それが恋ならいいのにと

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それが恋ならいのにと  彼はいつもセーターを身につけていた。  やたらレンズの厚いメガネには手垢がついていたし、傷んだ髪は寝癖で跳ねていた。線の細い身体と柔らかな物腰に反して、我が強く石頭だった。  数学について語る時の瞳はやけに熱っぽく輝いていて、その目で自分を見てくれれば良いのにと焦れったい気持ちになったことを覚えている。 「嫌だ‼︎家庭教師なんか絶対にいらない!そんなお金あるならお小遣い増やしてよ!」  伊藤大地はつい最近中学三年生に進級したばかりのなりたてホヤホヤ受験生だ。まだ春休みの能天気さを引きずって居間でだらけている大地に、母は受験対策だと言って家庭教師をあてがうと言い出した。  昨年から数学のテストで赤点を叩き出す息子を心配した母は、危機感のない大地に変わって早々に対策を打ったのだ。  しかし大地としてはそんな話は寝耳に水、余計なお世話である。そもそも自分の部屋に他人が入ってくるというのが受け入れられない。掃除は自分でやるからと、母でさえ安易に部屋の敷居を跨がせない。それを赤の他人に侵されるのが嫌だった。  知らない人が部屋にいたら集中して勉強どころではないと訴えたが、母は全く聞く耳を持たなかった。実際来てもらって本当に成績が上がらないようだったら辞めてもらうから、まずは試しにやってみなさいと押し切られた。  結局家庭教師は週ニ日で月曜と木曜にくることになった。三ヶ月続けてそれでも成績が伸び悩むようであれば先生には辞めてもらう約束だ。  最初に来るのは来週の月曜日。予定は全て卓上カレンダーに記入しているので、うっかり忘れて放課後遊びに行ってしまわないように印をつけようと赤ペンを取る。不満の意を込めてバッテンをつけようとして思い止まった。  卓上にあるこの小さなカレンダーが、家庭教師に来た大学生の目に留まらないはずはない。その時自分の来るであろう日付にだけバツ印がついていたら傷ついてしまうかもしれない。  別に家庭教師の先生に罪はないのだ。そのように悲しませるのは本意ではないので、緑色のペンに持ち替えて数字の横に小さく丸をしていった。緑は大地の嫌いな色で、丸の大きさは気の乗らなさの表現だ。目的を果たした大地は卓上カレンダーを元の場所に戻してそのまま真横のベッドにダイブする。この程度の反抗しかできない自分の情けなさには見て見ぬ振りをして瞼を閉じた。 「はじめまして、三上です。本日からよろしくお願い致します」  大地の家に訪れた家庭教師は四つ上の三上圭一という男だった。彼は薄手のカーディガンを身にまとい、切りっぱなしの髪の跳ねた弱々しい風貌だった。緊張しているのか肩を縮こませて挨拶をする。少し曇った眼鏡のせいで顔の印象が薄く、いまいち表情が分からない。 「はじめまして。お越しくださりありがとうございます。こっちが先生に教えていただく息子の大地です。生意気な子ですけど、どうかよろしくお願い致します」  他所行き声の母に促されて「よろしくお願いします」と言って渋々頭を下げる。よろしくね、と未だぎこちなく笑う圭一に大地はそれ以上返事はせず、彼を部屋に案内する母の後ろを重い足取りで追った。  部屋に入ると圭一は早々に何もないところで躓いて転けた。心配する母に真っ赤になってすみませんと返して頭を下げる。  仕切り直しとばかりに咳払いをしてリュックからクリアファイルを取り出そうとするが、今度は勢いよく中身をぶち撒けた。 「……先生、大丈夫?」  必要以上に会話なんかしてやるもんかと意地を張っていた大地も思わず声をかける。圭一は慌ただしく散らばったノート類をかき集め気まずそうに笑った。 「だ、大丈夫!ごめんね、僕、誰かにこうやって教えるのとか初めてで緊張しちゃって……」  なんだかひどく頼りない。母も早々に不安になってきたようでチラリとこちらに目配せしてきた。これは別段大地が反抗しなくても、家庭教師続行の判断は下らないような気がする。 「気を取り直して!今日は大地くんの学力を確認したいから僕が作ってきたテストをやってもらいます」  透明なクリアファイルから取り出されたテスト用紙は手書きのようで、横のラインが少し斜めになっていた。男のくせに随分柔らかな字を書くんだなと思いながらそれを受け取って問題を解き始める。  母が圭一に一礼して部屋を出ると、彼はホッと息を吐いて背もたれに重心を預けた。 「母さんいると緊張する?」 「あはは、うん。大人の人と話すのは苦手なんだ」 「先生だって大人じゃん」 少なくとも中学生の大地からしたら圭一は立派な大人だった。大人としての威厳があるかと訊かれれば即座に肯定することはできないが、背は母よりも高く声は低い。眼鏡のレンズのぶ厚さは圭一の生きてきた年数を感じさせたし、薄く血管の浮く白い手はさほど大きくはないが確かに大人の男のそれだった。 「大学生は大人じゃないよ、全然。大地くんの方が僕よりしっかりしてて何だか大人みたいだ」  急に褒められてどきりとした。大人はみんな、大地くらいの男の子のことを必要以上に子供扱いしてくる。子生意気な中学生男子が調子に乗って羽目を外したりしないよう、常に目を光らせてチャンスがあれば叱りつけられていた。  しっかりしているとか大人みたいだとか初めて言われた言葉に驚きと嬉しさで頬が緩む。問題に集中するフリをして圭一から目線逸らして顔を机に近づけた。  問題を解き終わると圭一はスラスラと採点をしていった。答えを書いた用紙は用意していないようだったのに、赤ペンを握った右手は止まることなく採点を続けていく。  全ての問題を採点し終えると圭一はパッと顔を上げて大地に微笑みかけた。 「思ってたよりも解けててびっくりした!基礎が抜けてるところがいくつかあるから教えるね。そしたら大地くんすぐ応用問題もとけるよ!」  何がそんなに嬉しいのか、来た時には考えられないような明るい声色でもって大地に向き直る。先程問題を解いている時にはそれ程手応えを感じなかったのに、そんなにも良く解けていたのだろうか。少し期待をしながら返却された紙を見て大地の顔は引き攣った。  半分以上間違えている。景気良く引かれた赤色のペケ印が答案用紙を埋め尽くしていた。これで思ったより解けてたなんて、どれだけ馬鹿にしていたのかと不快な気持ちになった。 「全然解けてないじゃん。こんなに間違えてる」  先程大人みたいだなんて言われて浮かれていた分、やっぱり心根では馬鹿にしていたのかと彼に八つ当たりをしてしまう。そういうところがまた周りの大人にガキだ何だと言われる所以なんだろうと自覚はしているが、そういった反抗的な......良く言えば素直な反応を抑える気はなかった。しかし圭一はそんな大地の態度に不快になる様子は見せず、笑顔のまま首を横に振って違うよと言った。 「答えが合ってなくても、途中式でどこまで理解してるかちゃんと分かるよ。大地くんの考え方や使っている計算式は間違ってないから、あとはその式の使い方をちゃんと理解するだけだよ」  だから今からそれを教えるね、とシャープペンシルを差し出してくる。その笑顔に毒気を抜かれて、大地は大人しくペンを受け取った。  圭一の解説はとても分かりやすかった。難しい部分は噛み砕いて説明し、少しでも大地の理解が躓くと根気よく分かるまで教えてれた。今まで全く理解できなかった数式も、彼が説明すると絡まった糸をほどくようにするりと脳内で整理されていく。自分が今解いているのは数学ではなく簡単なパズルゲームか何かなんじゃないかと錯覚してしまう程だった。  教える圭一の声がなんだか弾んでいて、この人は本当に数学が好きなんだなと思う。楽しそうに説明されると、苦手なはずの数学がなんだかとても良いもののような気がしてきた。 「どうする?先生変えてもらう?」  玄関の扉が閉まり圭一の気配が消えると母は大地に尋ねた。 