てればいい。  じいちゃんの病状について律は聞いていないが、この様子なら聡太が帰ってくる頃には家に帰れるだろう。  そしたら三人また並んで、聡太のお土産を食べながらテレビでも観るのだ。  無邪気な律はそうなることを疑っていなかった。  それは、下校中のことだった。  病院からの電話で、じいちゃんが倒れたと言うことを告げられ、律は看護婦との通話が切れないうちに走り出していた。  病院に着くとすぐにリカバリールームに通された。  ベッドの上のじいちゃんの両腕や指は沢山の管で繋がれている。口にはドラマでしか見たことのないような酸素マスクが取り付けられていた。  じいちゃんの命はいまこの管たちに紡がれているのだと思うとゾッとした。  生き生きとした目は瞼によって隠されており、律の不安を煽る。  医師が状態を説明してくれるが、律の頭には何も入ってこなかった。何が頼ってほしいだ。いざとなった時、自分には何も出来ない。  ぐるぐると混乱する頭で聡太のことを思い浮かべた。 「あの、聡太、聡太いま、東京に行ってて」 「そうですか。こちらからも連絡を差し上げたのですが繋がらなくて……もし来れそうなら無理にでも今日中に来ていただいた方がいいかと」  医師の言わんとすることを察して律はさらに青くなる。  聡太を、聡太を呼ばなくては。今ここに居るべきなのは律ではなく聡太だ。  震える手で何度も聡太に電話をかけるが、そのたびに留守番電話に繋がる。  聡太が着信に気が付いた時にすぐ状況を把握できるように、メッセージを送るべきなのは分かっていた。だがまともな文章を打てる気がしなかったし、聡太の声を聞きたくて堪らなかった。  何度かけても繋がらず、律はだんだんお腹が痛くなりその場に蹲ってしまう。  怖い、どうしよう、またいなくなってしまう。また自分は何もできずに、また……。  脳みそがクラクラしてきて倒れそうになる。  壁に額を預けた瞬間、聞き慣れた着信音が律の耳に響いてきた。  聡太だ。  ハッと意識が現実に戻る。急いで通話ボタンを押してスマホを耳に当てた。  尋常ではない着信数とその通知が全て病院と律のものだったころから状況を察したのか、電話口の聡太の声は焦っていた。 「律⁉︎どしたん⁉︎」 「聡太!じいちゃんが!じいちゃんが倒れて、意識戻らなくて、それで、でも今は心拍数、七十三とかで、だから」  電話の向こうで息を呑む音がする。 「律、分かったけ落ち着きんさい。すぐ帰るけぇじいちゃんの側におってね」 「す、すぐっていつ?俺何も……」 「なるだけすぐよ。じいちゃんと待っとって」 「わ……わかった」  ピッという電子音と共に電話が切れる。  震える足を叱咤してまた病室に戻った。何もできず怯えていた律に、聡太はじいちゃんの側にいるという指示を与えたのだ。  律は聡太が来るまでじいちゃんと手を握っていた。部屋は、ぽとりぽとりと点滴の雫が落ちる音とじいちゃんの心拍数を伝える機械の音だけがやけに響いていた。 「律」 「⁉︎」  どのくらい時間が経っただろうか。不意に枕元から声が聞こえてばっと顔を上げる。じいちゃんが閉じていた目を開けて律をまっすぐ見ていた。 「な、何?」 「律、あん時な、誰も律を引き取らんかったんは、律が要らん子だったけぇじゃないんよ。みんな、大変だったんよ」  何故今そんな話をするんだろう。そんなこともう気にしてなんかいなかった。  じいちゃんと聡太が家族になってくれて、律はそれで幸せだった。 「ワシは律が来てくれてホンマに嬉しかったんよ」 「お、俺だって……」 「聡太はな、ああ見えて泣き虫じゃけぇ……やっぱり律が支えてやりんさい」 「でも、でも俺何も出来ないよ。じいちゃんがいてくれないと」 「ワシはもう、よう頑張ったじゃろ」  そう言ってじいちゃんは力なく笑った。 「もっと、あと三十年くらい頑張ってよ!」  泣き出しそうなのを堪えながら理不尽なことを訴える。じいちゃんは律のワガママを優しい眼差しで受け止めていた。  それでもそのワガママを受け入れる気はないようで、呼吸器から酸素をもらうと芯の通った声で律を嗜めた。 「律、気張りんさい」 「むり、無理だよ、だって俺」  ぺちん  緩やかな衝撃が頬に走る。 「……はじめて、じいちゃんに叩かれた」 「痛いか?」 「……痛い」  叩くと言うより手を添えると言ったほうが正しいようなビンタだった。それでも初めて受けたそれは、律の心をひどくひどく痛めた。  じいちゃんは「ほうね」と楽しそうに笑って、それからまた目を閉じた。  それからニ時間後、じいちゃんは静かに息を引き取った。  医師に末後の水をどうするかと訊かれる。聡太が来てからにしてくれと頼んで一人でジっと待った。  聡太が病院についたのは面会時間をとうに過ぎた二十一時だった。  聡太は汗だくで部屋に飛び込んで開口一番に「じいちゃん‼︎」と叫んだ。脇のナースセンターにいた看護婦が、聡太の心情を気遣いつつも声量を抑えるよう注意する。普段であれば素直に謝る聡太も、今は看護婦の声など聞こえていないというようにそのままじいちゃんの枕元に駆け寄った。 「聡太……あのね」  律はずっと黙ってじいちゃんの手を握っていたが、聡太の姿を見て名前を呼んだ瞬間、堰き止めていた感情が一気に溢れ出した。  聡太は律とじいちゃんを交互に見て口を強く結ぶと、ベッドを挟んだむかい側で泣いている律の元へ近寄った。そして、嗚咽を漏らしながら「あの、あのね」と懸命に話そうとする律の頭を聡太はワシワシと撫でる。 「そうた、じ、じいちゃん……じいちゃんが」 「おう。側におってくれてありがとうな。律がいてくれて良かった」  その言葉にまた涙が溢れ出す。一人でどうすることもできず怖かった。無力な自分が悔しかった。待っている間、じいちゃんの手の体温が薄れていくのが悲しかった。悲しかった。悲しかったのだ。  大切な人を失ったのは聡太も同じはずなのに、聡太はボロボロと溢れる律の涙を自分の胸元で受け止めた。全力で走ってきたのだろう聡太のシャツは汗で湿っていて、薄い布越しに聞こえる心臓の音はドクンドクンと脈打っていた。  聡太は結局、葬式のときも最後まで泣かなかった。  律はというと、じいちゃんが中で眠っている箱が焼かれる姿を見てまた少し泣いてしまった。その時も聡太は黙って律の頭を乱暴に撫でた。 「人が死んだらやらんといけん事よぉけあって忙しいわ」  何かの書類の整理をしながら聡太がぼやく。手伝おうとしたが、パッと見ただけで血縁者の記入しなくてはいけない書類なのだと察して申し出を飲み込んだ。  何をするでもなく黙って側に座っている律を、聡太は邪険にするでもなく置いておいてくれている。 「じいちゃんの通帳見たんじゃけど、年金殆ど使っとらんのよ。律の為に残しとったんじゃね」 「……二人のためだよ」 「ほうかね」  ほいじゃったら遺産使うて焼肉にでも行こうかね、と冗談めかして聡太が笑う。けれどもそれはいつもの太陽のような明るいものではなくて、お面を貼り付けたような、そんな笑顔だった。 「……聡太」 「ん?」 「それ、やだ」 「何ね、どれね?」  律が黙って聡太の顔に指をさす。聡太は途端に困ったように微笑んで頭を掻いた。 「どういう顔しとるんが正解なんか分からんのんよ」 「面白くないときに笑わなくて良いって、聡太が言った」 「……そうじゃったっけ?」  そう言ってまた曖昧に笑うが、思うところがあったのか息を吐いて顔を覆ってしまった。それから聡太は「あーーーっ!」と意味を持たない言葉を吐いて空を見上げる。  その溜息の延長線上のような声には、色んな感情が含まれていると思った。  数秒ほど間が空いて、突然隣からぽつりと「分かっとったんよ」という声が聞こえる。 「ホンマは、じいちゃんがもう長くないいうことは、ずっと分かっとった」 「……」 「ほいでも見て見ぬふりしとった。ずっと三人で暮らしたいと思っとった」 「うん」 「俺まだ、じいちゃんに、恩返し出来とらん。全然返し足らん」 「うん」 「おれ、おれもっ、じいちゃんの、さいごに……側におりたかったっ!」  聡太の声が途切れ途切れになっていく。嗚咽の混じりだした言葉を全て拾い上げようと、律は身体をずらして聡太の肩が触れるほどに近づいた。 