「いい。しばらくあの先生に見てもらう」  そう問われることを予測していた大地は用意していた返事をすぐに返す。  あんなにも家庭教師はいらないと駄々をこねていた大地の変わりように母は驚いているようだった。そんなにあの青年が気に入ったのかと茶化されるのが嫌で、意志を伝えて早々にニ階の自分の部屋に戻る。  次に圭一が来るのは木曜日。卓上カレンダーについた緑色の丸印を時間前よりも好ましく感じていた。 「お疲れ様。じゃあ採点するね」  圭一が大地の部屋へ訪れるようになって一ヶ月が経った。その頃には来た時のような緊張も見せることなく隙間時間に雑談を交わすことも多くなっており、なんだか親しくなったようで大地は嬉しく思っていた。  圭一のテストは相変わらず手書きだった。大地が空欄を埋めたそれを受け取ると、サラサラと採点していく。 「今度体育祭があるんだ。俺リレーの選手になった」 「へぇ!すごいじゃない。僕は足が遅かったからリレーに出るような子は住む世界が違うんだと思ってたけど、大地くんみたいな子なら話しかけてみれば良かったかな」  そう言ってみているだけで、圭一が誰かに自分から積極的に話しかけることなんて今後もないんだろうなと思った。  圭一は採点中でもこういった雑談に付き合ってくれる。計算をしながら会話をするなんて大地には到底出来ないことを平然とやってのけた。脳の作りが根本的に違うのだろう。話しかけても躓くことなく動かされる圭一の右手を眺めるのが好きだった。 「先生と同い年だったら良かったのに。そんで同じクラスだったら放課後に数学教えてもらうし、俺は早く走る方法を先生に教えたよ」  ずっとそうだったら良いのにと思っていたことを口に出す。この頃大地は、圭一に会える日が週二日しかないことを物足りなく感じていた。 「うーん……。たとえ同じクラスだったとしてもそうはならなかったと思うよ?」  浮かれた自分の妄想を他でもない圭一に否定されてつい眉間に皺が寄る。だか答案用紙を熱心に見つめる圭一はそんな大地の様子に気がつくことはない。 「どうして」  そんなこと言わないでよ、とキツく言い返しそうになるのをぐっと堪えて尋ねる。ちょうど採点が終わった圭一は満足そうに答案用紙を眺めながらそれに答えた。 「だって僕は教室の隅で休み時間も本を読んでるような奴だったもの。君みたいに明るくて人気のある子とはきっと話したりしなかったんじゃないかなぁ」  言い返せなかった。同じクラスには休憩時間に自分の席でひとり黙々と本を読んでいる佐藤という奴がいるが、彼との関係は授業で必要なことある際に多少言葉を交わす程度だ。そうでなければ朝通学路ですれ違ったってお互い知らないフリをする。  もし圭一と同じクラスだったとしても、大地は彼がこんなにも魅力的な人間だと知らないまま一年を過ごしてしまっていただろう。  どんなに歳の差が歯痒かったって、伊藤大地が三上圭一という人間と親しくなる為には今の出会いが一番適当な気がした。  それでもやっぱり圭一と一緒に学生生活を送ってみたかったと思う。それなのに圭一にそんなことはありえないとばっさり切り捨てられるのが悲しかった。実際そうならないことは分かりきっているんだから「そうなればいいね」と話を合わせてくれればいいのに、彼は根っからの現実主義者だった。 「先生は大学に仲のいい友達とかいるの?」 「中学の時に同じクラスになって高校大学も一緒の山本って奴がいるんだけど……そいつくらいかなぁ」  圭一にしては珍しい雑な物言いに驚く。中学生の、今の大地と同い年の圭一はどんな子供だったのだろう。教室の隅で本を読んでいたと言っていた。きっと控えめで大地よりも背が低くて、でも眼鏡のレンズ越しに見える大きな瞳だけは変わらずそこにあるような気がした。  自分の知らない頃の圭一を知っている、居もしないところで圭一に「そいつ」なんて呼ばれる会ったこともない山本という男にひどく嫉妬した。  夏が近づく。もう圭一が来る日付にいちいち印をつけなくとも目視で確認できるようになっていた。それでもなんとなく月が変わるたびに律儀に卓上カレンダーの月曜日と木曜日には小さな緑色の丸を付け足している。 「この丸って僕が来る日だよね」  ある日それを圭一に指摘された。気づかれていたことに動揺して言葉に詰まる。デート前の女子のようにわざわざ会う日に印をつけていたことが急に恥ずかしく思えた。 「そうだけど……」 「僕、緑色が好きなんだ。だから嬉しいや」  何でもないことのように答えてやり過ごそうと思ったのに、思わぬ返答が返ってきて狼狽える。嬉しそうに微笑む彼になんだかむず痒くなって「俺も」とだけ返した。  夏休み前最後の期末テストが返ってきた。その頃大地の成績は昨年までの赤点続きが嘘のように上がっていた。  当然、約束の三ヶ月を迎えても圭一は大地の部屋に通い続けている。 「七十点!凄いじゃない!大地くんはやっぱり理解が早いなぁ」 「先生が教えるの上手いから」  大地の成績が上がるたびに自分のことのように喜ぶ圭一を見るのが楽しみで、授業も数学だけは真面目に取り組むようになった。  どうせなら他の教科も教えてもらいたいと強請ったことがある。しかし彼は数学以外はからっきしなのだと言って大地の願いを断った。 「夏休みさ、ちょっと遊んでもいいと思う?」  タイミングを見計らって、今日1番尋ねたかったことを圭一に問う。 「この調子なら良いんじゃないかな。ずっと家にいるんじゃ集中力も保たないし、息抜きに友達と遊ぶのも良いと思うよ」  本来受験生の夏は机とお友達でいるべきだ。それでも圭一からの許可が欲しくて今回のテストは今までで一番頑張った。 「夏祭りとか」 「良いね!楽しそうだ」 「先生一緒に行こうよ」 「え?」  予測していなかったであろう大地の誘いに圭一が反射的に聞き返した。 「大地くんの友達に混ざって?」 「違う、ふたりで」  とんでもないことを言い出す圭一に慌てて訂正を入れる。 「友達と行きなよ。僕と行ったって楽しくないよ」 「みんな受験勉強でそれどころじゃないよ。」  もっともらしいことを言ってなんとか圭一の承諾を得にかかる。大地の友人たちにまだ受験生の自覚なんてものはない。実際、夏祭りは友人達に一緒に行こうと言われたのを断って圭一を誘ったのだ。  他の誰でもない圭一と行きたいのだと素直に言えば良いのは分かっているのに、断られるのが怖くて素直に伝えられない。  圭一はそんなに言うならと、最後には誘いを受けてくれた。  せっかくの大地くんの息抜きを男二人で夏祭りに消費して良いのかなぁと渋る圭一をに、良いのだと言って押し切る。  大地も頭では分かっている。こんなのは普通じゃない。別に息抜きが目的なら圭一でなくても友人たちと行けばよかったのだ。  それでも大地はこの頃になると、圭一に対して自分でも処理しきれない感情を抱くことが多くなっていた。  圭一が来る前はソワソワするし、来ない日は家に帰ってもつまらないと思う。せっかく圭一が部屋に来ていても、母が部屋に飲み物を運んでくるだけでイラつく。圭一と二人だけの、勉強以外の時間がほしかった。 「先生!」  圭一とは大地の家の前で待ち合わせをした。まだ待ち合わせの二十分前だというのに、窓の外を覗くと玄関の方に圭一の姿が見えて、大地は慌てて階段を降りる。扉を開けると圭一は少し驚いたそぶりを見せて振り返った。 「あれ?こんばんは大地くん。随分早いね」 「こっちのセリフだよ……」  圭一は夏だというのに薄手のセーターを身につけていた。以前から部屋の中でもセーターを脱がないので理由を尋ねると、彼は冷え性だからクーラーの風が当たるとしんどいのだと答えた。ならば冷房を切るかと打診したが、それだと大地が暑いだろうと緩く断られ、実際その通りだったので室内温度は大地のちょうどいい設定にしてある。 「外でもセーター?」 