「わかっとった、かくごも、しとった……じいちゃんがっ、律がおらん時おれに、律のこと、頼む……言うてきたけぇ」 「……うん」 「ほいでも、ほいじゃけど、いくら覚悟できとっても……」  聡太はついに顔を覆ってボロボロと涙を溢した。 「しんどい」  触れた肩が激しく震える。あまりにも不器用な感情の吐き出し方に、聡太は泣き慣れていないんだなとおもった。  律は泣きのプロなので、ジっと黙って聡太の呼吸がしやすいよう背中をさすってやる。  律は知っている。大事な家族を失ってしまった時の絶望を。誤魔化しようのない悲しみを。  だからこそ何も言わなかった。  これは聡太の悲しみなのだ。聡太だけの、誰にも共感することのできない悲しみだった。  いくら似た経験をしたからってそれは同じではないし、どんな言葉をかけられたところで聡太の後悔は晴れない。  ただ黙って、律が側にいるということを掌から彼に伝えた。自分の手の熱が、少しでも聡太を温められますようにと願って。  しばらくそうしていると、多少呼吸が落ち着いてきた聡太にそっと頭を撫でられた。 「……なに」 「俺ばっか甘やかされてズルいわ。律も俺から甘やかしを受けんさい」 「いや意味、わかんないから……俺もう散々泣いたし」 「ほいじゃけど、俺は今知ったんじゃけど、涙言うんはいくら流しても流し足りんもんなんよ」 「……俺は知ってたし」  聡太に言われなくたってずっと前から知っている。律は泣き虫の先輩なのだ。  口を結んで堰き止めていたものが、聡太のせいで一気に溢れ出す。あれだけ泣いたのに、律の涙は全く枯れていなかった。  律だってじいちゃんが好きだったのだ。たった一年しか一緒にいなかったけれど、律にとってじいちゃんは大事な家族だった。  寂しい。悲しい。もっとたくさん話したかった。大好きだった。  律と聡太は、二人で並んでわんわん泣いた。  夜も更けて静まり返った空間に、カラカラと窓を開ける音が響く。夜風がふわりと入り込んできて、体の中の熱を緩やかに冷ましていった。 「いけんね、歳下に慰められてしもうた」  振り返ると、目元と鼻の頭を赤くした聡太が照れ臭そうに笑っていた。その笑顔は数時間前のものと違い馴染みある朗らかなもので、律はほっと息を吐いた。 「慰めさせてよ」 「律?」  これまでとは違う緊張した面持ちの律を、聡太は不思議そうに見上げた。 「歳下とか関係ない。俺だって聡太のこと支えたい」  窓枠を握ったまま、碌に視線も合わせずに告げる。  自分よりも体躯の良い一回り近く歳上の男の子のことを守りたいと思う。律は、クラスの女子なんかよりよっぽど聡太に頼られたかった。  じいちゃんに聡太を支えてやってくれと頼まれた時、自分には出来ないと本気で思っていた。けれど今は、どれだけ他人に無理だと否定されたとしても、聡太が辛い時手を伸ばす相手は律がいいと思う。  自分には何も守れないと思っていた。けれども、守りたいと思ったのだ。 「ほんまよね」 「え?」 「これからは俺が律の保護者じゃけぇ気張らんといけんって勝手に思ったったけど、律ももう大人なんよね」 「そ、そうだよ」  いつもと違うのは聡太の方もだった。  想像していたよりもずっと素直に頷かれて、律は自分から言い出したにも関わらず動揺した。  なんとなく照れ臭くて黙ってしまう。  聡太も何も言わず隣にいてくれた。  しばらくそうしていると、何となく次の話題が欲しくなって思考を巡らせる。チラリと聡太を横目に見て、ふとずっと気になっていることを思い出した。  聡太の両親はどこにいるのだろうか。  会話の端々から、聡太が幼い時からじいちゃんと暮らしているのだろうことは察していた。  だがその理由を今まで律は聞いたことがない。  今なら聞いてみてもいいような気がした。 「聡太、ちょっと聞きたいんだけどいい?」 「ん?ええよ」 「答えたくなかったら、答えないでいいから」 「何ねぇ、かしこまってからに」 「聡太は何でじいちゃんと暮らしてたの?」  聡太は目を丸くして黙った。やはり聞いてはいけないことだっただろうかと思い質問を取り下げようとすると、聡太に違う違うと首を振られた。 「もうじいちゃんから聞いとると思っとったんよ」  知られたくないわけじゃないようで、何でもないことのように聡太は続けた。 「俺な、父さんの妾の子だったんよ」 「めかけ……」 「浮気相手じゃね。それがバレて父さんは本当の奥さん離婚して、俺の母さんとも上手くいかんくって別れて。誰も俺のこと欲しがらんかったんよ。赤ん坊だったけぇ覚えとらんけどね」 「……」 「ほいじゃけど、そん時じいちゃんがわしが育てる言うて俺のこと引き取ってくれたんと」  じいちゃんは聡太の母方の祖父だったそうだ。お母さんたちとは今も連絡をとっているのか聞いたが、知らないと答えられた。そういえば葬式にそれらしい人たちが来ている様子は無かったように思う。 「一緒だね」 「一緒?」 「俺もあの日、じいちゃんが周りの大人に言ってくれたんだ。ワシが育てる、ワシが律の家族になるって」 「……ほーね」 「うん」 「ほいじゃあお揃いじゃね」 「うん」 「俺も、律が来てくれて嬉しかったんよ」 「うん」 「可愛い弟が出来たいうてはしゃいどったけ鬱陶しかったじゃろ」 「そんなことないよ」  聡太の小指に、自分のそれを少し当てる。聡太はそれが偶然ではないと気が付いているだろうに、手をずらさないでいてくれた。 「聡太」 「んー?」 「弟で居られなくて、ごめんね」 「……なんで謝るん」  何がダメなのか、何が申し訳ないのか律は答えられなかった。それでもその時、律は自分が世界一の罪人のような心持ちだった。 ♦︎  律が来て二回目の聡太の誕生日を迎えた。  朝起きて居間に降りると、ちゃぶ台の上に昨年律の作ったひな壇が飾ってあって居た堪れない気持ちになった。 「聡太、誕生日プレゼント何が良い?」 「それ当日に聞くん?」  ケラケラと笑いながらも、聡太は顎に手を当てて真剣にほしいものを探す。やがて「あ」という声と共に顔を上げて律を見た。 「ほいじゃったら律、宮島行かん?」 「みやじま?」 「律のこと連れて行くん忘れとったけぇ。広島住んどるのに宮島行ったことないんはもったいないじゃろ!せっかくじゃけ泊まりで行こうや!」  それとプレゼントどういう関係があるのかと聞くと、律の時間を貰うだと言われた。  そんなもの欲しがらなかったってくれてやると思ったが、泊まりの旅行は魅力的なので律は黙って白飯を口に運んだ。  早速宮島の宿を探そうとスマホを操作している聡太は、律のスケベ心には気が付かない様子で言葉を続ける。 「そういえば二人でどこか改まって遊びに行くんは初めてじゃね」 「そうだね、初デートだ」 「⁉︎」  律はこうやって頻繁に聡太への恋心を滲ませるようにしていた。  少しでも意識してくれたらという下心もあるが、聡太相手だとうまく隠し事ができないのが分かりきっていたから。  聡太が律のことを好きになったりしないことは分かってる。それでもいつも顔を合わせていれば、好きという気持ちは日に日に膨れ上がるばかりだ。  溜め込んで爆発させるより、こうやって小出しにした方がいい。どうせ受け取ってもらえない感情だ。  律はいっつも積極的じゃね……と頭を掻いて顔を赤くする聡太に、そんなんじゃないよと心の中で返した。  律の身体がガタンガタンと大袈裟に揺れる。  初めて聡太と会った日、車内から見るだけだった路面電車に今は二人で乗っている。朝が早かった為か、隣に座っている聡太は背もたれに寄りかかってぐっすりと眠っていた。  あどけない寝顔を見ていると、揺れに乗じてこちらに寄りかかってくれないかな……なんて下心が湧いてくる。他に乗客が居ないのを良いことに、律はそっと手を伸ばして右肩に聡太の頭を乗せた。  自分よりも座高の低い律の肩は座りが悪いのか、聡太はもぞもぞと身じろぎをした。起きるかとヒヤヒヤする律に反して聡太はまた健やかな寝息を立て出す。  一安心して、今度は先ほどよりも近くなった聡太の寝顔をじっくりと眺める。彼は眠っている時は静かなようで、普段の快活な話し方とのギャップにまた胸が騒ついた。  聡太といると、自分の知らない自分が沢山出てくる。  あの事故の前だって、こんなに感情豊かではなかったはずだ。  聡太が律を変えていく。律の中が聡太でいっぱいになっていく。  聡太の中も、少しくらい律で埋まっていたらいいのにと思った。 「律見てみんさい!船よ!」  路面電車を降りた途端急に元気になった聡太が、弾むような足取りで律を船乗り場まで案内した。  潮の匂いがする。昔家族で海に行った時、間違えて海水を飲んでしまった時のことを思い出して少して少し喉がえづいた。  目の前にこれから自分たちの乗るフェリーが音を立てて止まる。想像を超えた迫力に律は圧倒された。  デッキは風が酷く強くて、とても居心地のいい場所ではなかった。それでも船の下の方が海をかき分ける所を見ていたくてそこにいた。 「律〜。客室入らんで良いん?空調利いとるよ」 「いい、ここにいる」 「珍しいねぇ」 「そうかな」 「律もはしゃいどるんじゃね」 「……そうかも」  言われて初めて成る程と思う。そうか、はしゃいでいるのか。  初めての路面電車。初めてのフェリー。初めての島。  初めてのデート。  浮き足立つというのはこういう感覚のことを言うのだなと思った。強い向かい風が律の身体を大きく煽り、踵を浮かせるのを手伝う。ふわふわ心ごと飛んでいってしまいそうだ。 「律!向こう着いたら美味いもんいっぱい食べるけんね!揚げ紅葉に〜牡蠣カレーパンじゃろ〜?あとは〜穴子まんに焼き芋ソフト〜」  途中から歌うように食べ物の名前を上げていく聡太に、そんなに食べられないよと笑う。聡太は律を見て自分も満足げに口角を上げた。 「律はよう笑うようになったね」 「……そうかな?」 「ほうよ」  律はなんだか恥ずかしくなって、船に当たる潮の風を避ける振りをして顔を背けた。  フェリーは十五分ほどで降りた。  平日なことと、まだ午前中だということもあり人はまばらだった。その代わりちらほらと鹿がいるのが見える。 「律!先に鳥居行こ!」  突然掴まれた手に胸が跳ねて、微かに身体を硬らせてしまう。その反応を見逃さなかった聡太は申し訳なさそうに眉を下げて手を離した。 「ごめん、触ったわ」 「ち、ちが……」 「気ぃつけとったんじゃけど……俺もはしょいどるね」  訂正する間も無く距離を取られる。「いけんねぇ〜」と自分を嗜めながら先を歩こうとする聡太の手首をぎゅっと掴んで引き留めた。 「違うから!ビックリしただけだから!聡太にだったら、触られても良いから……」  声がだんだん尻すぼみになっていく。恥ずかしくて顔が上げられなかった。  律が黙ると聡太は急に手首を捻って、律が掴んでいた手を緩やかに振り落としてきた。心臓がどくんと脈打つ。気持ち悪かったのだろうか。変な言い方をしてしまっただろうか。  律の戸惑いを他所に、聡太は離した手を今度はしっかりと繋ぎ直してきた。 「ほいじゃったら良かった!律、潮が満ちたら向こうのほう行けんくなるけぇ先に鳥居の写真撮っとこ!」  そう言って聡太はぐいっと律の手を引く。  聡太と繋いだ自分の掌が汗で滑らないか気になる。通りすがりの鹿にこちらをじぃっと見られて、いけないことをしているような気分になった。  砂浜に鳥居が立っている。向かいには日本の時代劇でしか見たことないような立派な建物が建っていて、そのどちらも燃えるような赤だった。  鳥居を背にして立つと一層迫力がある。 「聡太、あれなに?」 「ん?お、厳島神社じゃね」  聡太は自撮り棒で鳥居と自分たちとの画角を調整しながら答えた。なんだそれこの為に買ったのか。 「あれ神社なんだ……」 「中入れるけん後で行く?」 「行きたい」  律はああいうのが好きなんじゃね、と嬉しそうに言われる。  そういえば、律が自分から何処かに行きたいと聡太に伝えたのはこれが初めてかもしれない。 「やっぱり、はしゃいでるかも」 「はしゃいどるね」  独り言のつもりだったが、隣にいた聡太には聞かれていたらしい。 「律、撮るよ」  聡太との距離がぐっと近づいて、どきりと胸が高鳴る。  見せてもらった写真の中の律の表情はやけに強張っていた。  神社を参拝して廻廊を歩いた。建物内の柱は外観と同様真っ赤に染め上げられていて実に美しく、律は途中で何度も立ち止まっていた。  その後は商店街に出て買い食いをした。翔太は穴子まんという肉まんの亜種を勧めてきたが、律は同じ店の牛まんを買って食べた。翔太のを一口分けてもらって、やっぱり牛まんを買って正解だったと思った。  それからガラス細工屋を見たり、お土産で饅頭を買ったり……そうして過ごしているうちにあっという間に日が暮れた。  旅館に行く前にライトアップされた鳥居を見に行こうと聡太が言うのでついて行くと、今朝二人が立っていた砂浜は既に潮が満ちていた。  波の音が鼓膜を震わせて、あの場所で写真を撮った事実ごと海に飲み込まれたような感覚に少し寂しくなる。  それでも隣には聡太がいて、ライトアップされて海に映る鳥居も綺麗だなんて言うから律は嬉しくて泣きそうになった。 「律、温泉入ろうや!ここのは広いんよ!」 「後で入るから聡太先に入ってきなよ」 「何でなん、何か支度があるんじゃったら待っとるよ?」  まただ。  聡太は律が聡太のことを好きだと言うことを忘れたようにこういった発言をすることが多々ある。 「俺は、聡太とは風呂に入れないよ。聡太が本当に良いなら良いけど」  本当に良いなら、に力を込めて言うと聡太は「あ」とようやく律の言わんとすることに気がついたようで、少し赤くなって気まずそうに身じろぎした。 「……先入ってくるわ」 「うん」  律に対して申し訳ないと思っているのだろう。しょんぼりと背中を丸めて一人温泉に向かう聡太に、律はここの中でごめんねと謝った。  聡太が長風呂から帰ってきて律にも入ってくるよう勧めてきた。  初めて見る浴衣姿に腰のあたりが重くなる感覚がして、目を逸らす。風呂上がりの匂いや、視界にチラチラと映り込む浴衣の着崩れから覗く肌に居た堪れなくなり、律は急いで風呂の支度をして部屋を出た。  頭を冷やした方がいい。ため息を吐いて体の熱を意識的に外に出した律は、頬を軽く叩いて気合いを入れ直した。  今日はあの無防備な聡太と一夜を過ごすのだ。  どれだけ律が全力で襲い掛かろうと、聡太の方がガタイがいいので跳ね除けられてしまうだろう。  だが律は自分の自制心の無さから聡太の信頼を失いたくはなかった。  手早く湯に浸かってしまおうと温泉に向かう道すがら、律はふとここに来る前聡太が言っていたことを思い出す。  この旅館には中庭があって、そこの池では鯉を飼っているのだと。少し興味が湧いてきて、中庭のあるであろう道に憶測で進んだ。  自分は思ったよりも箱入りなのかもしれないと、ここで暮らし始めてから思うことが多々ある。池に泳ぐ鯉も、律はテレビでしか見たことがなかった。  だがいくら歩いてもそれらしい場所には辿り着かない。  諦めて温泉に行くかと来た道へ振り返ってはたと気がつく。  ここは、どこだろうか。  どうやら律は旅館の中で迷ってしまったようだった。  どの廊下も同じように見えて、何処を通って来たのかもいまいち分からない。 「あのぅ……なにかお困りですか?」 「え」  不意に声をかけられて振り向くと、律より少し上の……恐らく大学生くらいの女性が二人立っていた。 「あ、すみません迷っちゃって……男湯ってどっちか分かりますか?」 「あ、だったら私たちも今からお風呂行くところなんです。女湯と隣同士だから一緒に行きましょう」  ありがたい申し出にほっと息を吐く。こんなところで迷子になったなんて聡太には恥ずかしくて知られたくなかった。  二人は大学が春休み中で、友人同士で思い立ってここに遊びにきたのだそうだ。道すがら話す彼女たちは律よりも小柄で肌が白く、聡太の隣に似合うのはこういう子達なんだろうなとぼんやり思った。 「律」  突然後ろから思い浮かべていた人物に話しかけられてどきりとする。振り返るとバスタオルを持った聡太が戸惑った表情で立っていた。 「聡太?どうしたの?」 「……律タオル忘れとったけぇ」 「え、あ、ほんとだ危ない。ありがとう」 「そっちの子らは?」  