「この時間は夜風が冷たいから」  肌を見せたくない理由でもあるのだろうかと思ったが、圭一は本当にひどい冷え性なだけらしかった。 「先生は何食べたい?俺、先生の分もって母さんにお金多めにもらってきたから何でも頼んでよ」 「ええ⁉︎そんな悪いよ!全部大地くんが使いなよ」 「俺だってそんなに食べないよ。遠慮なんかしないで、俺がそうしたいんだから奢らせてよ」  そう言ってもう一度「何食べたい?」と訊くと、圭一は眉を下げてずるいなぁと呟いた。  圭一の分もまとめて支払うと、自分で稼いだわけでもないのになんだか大人になったような気がして優越感を感じる。  食事をする圭一の姿を見るのは初めてかもしれない。圭一はソースの焼きそばを食べていた。 「あとは?何食べる?」 「ええ……もう充分だよお腹いっぱい」 「そんなんで足りるの?」 「大地くんが食べすぎなんだよ」  そうだろうか。大地は焼きそば、イカ焼き、ポテトをすでに腹に収めていたし、デザートにかき氷を買いに行くつもりだった。品数は多いかもしれないが、育ち盛りの男子中学生ならこのくらい普通だと思う。やっぱり圭一が少食過ぎるような気がした。  もっと食べれば良いのにと思っていると、隣であっと微かに声が上がる。圭一の方を見ると、彼の視線は立ち並ぶ屋台の方に向けられていた。 「なに?どれ?」 「え、あー……。あの、ベビーカステラ……」  尋ねると案外すんなりと答えてくれた。買いに行こうと立ち上がるが、慌てた圭一に腕を掴んで止められる。 「待って待って、食べきれないから!いいから!」 「どんだけ胃小さいの……余ったのは俺が食べるから買おうよ」 「え、大地くんまだ食べれるの?」 「先生が少食すぎなんだって」  圭一の手を解いてカステラ屋台に向かう。圭一の指はひどく冷たかったのに、掴まれた箇所がやけに熱く感じて胸が騒ついた。  風の冷たさに秋の訪れを感じる。  相変わらず週二日、圭一は大地の家に来て数学を教えていた。テスト用紙もずっと手書きのままだ。  採点を行う横顔を盗み見ていると、圭一が「そういえば」と何かを思い出してクスリと笑いながら言った。 「昨日山本がうちに泊まっていったんだけどさ」 「何それずるい、俺だって先生の家泊まりたい」 「え、うち何も面白いものないけど……」  また山本。雑談をするときは大地が一方的に話すことが多い。稀に圭一も自分の周りで起きたことをこうやって話してくれるが、必ずと言って良いほどその会話の中に「山本」という男が出てきた。 「ほんとに寝て行っただけだよ。僕の家大学から近いからアイツよくホテル代わりに使うんだ」 「へぇ……」 「山本の奴、僕に断りもなしに勝手に合鍵作ってさ。昨日なんか帰ってきたら僕のベッドで大の字になって寝てるの。腹が立って布団から叩き出しちゃった」 「へぇ……」  イライラする。腹がったったと言っている割にその話をする圭一は楽しそうだ。  圭一の部屋に出入りしたり勝手にベッドに寝転んだりする山本も、それを本気で嫌がっていない圭一も無性に癇に障った。 「俺も先生のとこ泊まらせてよ」 「やだよ。汚いし狭いし……恥ずかしくて見せらんない」 「やだ。泊まる。受験終わったら遊びに行くから綺麗にしておいて」  こういうとき大地は積極的に子供らしい物言いをするようににしている。そうすれば案外面倒くさがりな圭一は大抵のことを了承してくれることを分かっていた。  本当は掃除なんてしていなくて良い。圭一が普段生活をしている、ありのままの部屋を見たかった。それでもソレを大地には見せたくないと圭一が言うのであれば仕方がない。 「うーん。じゃあ受験が終わったらね。片付けないとなぁ……」 「絶対ね、約束だから」  言質は取ったのでとりあえずはヨシとする。それでも圭一の「殆どは山本の私物だしアイツに片付けさせなきゃ」という独り言でまた大地の機嫌は急降下した。 「先生これ食べて良いよ」 「わ、ケーキ。クリスマスの?いいの?」 「うん。うちホールで買うのは良いけどいつも食べきれないんだ」  圭一は甘いものが好きらしかった。頭を使うと糖分を消費するのだろう。嬉しそうに微笑んでケーキを受け取る姿に大地も嬉しくなる。  今年のクリスマスはチョコレートケーキにしてもらった。ケーキを購入する際に圭一の姿が浮かんだのだ。圭一が普段カバンの中にチョコレートを忍ばせているのを知っていたから、もし圭一にあげるならチョコのケーキの方が喜ぶのではないかと思った。 「僕ね、チョコ大好きなんだ。だから嬉しいや」 「そう。良かった」  知ってる。圭一については知らないことの方が多いけれど、それでも知っていることは全て忘れないようにしていた。 「(可愛いなぁ......)」  フォークで小さく切ったケーキを大事そうに口に運ぶ圭一にそんなことを思う。  本当は気がついている。こんなのは年上の同性相手に思うようなことじゃない。それでも大地は自分の感情を見て見ぬ振りをした。今の関係性が心地良かった。それを自分の勝手でそれを壊したく無かった。 「僕、来年度からは家庭教師のバイトやめるよ?」 「は?」  年が明けて最初の授業の最中だった。高校の数学はさらに難しくなるという話をしている時、圭一に教わるから問題ないと言ったのに帰ってきた言葉がそれだった。 「え、な、なんで?」 「なんでって……もともと家庭教師のバイトは一年だけのつもりだったし。大地くんだって高校受験の間だけのつもりで家庭教師呼んだんじゃないの?」  それは、その通りだった。最初なんか三ヶ月で辞めてもらうつもりでいたくらいだ。来年も変わらず教えてもらえるなんてどうして思い込んでいたのだろう。 「じゃあ、じゃあさ、高校生になったら普通に友達として遊んでくれる?」 「僕と?何するの?」 「何って……映画とかカラオケとか」 「そんなの学校の友達としたらいいのに」  たった一言「いいよ」と言ってくれればそれで良いのに、圭一はなかなか大地の思うような返事をしてくれない。大地と遊ぶのが嫌で躱しているというより、圭一と過ごす時間に価値はないと本気で思っているようだった。 「先生と遊びたいって言ってる。先生は俺と遊ぶの嫌なの?」 「嫌じゃないよ。でも僕普通の子と何したら良いのかわからないから……」 「山本さんとは何してんの」 「え、何だろ……家で本読んだりゲームしたりかな」 「なら俺もそうする。先生の家で本読んでゲームする」 「ええ……?」  大地の意図が分からないというように首を傾げる圭一に気がつかないふりをして「約束だから」と一方的に押し通した。  いよいよ受験前最後の授業の日になった。  ここ二ヶ月は圭一といても雑談する余裕などなく、とにかく真剣に勉強をしていた。圭一に教わるようになってから数学の成績がぐんと伸びて、その他の教科の出来はもともと悪くなかったので志望校を上げることになったのだ。  必然的に勉強量が増える。それでも大地は圭一にガッカリされたくなくて必死で問題を解いていた。 「はいこれ」 「なに?」  授業終わり、圭一に手渡されたのは鉛筆だった。しかも使いかけだ。受け取ってそれをまじまじと見つめていると、圭一が照れ臭そうに弁解した。 「女の子みたいにお守りとか作れたら良かったんだけど……それ僕が大学受験の時に使ってた鉛筆。源担ぎくらいにはなるかなって」  そう言われた瞬間、手の中の古びた鉛筆がこの世界のどんなものよりも価値のある物に感じられた。はじめての受験で不安だった気持ちが落ち着いていく。  嬉しい。大地は圭一からもらった鉛筆をぎゅっと胸の前で握った。 「ありがとう。絶対受かるから。そしたら先生ちゃんとお祝いしてね」 「もちろん」  圭一は出会った時と変わらぬ顔でへにゃりと笑った。  そういえば圭一と出会ってもうすぐ一年だ。最初はこの人に勉強を教わることが出来るのかと不安になった。  それが今は世界中で一番信頼する相手になっている。少し頼りない風貌や身体つきも、出来ることなら自分が守ってやりたいと思う。  