律を案内してくれた女性たちは、背の高く男前な聡太の登場に小さく色めき立っているように見えた。  そうだよなぁ、かっこいいよな。俺は可愛いと思ってるんだけど……。相変わらずの自分の思考に呆れる。  女の子たちの前にスッと身をずらして聡太のことを隠すように立った。どう見えてるかは知らないが結構嫉妬深いのだ、律は。 「迷っちゃったから案内してくれてただけだよ」 「……ほうね」  そう言ってバスタオルを律に渡すと、聡太はさっさと元来た廊下を戻っていった。  あまり見たことのない顔をしていた聡太に首を傾げる。昼間はしゃぎすぎて疲れたのだろうか。きっとそうだと納得して、律は待たせている女の子たちの方へ向き直った。 「律は男の人が好きなん?」  それはもう寝ようかと電気を消して、各々の布団の中に入り込んで数分ほどたった頃だった。  聡太から上記の台詞を聞いて律は動揺した。なにせ聡太から律に恋愛関係の話を持ちかけてきたことは、律の告白以来一度もなかったのだ。  何故急にそんなことを聞くのだろうか。真意が掴めぬまま、あまり間を置いても不自然なので律は正直に答える。 「別に、女の子のことも好きになったことあるし。性別は関係ないんだと思う。俺は聡太が好き」 「そ、そんなん」 「そうだよ」 「女の子でも良いん?」 「何なの急に」  質問の意図が分からず質問で返す。しかし聡太は「いや、別に……」と言って律に背中を向ける形で布団に潜ってしまった。  このまま寝るつもりなのだろうかと思い律も目を閉じる。すると再び自分を呼ぶ声がした。 「……律」 「なに」 「俺は、律の気持ちに応えられんよ」 「……」  そんなこと分かっていた。何故今わざわざ言うのだろうか。  何と返事をすれば良いのか分からなくて、返事なんかしたくなくて、律は黙って寝たふりをした。 「(寝れないな)」  隣で聡太が寝息を立てているのもそうだが、概ねはこれから寝ようと言う時に想い人にナイフで心臓を切りつけられたせいだった。  もぞもぞと寝返りを打つが、一向に眠気はやってこない。  ついに律は起き上がり、そっと布団を抜け出した。  旅館の門を出て虫の音を聞きながら目的もなく歩く。  昼間はあんなに賑わっていた商店街がしんと静まり返っている。空には今まで見たことのない量の星が輝いていた。  どうしたらもっとあの星の近くに行けるのだろうか。上を見上げながら歩いていると、後ろから「律」と自分を呼ぶ声がした。 「寝てなよ」 「こっちのセリフじゃけぇ……何しよん」 「散歩」 「どこ行くん」 「どこがいいかな」  振り返って聞くと、翔太はすこし考えてから商店街の路地に入る細い道を指さした。  お互い口も聞かず緩やかな坂道を並んで歩く。  上に向かって歩いているはずなのに、いつまで経っても星との距離は縮まらなかった。  律は黙って聡太の背中をついていく。頭上の星と違って手を伸ばせば届くはずなのに、そうすることが出来なかった。  そうして歩いていると、やがて森林が開けた場所にたどり着いた。立ち止まった聡太に並んで下を見ると、昼間歩いた宮島の街が一望できた。  都会の街並みのようにライトアップされているわけではない。それでも月明かりに照らされるその街をとても綺麗だと思った。 「この山は天狗がおるんと」  ふいに話しかけられてドキリとする。 「……そうなんだ」 「天狗って東京にもおるん?」 「いるんじゃないかな。見たことないけど」 「……律の隣には、女の子がよう似合う。律はイケメンじゃけぇ」 「……なんなの。意地が悪いね」  急に話をすり替えられて胸が軋む。これを言うためについてきたんだろうか。  聡太はいつも気が利くくせに、今日はひどく不器用な話の振り方をしてくる。それだけ律の感情を疎ましく思っているという事なのだろう。 「聡太は俺に好きって言われるの迷惑?」 「迷惑とかじゃないんよ……ほいじゃけど、困る……」  そうか。そうだろうな。聡太にとって律は家族だ。  家族だから邪険にできないし、かといって恋をすることもない。  確約された失恋だったのに、それでもしっかり傷つく自分はどうしようもなく愚かだなと思った。  もうやめなくてはいけない。  聡太への恋心は消す事はできないけど、彼の前に出さないようにすることは出来るはずだ。たまに少し漏れたって、見て見ぬふりをしてくれるだろう。聡太は子供っぽいことを言ったりはするけれど、律の知っている誰よりもしっかりとした大人だ。 「じゃあ、もう好きって言わないから、最後にほっぺにキスさせて」 「……ほっぺで良いん」 「口にしちゃうとそれ以上がしたくなる」  キスを強請ったのは概ね聡太のためだった。  律を傷つけたと、聡太が気に病まないように。好きでもない男にキスをされた聡太は、最初から最後まで被害者だ。  彼はキスをさせてやったんだから約束を守ってこれ以上自分に好意を示すなと、律を拒む大義名分が出来る。  あとは、まぁ、思い出が欲しいとか。そういう未練がましい感情もある。 「それも嫌?」 「嫌とかじゃ、ないんじゃけど」 「じゃあお願い。そしたらもう本当に言わないから」 「……」  返事がないのを良いことに聡太との距離を詰める。  肩に手を添えて、聡太を見る。ここ一年で律の背は随分伸びたが、それでも聡太の方が少し高かった。  これが自分の恋の結末だ。  律は意を決して聡太に顔を近づけると、聡太から「ま、待って」と止められた。 「……なに」 「ちゅうしたら、ほんまにもう、好きって言わんのん……?」  再確認するほどか。それとも、律には頬にキスされるのも嫌なのだろうか。  律は一歩引いて聡太と距離を取り直した。  胸がずくりと痛む。昼間はあんなに楽しかったのに、今の律の心はズタズタだった。  喉に詰まった息を吐いて感情を落ち着かせる。そうして少しだけ伸びをして背を正すと、聡太に向かって「戻ろう」と言った。 「え」 「ちょっと寒くなってきたしね」 「え、り、律?」 「なに?」 「せ、せんのん?」 「うん。しない。でも大丈夫だよ。もう好きとか言わないから」  そう言って来た方へ足を向けるが、後ろから聡太がついてくる気配がない。  もしかして律を傷つけたと思って狼狽してしまっているのだろうか。傷つけられたのはそうだが、そんなこと聡太に責任はない。  律はもう一度元の場所まで戻って聡太の手を取った。 「ほら、早く帰ろ。じゃないと本当にちゅーしちゃうよ」  気まずい空気のまま明日を迎えるのが嫌で、冗談めかして言った言葉だった。なのに。  律の言葉を受けて月明かりに照らされた聡太の顔は、首まで赤く染まっていた。 「……聡太」  呼ぶと潤んだ瞳でこちらに視線を向ける。その目がなんだか期待をしているように見えて、律は訳がわからない眩暈に襲われた。 「……ねぇ聡太」 「な、なん?」 「もしかして、ほんとは、俺のこと……」  そう自惚れた台詞を続けようとしたところを、聡太の張り詰めた声に遮られた。 「帰る」 「え」  律と目も合わせずに踵を返して走り出す。呆然と立ち尽くしているうちに聡太の背中は見えなくなってしまった。  取り残された律は、夜風の吹く中一人で山を降りた。胸がざわつく。  あり得ない期待が胸をよぎる。  その期待を、今まで痛い目を見て来た自分が押さえ込もうとする。こんなときどうするのが正解なのか分からない。  この一年、困った時はいつも聡太が助けてくれていた。  でも今はその聡太が律を混乱させている。  律は一刻も早く、聡太の顔が見たかった。  もしかしたら部屋の入り口の扉はもう施錠されて締め出されてしまっているかもしれないと思ったが、それは杞憂に終わった。ドアノブを捻るとすんなりと開いて、客間の前の襖が見える。  中に聡太のいる気配がした。 「聡太、入るね」 「入んな」 「入んないと風邪ひいちゃう」 「そ、そこじゃったら暖房効くじゃろ」 「お邪魔します」 「律‼︎」  聡太の制止する声を無視して襖を開ける。部屋の中央には、月明かりに照らされてこんもりと盛り上がった布団のがあった。白い塊から「もーーー‼︎」とくぐもった叫び声が聞こえる。 「じゃけぇ襖はいけんのんよ!プライバシーのかけらもないけぇ‼︎」 「うん」 「律!歳上の人間に遠慮ってもんをしんさい!」 