消極的なように見せかけて我が強く頑固だし、自分に自信がないくせに急に大胆なことを言ったりする。人を慮っているようで自分のことしか考えていない。  そんな圭一と、大地はもっともっと対等な立場で関わり合いたいと思うようになっていた。  そして合格発表当日。  掲示板に自分の番号を見つけた時、大地が真っ先に思い浮かべたのは圭一の顔だった。  高校進学決定のお祝いと、大地の早めの誕生日会を纏めて伊藤家ではささやかなパーティーが行われた。  大地は四月二日の早生まれ代表だ。共働きの両親が揃う日はなかなか無いので、祝い事はまとめてやってしまおうということだった。  圭一も呼んだが、家族水入らずの団欒に入り込むわけにいかないと彼は参加を辞退した。圭一らしいといえばらしいが、大地は面白くない。  春からは、今までのように毎週圭一と会うことは叶わないのだ。少しでも会う時間が欲しかった。なにより圭一のおかげで合格したようなものなのだから、彼もこの会に参加するべきだと思った。  どれだけゴネても圭一は首を縦には振らなかったが、その代わりパーティーの後に少しだけ会いにくると約束してくれた。その為せっかくの祝いの会も、この後の予定を気にして楽しみきれずソワソワしてしまい母に呆れられた。  「合格と、それからお誕生日おめでとう」  お誕生日はだいぶ早いけど、と付け足して圭一にラッピングの施された大きな袋を渡される。抱えるほど大きなそれを開けても良いか確認してリボンを解くと、中には真っ黒なリュックサックが入っていた。 「学校で使うかなって思って……もし趣味じゃなかったら物入れにでもして」 「使うよ。嬉しい。ありがとう」  そう言うと圭一はホッとしたように笑った。その表情に心臓がぎゅっと締め付けられる。 「先生スマホ出して」 「スマホ?どうして?」 「連絡先交換しよう、俺スマホ買ってもらったんだ」 「わ!良いね!しようしよう!」  圭一はポケットに手を突っ込んで探ると、ハッと何かに気がついた顔をして申し訳なさそうに大地を見た。 「ごめん大地くん……。僕スマホを大学に忘れてきちゃったみたい……」  いつもこうだ。せっかく大地が圭一との繋がりを断たないようにと努力しているのに、圭一の方は全くそれに答えてくれない。その事実があまりにも悔しくて虚しかった。  そんなはずないと分かっていながらも「俺と連絡先交換したくなくて嘘ついてる?」と尋ねると、とんでもないと圭一は大慌てでコートについているポケットを全て裏返してみせた。 「分かった、分かったから……じゃあ俺のメアド書いて渡すから帰ったら登録して。絶対メール送ってよ」  結局大地がそう提案したのに対して、圭一が何度も頷いて了解の意を示すことでその場は収まった。  それからしばらく立ち話をしていると、圭一がふるりと震えて両腕を摩る。三月とはいえまだまだ冷え込む。大地は渋々圭一と解散することにした。  大丈夫だ。まだ終わりじゃ無い。圭一との友情はこれからも続くし、根を詰めて勉強をする必要が無くなった分もっと沢山二人で遊びに行けるだろう。  圭一の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、大地はその場に立ち尽くしていた。  それから三年の間、圭一が大地へ連絡を寄越したり会いに来たりすることは一度もなかった。 ――――――――――――――――――――――――  時がたち大地はあの頃の圭一と同じ、大学一年生になった。高校三年間、通学に使っていたのは圭一が最後にくれたリュックサックだった。  大学は圭一と同じ所へ進学した。  圭一はきっと留年なんてしていないだろう。恐らくもう卒業してしまっているというのに、そこに行けば彼の痕跡を見つけられるような気がして後を追うように入学してしまった。  圭一は頭が良かった。だから圭一の通っていた大学も当然受験の難度は高く、志望表に大学名を記入して提出したときは担任に苦笑いされた。  それでも居ないはずの彼を求めてその大学へ入るために必死に勉強した。  別にわざわざ同じ大学を目指さなくたって門で毎日待ち伏せすればいずれ彼に会えるだろう。だが連絡を寄越さないというのは圭一なりの遠回しな拒絶なのではと思うと恐ろしくて自ら会いにいくことなど出来なかった。  それなのに彼と同じ大学を受験するなんて随分矛盾していると気が付いていながらも、大地はそこ以外に行きたい進路先が思い浮かばなかった。  受験当日。試験には三年前圭一にもらった鉛筆を使った。  入学して一ヶ月。  大方学内で迷うことも無くなってきたある日、見覚えのある後ろ姿に目を惹かれた。裾のほつれたカーディガンと跳ねた寝癖に呼吸が止まる。  間違えるわけがない。この三年間。ずっと求めていた。  彼だ。  その瞬間、思い出になっていた想いが堰を切ったように溢れ出した。  彼に会いたくて、会いたくて堪らなかった。話したいことが沢山あって、勉強だって見てもらいたかった。  あれから三年も経ったのに圭一は大地の部屋にいた時と変わらぬ姿でそこに居る。  大地は気がつくとその場から駆け出していた。人をかき分けて近づくと、記憶の中よりも圭一の背が低くて驚く。彼はこんなにも小さかっただろうか。いや違う、自分が大きくなったんだなと成長を感じて嬉しくなる。たったそれだけで圭一を守る力を得たように感じて胸が躍った。 「先生!」  すこし遠くから呼びかけるがこちらに気がつくそぶりはない。聞こえる距離のはずなのに一向にこちらへ視線を向けない圭一に苛立ってさらに駆け寄ると、腕を強く引いた。 「⁈」  突然の接触に驚いた圭一がようやく大地の方を向く。 「……?えーっと……?」  顔をしっかりと見ているはずなのに圭一は大地が誰なのか認識できないようだった。  忘れてしまったのだろうか。  大地にとってはどんな想い出よりも大切なあの1年間を。  浮かれていた気分がスーっと冷めていく。 「大地だよ、伊藤大地。三年前うちに数学教えに来てくれてたの忘れちゃったの?」 「えっ、大地くん⁉︎随分大きくなったねぇ!」  圭一は大地の名前を聞くや否や、大袈裟に声をあげて驚き破顔した。良かった。忘れているわけではないようだ。  久しぶりだね、と先ほどとは打って変わってにこやかにこちらを見上げる圭一を愛おしいと思うと同時に、ジワジワとまた恨めしい気持ちが湧き出てくる。 「先生は薄情だ……」 「えー?仕方ないでしょ。だって君あの頃の倍くらい身長伸びてるし声だってもっと低くなってるじゃない」  つい漏れた憎まれ口に、見当違いな返答をされる。  問題は成長した大地の姿にすぐに気がついてくれなかったことではない。それはそれで傷ついたが、倍は言い過ぎでも確かに背も伸びてあの頃よりガタイの良くなった大地にすぐに気がつけなくても仕方がない。  大地が問いただしたいのは連絡をよこさなかったことについてだった。 「そうじゃなくて!電話!してくれるって言ったのに!」   三年間も音沙汰なしなんてあまりにも酷いと抗議をすると、圭一はさして悪いと思っている様子もなく「ああ」と頷いた。 「忘れてた。でもどのみち僕こまめに連絡するのとか苦手だからさ」 「だ、だからって……俺待ってたのに」 「そっか。ごめんね」  あまりにもな理由に大地は呆気に取られた。大地がどれだけ自分からの電話を待っていたかいまいち理解していない圭一は、形ばかりの謝罪をする。  伝わりきらないもどかしさに焦れつつも、久々の再会で言い合いをするのは本意ではないので「もういいよ」とその話題を終わらせた。 「先生は何でここに居るの?卒業したんじゃないの?」 「僕は院に進んだからまだここに居るんだ」  成る程それは嬉しい誤算だった。数学を人一倍愛していた彼が院生として研究を続けることを選ぶのは至極当然に思えた。 「大地くんはこの学校に入学したの?」 「そうだよ」 「そっかぁ、もう大学生かぁ……早いなぁ」  圭一は感慨深そうに呟くと、「ところで……」と言いづらそうに顔を顰めた。 