「やだ」  布越しに「律は……ノーが言える良い子じゃけぇ……」と唸る好きな人の声が聞こえる。もっとはっきり聞かせてほしくて布団に手をかけた。 「開けんな!」 「聡太、静かにしないと。夜だから」  もっともなお叱りに、聡太はぐっと押し黙る。しかし同時に布団を掴む手にもさらに力を入れてしまった。 「ねぇ聡太、俺まだキスさせてもらってない」 「や、やっぱりダメじゃ!いけん!取り消し!」 「取り消ししてもいいけど、そしたら俺はこれからも聡太に好きって言うよ」  いいの?と聞くと、聡太はまた黙り込んでしまう。 「ねぇ聡太、顔が見たい」 「いけん、開けんとって」 「聡太……」  意識して泣きそうな声を出すと、布団の中でハッと息を飲む音がする。泣かせてしまったと思い焦ったのか、布を押さえ込む手が緩んだ。 「隙あり」 「⁉︎」  勢いに任せてばさりと布団を剥ぎ取る。驚いた顔の聡太を手早く両手で抱え込み、手首を敷布団へ押し付けた。 「ひ、卑怯者!」 「うん、ごめんね」  謝りながらも押さえつける手は緩めない。  けれどもこの体制は聡太の許容の上に成り立っていることを律はよく分かっていた。  聡太が本気で抵抗すれば、律は敵わない。だがそうしないと言うことは本気で嫌がっていないということだ。  律をこれ以上傷つけないようにと気を遣っているのかもしれないが、それでもこんな状況で情けをかける方が間違いだと律は思った。  抑え込んだ手首を人差し指でスルリと撫でる。びくっと身体を震わす聡太が愛おしくて堪らない気持ちになった。  赤く熟れたその唇が、あまりにも美味しそうでごくりと唾を飲む。その時律はどんな目をしていたのだろうか。律を見上げる聡太の目が見開いて「ぁ、」と小さな声を洩らした。  その言葉ごと飲み込むように唇を塞ぐ。少し湿って柔らかなそれを味わうように何度も角度を変えて重ね合わせた。  聡太から時折洩れる鼻にかかった声に脳みそがクラクラと揺れる。やがて腕の中で苦しそうに身じろぎされ、致仕方なく唇を離した。  酸欠と動揺から、涙の滲んだ目で顔を赤くした聡太が何度か酸素を吸って吐いて、それからようやく律を叱りつけた。 「ほ、ほっぺって言ったじゃろ‼︎」 「そうだっけ?」 「律が、律が言ったんよ!口にしたらそれ以上がしたくなる言うて、ほいじゃけぇ」 「うん、それ以上がしたくなった」  聡太の顔がさらに赤く染まる。部屋は薄暗いのに、律の目はしっかりと聡太の表情を捉えていた。  暴れてはだけた浴衣の隙間に手を入れるのをぐっと堪えて、そのかわりもう一度ちゅっと聡太の唇を吸った。 「な、なん、な……」 「一回とは言ってないし」  ペロっと舌を出して悪びれなく言うと腰のあたりを横からバシンと蹴られた。 「痛いんだけど……」 「やかましいわ‼︎」  これ以上迫ると聡太の方が本当に泣き出してしまいそうだったので、大人しく身体を起こして距離を空ける。  疑わしげに睨んでくる聡太に苦笑して、もう何もしないよと両手を挙げた。 「聡太」 「なんね」 「俺、聡太が好きだよ」 「……ちゅーしたらもう言わんって約束よ」 「うん、本当にそのつもりだったんだけど」  状況がかわったから、と言う律の言葉に聡太が首を傾げる。  律は人一人分のスペースを空けて、真っ直ぐ聡太と目を合わせた。 「聡太が俺と同じ気持ちを返してくれなくたって良いって思ってた。ずっとそばに居られればそれで良いって。でも」  心臓がバクバクと脈打つ。叶わない前提で気持ちを吐露したあのときよりもずっと緊張している。  律は震えてしまいそうな声をぐっと引き締めて、聡太にはっきりと諭した。 「でも、隙があるなら入り込もうとするよ」  男は狼なので。隙を見せた方が悪いのだ。 「聡太、好きだよ」  聡太の瞳が揺れる。泣きそうな彼は今すぐ逃げ出したいと思っているだろうに、それでも真剣な律から顔を逸らさないでいてくれた。 「律……は、女の子とおった方が良いけぇ」 「……なんで?」  今は律が聡太のことを好きだと言っているのだ。突然具体的な例のない"女の子"を出されて困惑する。 「な、だ、だってそれが普通じゃし」 「普通って何……。普通っていうのに従って好きな人と付き合えないくらいなら、俺は普通じゃなくて良い」  なんだそんなことかと眉を寄せた。聞きたいのは世論でなくて聡太の気持ちなのだ。 「でも、でも律はまだ若いけぇ俺なんかと」 「俺のこと子供だと思ってるんだ」 「そ、そう言う意味じゃ」 「俺は聡太がいいよ。聡太以外なにもいらない」  一言一言、聡太に伝わるようにゆっくりと発する。  先程から聡太は周囲の人間の存在をやけに気にした発言ばかりだ。  聡太は律のことをどう思っているのか。それを聡太自身が理解していないように見えた。 「聡太は俺にキスされて嫌だった?」 「嫌じゃ、ない、けどそれは」 「職場の同僚とかに今と同じことされたら?」 「気持ち悪いこと言わんとって‼︎」 「じゃあ誰にされても嫌じゃ無いってわけじゃないんだ」  聡太は律の言葉に少し考え込んで、「ん」と戸惑いがちに返事をした。 「俺だから嫌じゃ無い?」 「……多分」 「なんで?」 「な、何でじゃろ」  何で、なんて律に聞くべきではない。そんな風に決定権を委ねられたら都合のいい想像を口に出してしまう。  そうであればいいなと思っていたことを、聡太に求めてしまうれ。 「それってさ、恋なんじゃないの」 「そうなん……?わ、分からん」 「恋したことないの?」 「ある、あるけど、律のことはずっと好きじゃけ……恋の好きなんか家族の好きなんか分からん」  聡太から出る「律のことはずっと好き」という言葉が胸にじんわり染み込んできて泣きそうになる。  その言葉だけで幸せだったはずなのに、今はもっと、もっと明確な関係が欲しくて堪らなかった。 「じゃあ、両方で良いんじゃないかな」 「両方?」 「俺も聡太のこと、家族として好きだし恋愛的な意味でも好きだよ。好きってたくさん持ってて良いんじゃないかな」  都合のいい言葉を並べる。律は必死だった。 「そういうもんなん……?」 「分かんないけど」 「律も分からんのんね」 「律も分からんのんよ」 「……エセ広島弁じゃ」 「うん、エセ。へた?」 「上手いで」 「ははっ、そっか」 「……律」  なんで泣いとん?  聞かれて初めて自分が泣いていることに気がつく。なんてことだカッコ悪い。こんなはずじゃなかったのに。  ここに来て、一人で泣くことも随分減った。それなのにこんな時に好きな人の前でボロボロ泣いてしまうなんて、まるで子供ではないか。 「……聡太」 「何ね」 「……すき」 「ん」 「っ、す、すき。好き」 「うん」 「俺のこと、すきに、なって……俺と、付き合って」 「……うん」  聡太は赤子をあやすように律を抱きしめた。 ♦︎  聡太と付き合い出して七ヶ月が経った。  交際を始めたからと言って、聡太との関係に何か大きな変化があったかと言われると正直返答に困る。  なにせキスしかしていないのだ。中学生か。  それだって聡太からしてくれたことは一度もない。不意打ちで律がするもののみだ。  その度に聡太は真っ赤になって照れる。律がわざとクラスの女子の話をすると拗ねるし、  だから、律のことを好きでいてくれているんだろうなとは思うのだ。けれどもキスのその先に進むことが出来ていない。  律としてはシたい。それはもうめちゃくちゃシたい。  律とて高校生だ。思春期だ。性欲お盛ん絶頂期だ。  好きな人と一つ屋根の下。自分が性の対象として見られているという自覚の薄い恋人は、風呂上がりに平気な顔をして上裸で律の前をうろつく。  律が触触っても良いと言ってからベタベタとひっついてくるし、  正直もう、限界だ。  だからこれは仕方ないと思う。 「律〜クリスマス何か欲しいもんとかないん?」 「聡太」 「なん?」 「だから、聡太が、欲しい」  聡太はきょとんとした後「俺、物じゃないんじゃけど……」と眉を下げた。 「律はもう俺と付き合っとるんじゃけ、俺は律のもんじゃないん?」  聡太の口から出る"俺は律のもの"というワードの破壊力の強さに、ならいいかぁ〜と絆されそうになって慌てて身を引き締める。 「そうじゃなくて、俺、聡太とセックスしたい」 「せっ⁉︎」 「ずっと前から言ってたじゃん。