「僕はもう先生なんかじゃないんだけどな」  それはそうだ。あの頃だって先生と呼ばれることに不慣れな様子だったように思う。ましてや院生の立場で学生に「先生」などと呼ばれるのは据わりが悪いだろう。 「じゃあさ、俺こんどから先生のこと圭一さんって呼んでいい?」  調子に乗りすぎだろうか。久々の再会で舞い上がってしまっている自覚はある。けれども先生と生徒の関係でなくなった今、彼のことを「圭一さん」と呼ぶ権利がひどく欲しくなった。  たったこれだけの質問で握った掌が汗でぬるつく。圭一は大地の問いにきょとんと目を丸くすると、落ち着かない様子もぞもぞと身じろいだ。 「そんなふうに呼ばれたことないから照れるな……」 「だ、だめ?」 「良いよ」  渋った割にすんなりと許可を出す。照れ臭いだけでなんと呼ばれようと特に不満はないのだろう。  彼の返事を待つ間よほど緊張していたのか、喉に詰まっていた息が漏れる。圭一はそんな大地の様子に気が付かずに、圭一さんかぁ……なんだか歳上になったみたい……とくすぐったそうに笑った。 「……なったじゃなくて元々歳上じゃない。俺より四つも上だよ」 「うん。そうなんだけど……大地くんがしっかりしてるからあんまり歳下って感じがしないんだよなぁ」 「け、けいいちさんが、子供っぽいんだよ」  呼び慣れず緊張のあまり吃ってしまったのを彼は指摘することなくただ「そうだね」と笑った。  そういうところがやっぱり歳上で、自分は彼にとって甘やかす対象の子供なんだなと実感してしまった。  彼にもう一度会えたことが嬉しかった。  嬉しくて嬉しくて堪らなくて、三年越しに登録された圭一のアドレスを何度も指でなぞった。  どんなに見ない振りをしたって無意味だった。  大地は圭一が好きだった。  尊敬でも友情でもない。ずっとずっと、きっと最初に会ったあの日から、大地は圭一に惚れていた。  彼は色白で細いけれど、やっぱりどう見たって男の人だ。それでも大地は圭一のことばかり目で追っていたし、彼の身体に触れたかった。  周りの女の子たちの香水の香りよりも、すれ違った時にふと香る圭一の柔軟剤の匂いの方が好きだった。  初恋は月並みに幼稚園の先生だったし、中学の頃には生意気に彼女なんてのもいた。だからきっと自分は同性愛者だというわけでは無いんだと思う。  でも圭一に出会ってからはどんなに世間から可愛いと持て囃されている子にだって心惹かれることはなくなった。  圭一と再会して改めて自分が圭一以外の人間に魅力を感じていないのだと自覚させられた。  男女問わず彼以外の人とキスやセックスをしているところを想像してみたけれど、どんな相手とも途中で挫折してしまう。彼以外の人の身体を見たいとも触りたいとも思えなかった。  圭一だけが大地の中でずっと特別だったのだ。    数学科の院生は比較的自由が効くらしい。  圭一は学部時代に大学院の授業を先取りしてたから、そんなに授業のコマ数も多くないのだと言っていた。院生には試験もない。  だから圭一には院生の研究室へ行けば高確率で会うことができた。スマホを一日開かないこともあるという圭一には、直接研究室へ伺った方がすんなり会える。  大地は隙を見て研究室へ通い、ひと月の間で圭一以外の院生にもすっかり顔と名前を覚えられていた。  その日も大地が研究室のドアを叩くと、中から出てきた院生は大地が挨拶するよりも先に後ろを振り返って圭一の名を呼ぶ。奥の方からぱたぱたと寝癖のついた青年が近づいてきた。 「大地くんいらっしゃい。来てもらって悪いけど僕もう今日は帰ろうと思ってるんだ」  なんだ帰ってしまうのかとがっかりするのと同時に、これはチャンスなのではと気がつく。中学生だった自分が果たせなかった圭一との約束を大地はずっと叶えたいと思っていたのだ。 「じゃあさ、圭一さんの部屋にいっても良い?」  なるべく平静を装って伺いを立てる。不自然ではなかっただろうか。断られたらどうしよう。もう大地は駄々をこねて可愛い見た目ではなくなってしまったので、断られた時の食い下がり方が分からなかった。 「べつに良いけど……何もないよ?それに僕あした出す課題レポート作らないといけないし、相手できないと思うけど」 「それでもいい、行きたい」 「そう?じゃあ荷物纏めてくるからそこで待ってて」  元の席に踵を返す圭一に聞こえないように息を吐いて緊張の糸を解く。断られなかった。別に圭一は邪魔をしなければ家に誰が来ても問題ないのだろう。だが大地は彼のプライベートな部分に迎え入れてもらえたような気がして嬉しかった。  右手で小さくガッツポーズを作ると、圭一を呼んでくれた院生に「良かったな」と言って肩を軽く叩かれた。  圭一の家は大学から二駅のところにあった。  部屋に入ると圭一の匂いがふわりと香って落ち着かない気分になる。  地面にはレポート用紙と脱ぎっぱなしの服がいくつか落ちているが、男の一人暮らしにしては整っているように見えた。  圭一は帰宅早々に大地に好きにしていて良いと言って机に向かった。部屋の主がこちらを見ていないのを良いことにぐるりと辺りを見渡す。 「本、たくさんあるんだね」 「あー、つい買っちゃうんだよね。電子の方が嵩張らないし持ち運べて便利なのは分かってるんだけど……」  その気持ちは大地にもよく分かる。便利なのは承知しているが、なんとなく電子書籍の購入へ気乗りがしなかった。  紙の本は読んだ分のページが実績のように右手に溜まっていく。その厚みが今自分の中に入った知識量を表しているようで、大地は読みながら誇らしい気持ちになっていた。  恐らく圭一は大地とは違い、紙の質感やページを捲る感覚を好きで電子書籍に移行しないのだろう。それでも紙の本が好きだという点では相違がないので「分かる」と共感を示しておいた。  それに圭一には紙の本が似合う。 「気になるなら好きなの借りていっていいよ」 「ほんと?ありがとう」  少し多めに借りれば、返す時重いから持っていくと言ってまたこの家に来る口実ができる。そんな下心を抱えながら本棚を左端から流し見て目ぼしいものがないか探し、一冊の本を取り出した。 「じゃあこれ借りようかな」 「それ?小説とかじゃないんだ」 「小説も借りて良いなら借りたい。でも今ちょうど解析学についての講義取ってる役に立つかなって」  圭一はああなるほどと頷いて、もう一度大地の手の中の本に視線を移すとうーんと顎に手を置いて唸った。 「でも……それならそっちより……」  右手のペンをそっと置いて圭一が立ち上がる音がする。こちらに近づいた気配に振り返ると、もうそこまで来ていた彼がすぐ隣で立ち止まった。 「こっちの方がきっとわかりやすいよ」  すっと手を伸ばして、大地が選んだ本とは右に三つ隣の参考書を手に取る。圭一は取り出した本をぱらぱらとめくりながら、いくつかのページに迷うそぶりも見せずに付箋を貼っていった。  窓の外の音が遮断された静かな空間で、彼の息遣いだけが微かに聴こえて無意識に耳をそばだてる。圭一の肩が少しだけ触れた腕の部分がビリビリと震えて熱を発した。  彼の指先が少しささくれているところまで見ているうちに、付箋の貼り終えた本がパタンと閉じられる。 「はい。参考になりそうなところに付箋しておいたよ」  曇ったレンズの奥で圭一の目が細まるのに合わせて心臓がぎゅうっと握られたような感覚がした。  レポートを制作しながらも、圭一は大地のくだらない会話にも返事をしてくれる。こうやって話していると中学の頃に戻ったようで腹の中がくすぐったく感じた。  そうしているうちにあっという間に十九時を回り、大地の腹の虫がなる。恥じる大地に圭一が「夕飯出前とる?」と聞いてきた。 「出前?わざわざ?圭一さんいつも夕飯出前とってるの?」 「いや、いつもは食べないから。でも君が食べるなら食べるよ」  細い細いと思っていたがまさかの夕飯を食べていないという事実に驚愕した。たたでさえ不健康そうなのに、食事を疎かにするなんて信じられない。 「た、食べないの?なんで?」 「だって僕料理出来ないし買うと高いし」 「適当な物でも良いんだよ。俺だって作るのパスタとかだし」 「え?大地くん料理なんて出来るの?」 「いや料理って程じゃないから。麺茹でて市販のソースかけるだけだし」 「それでもすごいよ」  パスタを茹でただけで褒めてくる圭一の生活力の低さを想像して眩暈がした。恐らくこの人は一人で暮らしてはいけない人種だ。 「……あのさ、圭一さん普段夕飯以外は何食べてるの?」 「僕?コンビニとかスーパーのお弁当とか......あ、あと栄養バーとか!」 「栄養補助食品は補助だから!メインで食べないで!」  初めて圭一の家を訪れてから、大地は夕食を作りに週に二、三度彼の家に通うようになっていた。頻繁に部屋を訪れる大地のことを圭一は邪険にすることなく、出された食事を喜んで食べる。あれば食べるのだ。用意するのが面倒なだけで。  そうやって圭一に食事を作っているうちに大地の炊事スキルはめきめきと上達した。もともと要領がいいので簡単な家庭料理ならレシピを見なくても作れるようになっていた。 「大地くんはどうしてそんなに頻繁にうちに来るの?」  その日も研究室まで圭一を迎えに行って、彼の家へ一緒に向かっていた。彼の家が近づいたところで急に圭一にそう尋ねられてどきりとする。  もしかして迷惑だったのだろうか。いや、もしそうであればこの人は迷惑であるとはっきり伝えるだろう。決して大地がこの家を訪れることを遠まわしに咎めているわけではない……と思いたい。 「べつに?来たいからだけど、迷惑?」  平静を装って尋ね返す。もしそうだと言われたら立ち直れる気がしないのに訊かずにはいられなかった。 「迷惑なんかじゃないよ。ご飯だって作ってくれるし掃除もしていってくれるじゃない。だけど僕何か面白いことが言えるわけじゃないのに来ても楽しくないでしょ?」 「楽しいよ。楽しいから来てるんじゃん」  心外だった。こんなにも好意をむき出しにして圭一に擦り寄っているのに、彼には何も伝わっていないのだ。不機嫌であることをあまり隠さずに反論をしても、圭一は気がつくそぶりもなく大地のことを変わり者だと言って進行方向へ視線を戻した。  圭一は嫌だと思ったら臆せず伝えてくるし、面倒だと感じたら何も言わずにスッと距離を置く。大地はいつ圭一から拒絶される日が来るだろうと彼の家に行くたびに怯えていた。  だからこそそんな彼と高校の頃から仲良くしているという山本が羨ましくて仕方がなかった。  圭一はまだ山本のことを話すときのような雑さを大地に対しては見せない。 「山本さんって今でも圭一さんの部屋によく来てるの?」  頻繁に圭一の家へ訪れている大地だが、未だに山本に出くわしたことがなかった。三年前にも頻繁に聞いていた山本という男の名前が未だに圭一の口から頻繁に出るのはずっと癪に触っていたのだ。 「うーん、最近はあんまりかな。なんか行く必要がなくなったとかなんとか言ってたけど」 「なにそれ」 「さぁ?アイツいっつも言葉足らずなんだよね。僕にそう言われたって知ったらお前が言うなって怒りそうだけど」  そうやって怒る山本を想像したのか、圭一はクスクス笑いながら家の鍵を取り出す。未だに大地が手に入れられていない彼の部屋の合鍵を、山本は持っているのだと思うと余計に苛立った。  部屋に入るとやはり圭一は大地を置いてすぐに机に向かった。そんな部屋主の様子にはもう慣れている大地は彼のベッドに腰掛けて持参していたノートパソコンを開く。夕食にはまだ早いので締め切りの近いレポートを進めるつもりだった。  ふと枕元に放り投げられているTシャツが目に入る。圭一にしては派手な赤色のそれを手に取って、これは洗濯物かと尋ねた。 「ああ、それは山本が忘れたままずっとあるやつだから適当なところに置いといて」  また、山本だ。圭一の側にはいつも山本。大地がどれだけ圭一の世話をしようと、彼の親友は山本ただ一人なのだ。 「忘れたままずっと置きっぱ?なら要らないんじゃないの。捨てていいでしょ」  苛立ちが声色に乗ってしまって自分で驚く。何かフォローを入れようと思って顔を上げると、振り返った圭一がこちらを見つめていた。 「大地くん?何に怒ってるの?」  不思議そうに首を傾げて訪ねてくる。  どうして分からないんだと理不尽に彼への怒りが湧き出た。仕方がない。圭一は大地の気持ちなんか知らないのだ。知らないから平気で大地を傷つけるようなことを言う。  圭一は知らない。どれだけ大地が圭一のことを好きなのか。知って欲しい。分かって欲しい。そして出来るなら、受け入れて欲しい。 「圭一さんが、好きだから」  言ってしまってからハッとする。自分の気持ちが伝わらないもどかしさから、思わず考えなしに彼への想いを口走ってしまった。  しかし口から出た言葉はもう元には戻らない。  それに、大地はいい加減圭一に自分の気持ちを隠しておくことがしんどくなっていた。 「だから、圭一さんと仲がいい山本さんに嫉妬しちゃうんだよ」  勢いに任せて抱えていた苛立ちまでぶつけてしまう。今すぐ受け入れてもらえるなんて思っていない。でも圭一が少しでも大地のことを意識してくれたらいいと思った。  大地に告白をしてきた女の子たちもこんな気持ちだったのだろうか。心臓が口から飛び出てしまいそうだ。  圭一は大地の言葉を黙って聞いていたが、そのうちフイと顔を背けて手元の参考書に目を移した。その態度に困惑していると、彼はそのまま活字を目で追いながら「それは」と口を開いた。 「気のせいなんじゃないかな」  想定していなかった返答に愕然とする。圭一は最初から大地の愛の言葉を信じていなかった。 「さ、三年以上も続く気のせいなんかある?」 「だって、そんなのあり得ないよ」 「何で?男同士だから?」 「違うそうじゃなくて……僕なんかを好きになるのがあり得ないってこと」  圭一が何を言っているのか大地には理解できなかった。ページを捲る音がやけに部屋に響く。  圭一が会話と作業を両方疎かにせず同時並行出来ることは知っているが、それでも今だけは大地の告白をもっと真剣に聞いて欲しかった。 「それを決めるのは圭一さんじゃなくて俺だ」 「それはそうかもしれないけど」  ようやく顔を上げて大地に視線を戻した圭一はあからさまに困った表情をしていた。 「やっぱり僕なんか好きにならない方がいいよ」  まるで聞き分けのない子供に諭すようなその言い方に、この人は大地の気持ちを受け取るつもりは無いのだと察する。それどころか無かったことにしようとする態度に大地は怒りで涙が出てきそうになった。 「圭一さんがなんと言おうと、俺は圭一さんが好きだし諦めるつもりもないよ」  拳を握りしめて目の前の男を睨みつけながら声を絞り出す。最悪だ。こんなの告白でもなんでもない。こんな風に想いを伝えるつもりなんてなかったのに。  大地の言葉に、圭一は何故かひどく傷ついたような顔をした。  予定外の愛の告白から数日。どんな顔をして圭一に会えば良いのか分からなくなってしまった大地は、あれから一度も圭一の家へ行くことができていない。  あの日、冷静でいられなかった大地は夕食を作らずに自宅へ帰ってしまった。  その後何度も会いに行こうと思ったが、好きだと伝えたときの圭一の表情と態度を思い出すと足がすくんだ。圭一はもしかしたらもう自分なんかに会いたくないかもしれない。  会えないのは辛い。あの笑顔をまた自分に向けて欲しい。  数日間の禁圭一の末に理性が効かなくなった頭で、大地はフラフラと数学科の研究室へ来てしまっていた。  中に圭一はいるだろうか。話しかけて無視されたりしないだろうか。 「あれ?伊藤くん?」  研究室の扉の前でまごまごしていると、後ろから誰かに名前を呼ばれた。振り向くと、初めて圭一の家に行く許可をもらった時に大地の肩を叩いて祝った院生が立っていた。 