それに付き合うってそういうことも込みの関係だと思うんだけど……聡太は俺とシたくないの?」 「し、そ、ちが、」 「聡太、落ち着いて」  平静な顔をして聡太を宥めているが、律だって心臓はバクバクだった。  もし拒絶されたらどうしよう。  もし聡太が家族愛の延長線上で付き合ってくれているだけなんだとしたら、そんなことは出来ないからやっぱり別れようと言われてしまうかもしれない。  そのうえ性的な目で見られていることを改めて自覚して、気持ちが悪いだなんて思われたら最悪別居なんてこともあり得る。  律は無限に出てくる最悪の可能性が怖くて、この半年間聡太に性行為を要求できなかった。  けれども本当にこのまま、この関係を続けていて良いのだろうか。こんな恋人という皮を被った、兄弟みたいな関係を続けていて。  律は聡太の恋人であるという確証が欲しかった。自分は聡太に惚れられているという自身が欲しかった。  付き合っているのに片想いをしているような、今の関係が耐えられなかったのだ。  だから、求めた。  この関係が壊れてしまうかもしれないと怯えて、片想いを終わらせられない日常にはもう疲れた。 「聡太、俺は聡太と付き合う前からずっと聡太とエッチしたかったよ。我慢してたけど、好きな人には触りたいしキス以上のこともしたい」 「ぅ……」 「……聡太の好きって、やっぱり家族としての好きだけ?」 「え……」 「聡太は俺のこと、どう思ってる?恋人?家族?」  「こ、恋人もじゃし、家族とも思っとる……律がどっちもでも良いって言うたから」 「セックスは?できる?」 「わ……分からん」 「……そっか」  分からない、というのはつまりこの半年以上の間、聡太は律とそういった行為をする想像をしていないということだ。  聡太も男だ。性欲は発散しなくては溜まるだろうし、そんなに長い間自慰行為をしていないということはまず無いだろう。  ではその間自慰行為の際に想像していた相手は誰だ。  動画サイトか雑誌か、はたまた職場の女性か。  少なくとも律ではなかった。だって聡太は今、律と性行為が出来るか分からないと言ったのだ。律に触られたり抱かれたりすることを考えたことがないんだろう。  律は聡太にとって性の対象ではなかったのだ。  不思議と強いショックは受けなかった。  ただひたすら「ああ、そうか、そうだよなぁ」と納得してしまうのみだった。そんなことは分かってて気が付かないふりをしていたのだ。  聡太の家族愛を利用して交際を続けてもらっていた。  聡太の律に対する小さな反応を、一つ一つ這いつくばって拾って、これは恋だと自分に思い込ませていた。  それが今決定的に崩れた。  これ以上、聡太にこんなこと付き合わせていられない。  なによりも律自身が耐えられなかった。 「聡太」 「な、なん……?」 「……別れようか」 「え」  言われると想定していなかった言葉に、聡太が戸惑いを露わにする。  当然だ。先程までエッチをするしないなんて付き合いたてのカップルらしい会話をしていたのだ。それが突然別れ話に発展した。意味がわからないだろう。  それでも。 「付き合う前みたいな、家族に戻ろう」 「な、何で」 「聡太と恋人でいるの、疲れちゃった」  それでも、疲れてしまった。そもそも恋人なんかじゃなかったのだ。律は都合のいい夢を見ていたのだ。  聡太だってそれを望んでいるはずなのに、呆然とこちらを見つめて何も言わなくなってしまう。もしかしたら律を傷つけない言葉を見つけられなくて困っているのかもしれない。  律だって今はこれ以上聡太といたくなかった。  泣き出して、やっぱり好きでなくてもいいから付き合っていてくれと縋ってしまいそうだった。  今は一旦離れた方がいいなと判断して「じゃあね」と聡太に背を向けて居間を出ようとする。  すると後ろから腕を強く掴んで引き止められた。 「……なに?」  こういうはやめてほしい。その優しさは律を傷つける。  振り払おうと思って後ろを向くと、聡太が泣きそうな顔で俯いていた。ずるい。そんな顔されては放っておいて出て行くことなんてできない。  それでも離してもらわなくては。聡太の握った腕の部分が熱を発して、心ごと全身を焼き尽くしてしまいそうだった。  引き止めないでほしい。引き止めてくれてくれて嬉しい。別れたい。別れたくない。すき。すき。すき。 「……聡太、離して」 「り、律は、俺のこと好きじゃなくなったん?」 「は?そんなわけ無いじゃん」  あり得ない質問につい低い声が出る。 「じゃあ、俺がセックスさせんけぇ別れるん……?」 「そ、」  そういう訳ではないが、しかしそうでないとも言い切れない。聡太が律とセックスしたいと思ってくれていたなら、律は別れようだなんて四肢が引き裂かれても言わなかっただろう。 「ほいじゃったら、セックスする」 「はぁ?」  だったら、ってなんだ。聡太がしたいと思ってくれていないのにしたくない。  感情もないのにそんなに簡単に身体だけ差し出さないでほしかった。 「……あのさ、別れるって言っても俺この家出るつもりないよ。前みたいに、家族でいようって言ってるの」 「わ、分かっとるよ」 「じゃあそれでいいじゃん。聡太はその方がいいでしょ」 「何で?何で俺はその方が良いん?」  今度は聡太が律を睨む。何故聡太の方が怒っているのか分からなくて律は苛立った。 「聡太は俺のこと好きじゃないでしょ。だったら付き合っててもしょうがないじゃん」 「す、好きじゃけ、好きじゃけ付き合っとるんよ!聡太が言うたんじゃないね、それは恋じゃって‼︎」 「じゃあ俺が間違ってたんだよ‼︎聡太のそれは恋じゃない、家族愛だよ‼︎」 「何でそんとなこと律に分かるん‼︎」 「分かるよ‼︎」  どうしてこうなった。律は言い合いがしたい訳じゃなかった。ただ聡太と自分は恋人なのだという実証が欲しかっただけなのに。 「俺は‼︎本気で聡太が好きなんだよ‼︎セックスだけしたいわけじゃない‼︎」  そう言って今度こそ本当に腕を振り払うと、律は家を飛び出した。  所持品はズボンのポケットに入れていたスマホだけ。  それでも今は便利なもので、電子マネーで買い物はできるし寝カフェにも泊まれるので困る事はなかった。  そうはいってもこんな生活を続けていられるわけではない。冬休みは年が明けたらすぐに終わるし、なにより聡太に会えない日々に律が耐えられる訳がない。  コンビニへ行くために街中へ出て、街の浮かれた雰囲気にはたと思いつく。  今日はクリスマスだ。  自分がここにいたら、聡太はこの日一日を一人で過ごすのではないか。  結局情けないことに、律の家では三日で終わった。 「律は、気に食わんかったらすぐ出てく」 「ごめん」  玄関のドアを開けると、二階から何かを落とす物音がした。バタバタという足音と共に聡太が降りてきて、律の顔を見るとほっと息を吐き、硬らせていた肩を下げた。  それからまた怒ったような拗ねたような顔をして律を睨んむ。 「……家族もやめるつもりなんかと思った」 「頼まれたってやめないよ」 「頼まんし」 「うん」 「……恋人もやめんし」 「……」  どうしてこう頑ななんだろうか。  聡太の性格からしてただ意地になっているだけとは思えない。  だからこそ、お互いがお互いの意見に納得していないならしっかりと話し合うべきだった。  聡太にこんな顔をさせるくらいなら、どんなに自分が傷ついたって良いから逃げずに話したい。  そう。律は逃げていたのだ。  この期に及んで、聡太の口から決定的な言葉を言われるのが嫌で。そんな恐ろしい目に遭うくらいならと自分から距離を置いた。  あまりにも勝手すぎる。律は改めて自分のこどもっぽさに呆れた。  玄関で立って話すわけにもいかず、連れ立って律の部屋に向かう。  部屋に入って律が畳の上に座ると、聡太も黙ってそれに倣った。覚悟を決めて長く張り詰めていた息を吐き、顔を上げて真っ直ぐ聡太を見る。 「俺はさ、聡太のこと好きなんだよ」 「お、俺も律が好きじゃけぇ」 「聡太のとは違う」 「またそれ……何でそんとなこと言うん。何で違うと思うん」 「だって聡太はさ、俺とセックスする想像したことないでしょ」  そう言った瞬間聡太が顔を耳まで真っ赤にして俯むく。  