「あ、お久しぶりです」 「久しぶり〜。用事があんの三上だよね、呼んでこようか?」 「や、だ、大丈夫です」  まだ圭一に会って何を言うのかまったく決まっていない。気を利かせてくれた院生を制してそそくさと踵を返しす。しかし男はそんな大地の肩を掴んで呼び止めた。 「待って待って。なに?喧嘩でもしたん?」 「いや、喧嘩ってほどじゃ……」 「どうせ三上が自分本位で失礼なこと言ったんだろ」  男は大地に「ごめんねぇ〜」と緩く謝ってくる。やけに圭一と親しげな様子が鼻についた。何故圭一の代わりに謝ってくるのだろうか。彼は圭一の何を知っていると言うのだろうか。 「あの……圭一さんと仲良いんですか?」  お前は圭一の何なんだという不快感をチラつかせながら尋ねると、男は大地の幼い態度を気に留める様子もなく答えた。 「俺あいつと腐れ縁なの。中学のときからずっと一緒でさ」  圭一と腐れ縁。中学の頃から。その人物に大いに心当たりのあった大地は目を瞠って、あっと大声を出した。 「山本⁉︎」 「え、は、何?急に呼び捨て?」  衝撃のままについ敬称もなしに名前を叫んでしまう。困惑する山本に慌てて謝罪をした。 「す、すみません。圭一さんからお話伺ってて……」 「あー、なるほどね」  合点がいった様子の山本は、アイツ俺か伊藤くんくらいしか仲良いやついないもんねとニカっと笑った。  その笑顔や物言いは圭一とは全く違うタイプに見える。それは本当にこの人があの圭一の親友なのだろうかと疑ってしまいそうな程だった。 「何があったか知らないけどさ、三上のヤツ伊藤くんに無視されて落ち込んでるからもし良ければ仲直りしてやって?」  落ち込んでいる?圭一が大地のことで?そんな妄想みたいな話信じられないが、もしそうなら不謹慎だけども嬉しいと思う。 「べつに、喧嘩も無視もしてないですけど」 「そっかそっか、なら良いよな」  山本は勝手に納得して研究室のドアを開けると、圭一の名前を部屋の奥に向かって叫んだ。  呼ばれた寝癖頭が振り返る。  大地の姿を見た圭一の表情がホッとしたような気がしたのは自惚れだろうか。 「大地くん。いらっしゃい」  こちらに近づいた圭一の目の下には薄く隈が出来ていた。 「圭一さん、夕飯ちゃんと食べてる?」 「大地くんが作ってくれないから食べてない」 「なにそれ、人のせいにしないでよ」  責めるように言われて思わず吹き出す。圭一も理不尽なことを言った自覚があるのか、大地につられて笑った。胸の中がほわりと暖かくなる。  圭一が好きだという気持ちで身体中が満たされる。やっぱり気のせいなんかじゃない。誰が何と言おうと、その誰かが例え圭一だろうと大地の気持ちは変わらないのだ。 「今日は、ハンバーグが食べたいです」 「はい。了解しました」  甘え慣れていない圭一からの不器用なリクエストが可愛くてニヤける。大地はまたひとつ彼のことを好きになってしまった。 「猫可愛いなぁ」 「飼わないでよ?自分の世話もまともにできないのに」  分かってるよーと口を尖らせる圭一に、これはある日急に捨て猫を拾ってきて飼うとか言い出しかねないぞと顔を顰める。  圭一と大地は並んでコーヒーを飲みながら、ベッドに腰掛けてテレビのアニマル特集を見ていた。 「圭一さん猫好きなんだ?」 「好きだよ」 「……そっか」  圭一から出る好きと言う言葉に動揺して一瞬返事が遅れる。一度咳払いをして情けない自分を戒めた。  そんな大地の様子に気がついていない圭一が「あのね」と言いながら突然すっと身を寄せてきて距離が近づく。触れてもいないのに肌の近づいた場所がぶわりと騒ついた。 「実は僕こう見えてけっこう動物に好かれるんだよ」 「へぇ……」  動揺しているのを悟られないよう表情を引き締める。  ここ最近、圭一の距離感が近い。それはこの間しばらく会わない期間が続いた後からだった。  大地が研究室へ行くと、何の作業をしていてもパッと顔を上げて寄ってきてくれる。圭一の方から大地を教室まで呼びにくることもあった。それはまるで大地が圭一から離れていくのを恐れているかのようだった。  嬉しいが心臓に悪い。大地が圭一のことを恋愛的な意味で好きだと言ったことを忘れてしまったのだろうか。  大地は男だ。好きな相手と密室に二人きり、ベッドの上で並んで座っていていかがわしい妄想をしないでいられるほど聖人ではない。  圭一との二人きりの和やかな時間は、大地の多大なる忍耐力の上で成り立っていた。  なるだけ圭一を意識しないようテレビに映る猫に視線を集中させていると、圭一が大地の服の裾を引いて自身を見るよう促してきた。 「なに?」 「大地くんは、まだ僕のことが好き?」  なんてことを訊くんだ。大地は予想だにしない圭一からの質問に驚愕のあまり言葉を失った。  やめてほしい。そんなことを確認するように尋ねられたら不毛な期待をしてしまう。  圭一は大地の返答を黙ってじっと待っていた。何秒間かの沈黙が続いて、大地は何かしら答えなくてはと停止した脳をフル回転させる。しかし何と答えるのが正解か分からなくて、結局素直な気持ちを目の前の想い人に伝えた。 「好きだよ、ずっと好き」  圭一は自分から聞いておいて大地の返答に戸惑っているようだった。 「でも、でも僕は好きな人とかいたことないし、もしかしたら恋とかできない体質なのかも……好きでいても仕方ないよ」  彼は何が言いたいのだろうか。圭一の真意が分からず大地は途方に暮れる。 「圭一さんは俺に好かれるの迷惑?」 「違うよ!ただ……」  圭一は何かを言おうとして思いとどまると口をぎゅっと結ぶ。その先を待ってみるが、彼はそれきり黙ってしまった。 「迷惑じゃないなら好きでいさせてよ。迷惑って言われても好きなのやめらんないけど」  そう言ってだんまりを決め込んだ圭一の頬を指先でするりと撫でる。この人の初恋の相手が自分になればいいのに。  抵抗をするでもなく大地の指を受け止める圭一の瞳は何故だか不安そうに揺れていた。  圭一と再会してあっという間に一年が経った。彼とはあの告白以来特に大きな問題は起きていない。というよりも何もなさすぎるのが大地としては問題だった。  あまりにも普通の態度で接してくる圭一に、告白を無かったことにするつもりなのかと疑っていたこともある。  だがふとした時圭一は大地にまだ自分のことを好きか確認してきた。最初は動揺していた大地も、今では「好きだよ」と聞かれるたびに律儀に答えるようになっている。  そうすると圭一はホッとするような、それでいて悲しそうな顔をするのだ。その理由を大地は未だに聞くことが出来ていない。 「はいこれ」 「なに?」 「お誕生日でしょ?プレゼント。おめでとう」 「お、覚えてたの……?」 「だって前にもお祝いしたじゃない」  確かに祝ってもらったが、それはもう四年前の話だ。しかもその時は誕生日当日じゃなかった。他の大事なことはすぐ忘れるくせに、何故そんな些細なことを覚えてくれているのだろうか。  渡された箱の中には深緑色のキーケースが入っていた。 「緑色、好きだったよね?」 「うん……」  そんなことまで覚えているのかと目を瞠る。かつては地味でダサいからと嫌っていた緑色は今や一番好きな色になっていた。緑は圭一の色だから。  だけれどそれを素直に伝えることはなんだか憚られたので、話題を圭一に移す。 「圭一さんはお誕生日いつ?俺もお祝いしたい」 「僕?僕のはいいよ」  もう祝われて嬉しい歳でもないし、と遇らう圭一にムッとする。どうして彼はこう自分を軽く扱うのか。どれだけ大地が圭一を大切にしようとしても、圭一自身がそうしないのでひどくもどかしい。 「祝わせてよ」  大地がこういった言い方をすれば圭一が断らないことを知っていてわざとそうする。案の定彼はしぶしぶといった風に「七月三十日だよ」と答えた。 「でも別に忘れちゃって良いから。