気まずそうなその姿に、それみたことかと言葉を続けようとすると、聡太がおずおずと口を開いた。 「あ、あるけぇ……」 「は?」 「いっぱいあるけ……な、何でないとか分かるん」 「え、な、あ、あるの?いっぱい……?」  予想外の返事に困惑する。ある?あるって何だ。あるって事はつまり、あるって事なのか?  困惑した律の視線に聡太はもじもじと身じろぎをして小さな声で答えた。 「ひ、一人でする時は律のこと考えとるし、律もそうじゃないん?他のやつのこと考えてやっとったん?」 「いや、俺は聡太のこと考えてしてるけど……」  律の返事に嬉しそうに頬を染めて「ほうね」と頭を掻く聡太が可愛くて、喧嘩していたことも忘れて抱きしめたくなる。 「で、でも聡太さっき、俺とセックス出来るか分からないって」 「だって……律は俺のこと抱きたいんじゃろ……?頑張って指入れてみようとしたんじゃけど全然入らんくて。指の一本もまともに入らんのに、セックスなんか出来るか分からんじゃろ」 「そ……」  そういうことかーーーーーーー。  自分の口角がじわじわと上がって、随分とだらしない顔をしているだろうことを自覚する。  心底ほっとする自分と、嬉しくてたまらない自分が手を取り合って脳内で踊っていた。 「律?」 「あ、あー……。聡太は、どうやってやってたの?ローションとか自分で買った?」 「え、買っとらん……ローション要るん?」  あまりの無知に今度は唖然とした。そのまま指を突っ込もうとしたのか。痛いに決まっているし、痔になってもおかしくない。  律は聡太に痔になられたら困る。非常に困るのだ。 「あのね聡太、女の子みたいに自然に濡れる訳じゃないんだから、ローションでなくてもオイルとかクリームとか滑るもので慣らさないと……。入らなくて当たり前だよ」  子供に言い聞かせるように目を見て真剣に伝える。律の熱意が伝わったのか、困惑の表情を浮かべながら聡太は律を真面目な目で見つめ返した。 「そ、そうなん?」 「そう」 「律は物知りじゃね……」 「……スケベなだけだよ」  言いながら膝をずらして聡太との距離を詰める。聡太が緊張で強張るのを感じた。  けれども緊張しているのはなにも聡太だけではない。律だって喉はカラカラで、心臓はこれ以上ないくらい脈打っていた。 「ち、ちゅうするん?」 「……する」  聡太の方から聞いてくれたので一言断ってから唇を啄む。ちゅっ、ちゅと吸い付くとびくりと体を震わせた。 「聡太、口開けて」 「っ……」  聡太がおずおずと言われた通りに口を開く。赤い舌がちろりと見えてひどく欲情した。  初めて深く味わう聡太の口内にひどく心酔する。唇を合わせるたびに聡太から漏れる呼吸音と小さな喘ぎに、たまらない気持ちになった。  名残惜しい思いのまま聡太と唇を離す。互いの間につっと垂れる糸が艶かしい。その糸を辿ってもう一度唇に噛み付いてしまいそうなのをぐっと堪えた。 「聡太、後ろ……俺が触って良い?」 「……ん」  了承を得たので、立ち上がって箪笥に向かった。引き出しを開けて中からピンク色の容器を取り出す。  不思議そうに首を傾げた聡太がジっと律の背中を見つめてきた。 「律、それ」 「ローション」 「ろ⁉︎なんで高校生がそんとなもん持っとるん⁉︎」  何でもなにも、聡太と付き合うことになった次の日には通販でポチっていた。付き合うならそのうち、こういうことも……と期待して買ったはいいがそのまま一年使われなかった代物だ。  正直に伝えると、これまた申し訳なさそうに聡太は身を縮めた。 「脱がすよ」 「り、律」  聡太のシャツに手をかけると、本人が慌てて制止してきた。 「なに?俺もう結構限界なんだけど……」 「あの、電気消してくれん?」 「ええ……」  この期に及んで裸を見られたくないだなんて。だいたい宮島に行った時は恥ずかしげもなく一緒に温泉に入ろうと誘ってきたではないか。  あの時と今では状況が違うが、思えば律の方はあの時からお預けを食らっているのだ。全部見せてもらわないと割りに合わない。 「無理」  聡太の願いをバッサリ切り捨ててシャツとズボンを剥ぎ取っていく。聡太は無情に唸りながらも、それ以上律のすることに抵抗は見せなかった。  蛍光灯の下で全裸に剥かれた聡太は、どうすべきか正解が分からないようでぎゅっと敷布団を握ってこちらを伺っていた。  ごくり、と喉が鳴る。まだ触ってもいないのに、律の下半身はひどく張り詰めていた。  身体を屈めて聡太の胸に唇を寄せる。ぺろりと味見するように舐めると「みっ⁉︎」と高い声をあげて身体を震わせた。 「律!あ、赤ちゃんじゃないんじゃけ……」  聡太のその言葉に少しムッとする。  律は決して赤子返りやスケベ心だけで乳首を吸ったわけではない。なるだけ気持ちが昂っていた方が、後ろを弄るときに聡太が楽だろうと思ったのだ。  決して、決してスケベ心が概ねの理由などではない。  聡太がそういうならと身体を起こしてボトルを手に取った。  蓋を開けて中からどろりとした液体を押し出す。それを律は両手のひらで温めてから、そっと聡太の後宮に手を這わせた。 「っ⁉︎ふっ……んぅ……」  ぐちゅ、という音が小さな蕾の入り口をいじるたびに鼓膜を打つ。真っ赤な顔を腕で隠してぷるぷる震えながら耐える聡太が愛おしくて堪らない。  律は手を動かしながら聡太の首筋やヘソにキスをしていった。  聡太は必死に声を我慢しようと口を押さえている。  恥ずかしいのは分かるが、律としては普段聞くことのない聡太の性的な喘ぎを聞きたくて堪らないのだ。  聡太にも聞かせるようわざと音を立てて弄る。空いた左手で乳首を弄り、同時にキスの雨を降らした。  ついに堪えきれなくなったのか、聡太から「う、ふ……ぁッ……」と控えめな声が漏れて聞こえてくる。  律は聡太の声に集中して耳を傾けた。 「んッ、……ッは、ぁ……じ、じいちゃッ……」 「ごめんそうだねちょっと止めようか‼︎」  だめだ、一旦落ち着こう。律は一度聡太を起こしてよしよしと背中を撫でた。 「聡太。ごめんね、焦りすぎた。ゆっくりなるだけ痛くないようにするから。あの……それでもしんどかったら、じいちゃんじゃなくて俺の名前呼んで?」 「律の……?」 「うん」  じいちゃんを呼ばれるのはなんかもう"他の男の名前を呼ぶな"という怒りすら湧かない。むしろ罪悪感で死にそうになる。  半べそで祖父の名を呼ぶ恋人は十歳も上には見えなかった。 「聡太、子供みたい」 「律は大人みたいじゃね」 「そう?」 「うん、なんかカッコええ、ドキドキする」  今度は律が動揺する。どうしてこう言うことは恥じらいなく言ってしまうのか。 「か、揶揄わないでよ」 「揶揄っとらんよ!ほらドキドキしとるじゃろ!」  そう言って聡太は律の頬を両手で掴み、そのまま耳を自身の胸に押し当てた。  聡太の胸は、ドクンドクンと大きな鼓動が間を開けず鳴り響いている。しかしそれは律も同じだった。  ずっと恋焦がれていた相手に布団の上で、裸でこんな風に抱きしめられて、平静でいられるわけがない。  なるだけ怖がらせないように、ゆっくり身体をずらして聡太を敷布団に押し倒す。  時計の針がいやに耳についた。 「続き、しても良い?」 「……ん」  再度ボトルからローションを手に出す。律の手の体温が移ったそれを先程弄っていた場所に継ぎ足した。  一度念入りに塗り込んでいたそこは、ぬるりとふやけて柔らかくなっていた。  これなら指くらいは入るかもしれない。 「指、挿れるね」  聡太は羞恥のためか、顔を真っ赤にしてこくこくと頷くばかりだった。  聡太が痛い思いをしないように、丁寧に、ゆっくり指の関節を内側に押し込める。  指に絡みつく熱に脳がジンジンとひりつく。律は理性という箍が外れないよう歯を食いしばって耐えていた。  好きという気持ちが暴走すると、怖がらせるし傷つけてしまう。それだけは嫌だった。  だから湧き出る欲を抑えて、少しずつ少しずつ押し広げていく。  やがて時間をかけて慣らしたそこは律の指が二本、根元まで入るようになっていた。 「聡太……痛くない?」 「ッくない、痛くないんじゃけど、な、なんか異物感が、すごい……」 「そ、そうだよね……」  だいぶ柔らかくなったそこは、律が挿れた指をくるりと回しても平気なくらい余裕が出来ていた。  はやく、はやく挿れたい。己の劣情をそこへ押し込み、思い切り腰を振ったならと考えてしまう。  けれどそれでは意味がないのだ。聡太にも気持ち良くなってもらいたい。律と抱き合うことが気持ちいいことなんだと聡太に思ってもらいたい。  探るように指をバラバラと動かす。そうしてある一点に指が触れた瞬間、聡太が一等甘い声を上げた。 「ひゃッあっ、ぅ……ゃ、なん、な……」 「……き、気持ちいい?」 「ぇ、あッ……あぅ、わ、分からん、やッ」  聡太が敏感に反応する場所を執拗に指の腹で掻く。爪を立てないよう優しく擦ってやると、聡太は腰を揺らして何度も喘いだ。 「聡太……ッ聡太!」  見ているだけで達してしまいそうなほど卑猥な恋人の姿に、律は無意識に覆い被さって己の昂りを擦り付ける。  可愛い、エロい、挿れたい、好き、聡太、聡太。 「ぃ……んッ、挿れてッあ、良いんよ……っ」 「……え」  ドロドロに溶けてしまった脳をなんとかフル回転させて聡太の言葉の意味を理解しようとする。挿れて、良い? 「で、でも、まだ痛いかも」 「も、もぅ、痛くないけぇ……ん、俺も、無理……律の、当たっとる、やつ……挿れて欲しい……ッ」  律がズボン越しに聡太に擦り付けていた性器を、聡太のむき出しの膝がくっと撫でて刺激する。  早く挿れてくれと、毒入りのケーキように危険な甘い声で強請られる。我慢なんて、出来るはずがなかった。 「ッ……‼︎ふッ……ぁ、は、入って……んぁッ、りつの、……っ律の、俺の中、ぁあッ」 「ッあ、あっつ……聡太……なか、やば……」 「んぅ……ッ律、気持ちい……アッ、なん、こんな、ッぁ、きもちい……気持ちいいッ」  ゆっくりと焦らすように推し進める性器を、聡太の内側がぎゅうっと甘えるように締め付けてくる。熱くてねっとりとした内壁を、律は優しく擦った。  気持ちいい。こんなの知らない。  最初は気遣うように小さく揺らしていた腰も、挿入がスムーズになるのを感じるにつれ激しいものになっていく。  ぬちゅっ、ぐちゅっ、という卑猥な男と聡太の口から絶えず漏れる甘い音にどんどん冷静さを欠いていった。  欲しい、聡太の全てを自分のものにしたい。抱きしめるように身体をひっつけて、何度も腰を打ちつける。 「ッ律……り、りつ……ッん、ぁ」  腕の中で必死に縋りつきながら自分の名前を呼ぶ恋人に、律は脳が沸騰しておかしくなってしまいそうだった。  自分で呼べと言ったくせに、その声に煽られている。 「聡太……そうた、好き……ッすき」 「ンッ、う、律ッ……お、おれもッ……あぁッ‼︎すき、好き‼︎」  お互い訳がわからなくなっていて、それでもお互いの名前を呼んで。相手にしがみついて、何度も好きだと言い合った。 「そ、そうたッ……も、い、イくッ」 「ん、りッ……りつ……す、すき、好きッ」 「ッ‼︎」 「ぅッ、んぁッ」  脳髄から足の先までビリビリと痺れた感覚が這う。飛び散る白い液体はどちらのものか分からないほどグズグズに溶け合っていた。  達した後、二人は力尽きたように布団に倒れ込んだ。  幸せすぎて頭がぼーっとする。まずい、このまま寝てしまいそうだ。  しかし聡太をこのままにして寝るわけにはいかない。律は寝落ちする前に自らを鼓舞して身体を起こした。 「……元気じゃね」 「若いから」 「……ムカつくわぁ」  そう言いながらもクスクス笑う聡太が愛おしくて胸が張り裂けそうになる。今までだって誰よりも何よりも好きだったのに、これ以上があったのかと律は自分自身に驚いていた。  ちゅっと聡太の唇に一つキスを落としてから身体を拭いてやる。  その間中大人しく寝転がってぼーっとこっちを見ていた聡太が、ふと独り言のように口を開いた。 「律って……良い名前よね」 「お洒落?」 「え?」 「最初に会った時言ったじゃん。お洒落な名前だって」  白状だな〜忘れちゃったの?と心にもないことを言って揶揄うと、聡太は頭をぼりぼり掻いて「お、覚えとるよ」と言った。嘘だな。 「ほいじゃけどそうじゃなくて、響きがね、良いと思うんよ」 「響き?」 「りつ、言うて。つい口に出してみとうなる。じゃけぇ用事あってもなくても律のことすぐ呼んでしまうんよね」  律は今まで自分の名前を特別良いと思ったことはなかった。けれども聡太に沢山呼んでもらえるなら、世界一良い名前を持ったようにすら思える。  そっか、そうか。ならたくさん呼んでくれたらいい。  律は聡太が呼んでくれたらいつだって側に駆けていく自信があった。 「聡太」 「ん?」 「……ありがとう」 「ん……俺も、ありがとう」  今にも寝てしまいそうなトロトロとした目で聡太は律を優しく撫でた。 ♦︎ 「じいちゃん、お陰様で就職先が決まったよ」 「律えらい頑張っとったんよ」  今日、二人はじいちゃんの墓参りに来ている。  聡太と律が付き合ってから五年が経っていた。律は今年で二十三歳だ。聡太は三十三歳。  十歳離れた二人は未だにあの家で暮らしている。    じいちゃんへの報告も無事終え、律は車の運転席に乗り込んだ。最近運転免許を取得した律は、よく聡太の代わりに運転手をかって出る。  助手席に乗り込む聡太を確認して、緊張が表に出ないよう気を引き締めて鞄の中に隠していたリボン付きの小さな箱を取り出した。 「これあげる」 「何ねこれ」 「バイト代貯めて買った。開けて」  言われた通りしゅるしゅるとラッピングを外す聡太を、律は死んでしまいそうな気持ちで見つめた。そうなったらすぐそこが墓場なので手間が掛からなくて良いだなんて不謹慎なことを半ば本気で思う。  箱の蓋を開けると、もう一回り小さなリングケースが入っていた。  聡太はそれを見て息を呑んで固まる。  そこから何も言わなくなってしまった聡太に焦れた律がリングケースを掠め取り、聡太の目の前で蓋を開けた。 「俺と、結婚してください」  箱の中にはサイズの大きな指輪が二つ、並んで嵌め込まれていた。 「あの家で、ずっと二人で暮らしたい」  それはプロポーズだった。まだ同性同士の結婚が認められないこの国では、単なる口約束に過ぎない誓い。  けれども律にとっては何よりも大切な誓い。 「……何言いよるん。もう俺オッサンよ?」 「そんなの今更じゃん」 「り、律にはもっと色んな選択肢があって」 「まだそんなこと言ってるの?聡太といない未来を選択するつもりない」  するりと聡太の左手を取ってそこに指輪を塡め込む。色良い返事は返さないくせに、聡太の手は抵抗をしなかった。  律はそれを肯定と受け取る。 「ずっと一緒にいてよ。俺はさ、聡太とじゃないとうまく笑えないよ」 「……重いわ。てか何で墓場の駐車場でプロポーズなん」 「この指輪抱えて家までは心臓持たなそうだった」 「自分都合が過ぎん……?」 「プロポーズなんて自分都合でなんぼでしょ」  軽口を叩いているが、律の声が泣きそうなことに聡太は気がついているだろう。  けれどもそれを見て見ぬふりする聡太だって泣きそうだった。  要らない子だった。誰にも必要とされていない二人だった。  それでも、今はこんなにも互いを求めている。 「聡太、もう一個の、俺にも着けてほしい」  そう強請ると聡太はおずおずとリングケースから指輪を抜き取り、律の左手を取った。  塡める側より、塡められる側の方がひどく緊張した。スルスルと指を潜って根元でピタリと止まる。  薬指にきらりと光る控えめなリングに、堪らない気持ちになった。 「聡太」 「ん」 「……ッ嬉しい」 「……俺も」  堪えていたものが溢れ出す。  ずっと一緒にいようなんて、二人だけの口約束。  大事な約束。  あの日、全てを失った律には守りたい人が出来た。  それは律が支えようとしなくたって、自分自身でしっかり地に足をついて立てるような人。  それでも、律の手をしっかり握って側に居てくれる人。  律は助手席に座る聡太の手を取る。  余計なものの入り込む隙間のないくらいに、しっかりと指を絡ませて握った。  
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