お祝いとか気を遣わないでね」 「気を使うとかじゃないし」  これ以上このやり取りを続けるとなんだか喧嘩になってしまいそうで(喧嘩といっても一方的に大地が拗ねて口を聞かなくなるだけだが)早々に切り上げた。  知りたい情報は得ることができたのだ。七月の三十日。大地は一度心の中で復唱してから、絶対に忘れるものかとその日付を脳内に刻んだ。  圭一は用は済んだとばかりに普段通り自分の机に座ってレポート用紙を広げる。それでも会話は続けてくれるつもりのようで、右手を動かしながら大地に話しかけた。 「ご両親からは何か貰った?」 「何かっていうか……お金もらった。アンタの欲しいもん分からないからこれで好きなの買いなさいって」 「あはは、君のお母さんらしいや」  圭一は家庭教師時代に何度も母と会話をしていたので懐かしむように笑う。大地は何だかんだ自分の家族のことが好きだったから、楽しそうに大地の母の話をする圭一の姿に嬉しくなった。 「圭一さんはまだ誕生日プレゼントとか親からもらう?」  そういえば圭一の両親の話は聞いたことがない。一人暮らしをしているということは彼の両親は地方に住んでいるのだろうか。  圭一は「あー」と考える素振りをして「中学の時までは貰ってたよ」と答えた。 「高校は無かったの?随分冷めてるんだね」 「うん。でも父さんも母さんもすごく優しい人だったよ」  圭一の物言いに何か違和感を感じつつも相槌を打って聞いていると、続いて彼から思いもよらない言葉をかけられた。 「大地くんはきっと、すごく良いお父さんになるんだろうなぁ」  後ろからガツンと殴られたような感覚がした。そうなることが至極当然であるように微笑む圭一が今、大地には死刑執行人に見える。 「どうして、そんなひどいこと言うの」  大地の言葉に「え?なにが?」と振り向いた彼はぎょっと目を瞠った。 「え?……え、な、泣いてるの?なんで?」  さいあくだ。  さっきまで楽しかった気持ちが一気にマイナスになる。 「こどもなんか、いらない。圭一さんが居てくれれば、それでいいのに、圭一さん以外いらないのに!」  戸惑いながら大地の側に近寄った圭一は「ごめんね、怒らないで」と自分本位な謝罪を口にする。そんな圭一になおさら腹が立って、大地の目からは更に涙が溢れた。 「俺が‼︎何に怒ってるのかちゃんと分かってる⁉︎」  圭一は大地の問いに応えようとしてわたわたと手を動かした挙句、迷子の子供のように途方にくれて「ごめんね」と再度呟いた。ずるい。なんでそんな顔するんだ。傷ついたのはこっちなのに。  圭一に悪気はないし、大地だって圭一を傷つけたいわけじゃない。大地は一度深呼吸をして涙を拭うと、突然怒鳴りつけたことを圭一に詫びた。 「怒ってごめん……」 「お、怒らせて、ごめんね」  怒らせた原因については未だに理解しきれてないのだろう。大地はついもういいよと突き放しそうになる。しかしそれではダメだと思った。  もう二度と彼に今のようなことを言われたくないし、こんな風に怒って彼を不安がらせたくない。圭一にこの気持ちを理解してもらいたいなら、察してもらうのを待つのでは駄目だ。  彼の手首を緩く掴んで引き寄せる。怒らせたことに動揺していたのか、圭一はすぐに重心を崩して大地の腕に収まった。 「俺は圭一さんが好きなの。圭一さん以外の人との未来の話なんて、圭一さんの口から聞きたくないよ」  ゆっくりと彼の内側に染み込ませるように伝える。  どうか伝わりますように。自分の気持ちが彼にほんの少しでも良いから伝わりますように。 「好きってそういうことなんだよ」  腕の中の圭一がどんな顔をしていたのか大地には見えなかったが、胸のあたりをぎゅっと握られる感覚がした。  セミの声が耳にまとわりついて煩わしい。  まだ七月を迎えたばかりだというのに気候はすっかり真夏で、大地の額には汗が滲んでいた。  ここのところ圭一は家に引きこもってずっと学会で行う中間発表の準備に勤しんでいる。  研究室に向かう時間も面倒なのだと言っていた彼に、そんなに急いでやらないといけない研究なのかと問うと、学会は夏休み明けなのだと言った。  まだ夏休みを迎えてもいないのに。院生の学会とはそんなに厳しいところなのかと不思議がる大地に圭一は「ちょっと前準備のつもりで手を出したら止まらなくなっちゃったんだよね」と恥ずかしそうに笑った。  今日も部屋から出るつもりがないのだという圭一に食事をさせるべく、大地は野菜の入ったビニール袋を片手に日差しの中を歩いていた。  圭一と大学で再会したことを母に報告をしたことで、先生へ渡しなさいと、こうやって手土産を持たされることも多い。  指に食い込むビニールも背中に這う汗の感触も不快なはずなのに、何度も聞いた圭一の「いらっしゃい」が楽しみで大地の足取りはとても軽かった。  玄関で大地を迎えた圭一は半袖のシャツを着ていた。  初めて見る圭一の二の腕にぎくりとする。男の肌に何をと思うが、圭一と出会って数年間一度も見たことのない彼の部位に心臓が騒いで仕方なかった。  大地のためにと冷房をつけて自分はカーディガンを羽織る圭一にホッとする。残念な気もしたが、その格好のまま居られる方が心臓に悪くて良くなかった。 「圭一さんは夏休みどこか出かけたりしないの?」 「夏祭りとか?」 「ははっ懐かしい」  昔二人で出かけた夏の日のことを思い出す。あの時は圭一への気持ちを素直に認められていなかったし、誘い方もぎこちなかった。こんな風に圭一の家に上がり込むようになるなんて想像もしていなかったなと、改めて現状に幸せを感じる。 「夏祭りも良いけど、圭一さんは動物園とか好きなんじゃないの?」 「どうして?」 「前に圭一さん、けっこう動物に好かれるって言ってたじゃない。それって圭一さんが動物好きだからでしょ」  大地の指摘に圭一はきょとんと目を丸くした。 「そんなこと言ったっけ?」 「……言ったよ」  小さく返すと圭一は、ふぅんそっかぁと呟いてまた作業に戻った。  圭一は昔からこういうところがある。話したことを覚えていない。忘れっぽいというわけではないのだ。ただふとした会話の記憶をまるっと何処かへ置いてきてしまうことが多々あった。  大地が圭一との会話を重要視し過ぎなのだろうか。どちらにせよこういう時、大地は圭一との気持ちの温度差を感じて切なくなるのだった。 「だったら泊まって行ったらいいじゃない」 「な、何言ってるの」  それはいつも通り圭一の部屋で夕食を食べ終えて雑談をしている時のことだ。  気づけば外はひどい大雨で、それは電車も恐らくまともに走っていないだろうと安易に予測できる程だった。圭一の家を出るのが遅くなっては、いつ自宅にたどり着けるか分かったものじゃない。  大地は立ち上がって荷物をまとめると、もう帰ると圭一に伝えた。まだ帰宅には早くないかと引き止める圭一に、雨がひどいから遅くならないうちに帰るのだと伝えて言われたのが先のセリフだった。  泊まればいい。  圭一と一つ屋根の下で一晩寝泊まりをしろと。それはもはや拷問でしかないし、風呂上がりの圭一が髪を濡らして熱った顔をしながらパジャマで彷徨いているのを襲わない自信が大地にはこれっぽっちもない。  自身が目の前の男に性的な目で見られているという自覚のない圭一に痛くなる頭を押さえる。 「あのね圭一さん。俺圭一さんのこと好きなんだよ」 「し、しってるよ」  何を急にと狼狽える圭一は、大地の気持ちを知ってはいるが分かっていない。大地は彼にどう説明しようか思案した。だがこういうことは直球に伝えなくては圭一は分かってくれないので、なるだけ怯えさせないように優しく諭す。 「圭一さんと同じ部屋で寝て、俺が圭一さんのこと襲っちゃったらどうするの」 「おそっ⁉︎」  大地の言葉に圭一の顔が首まで真っ赤に染まる。どうしてここでそういう可愛い反応をするんだ。  身体に溜まった熱をどうにか逃がそうと大きく息を吐く。圭一はそれにびくりと怯えてその身を縮こまらせた。  自分の目の前にいるのは、飢えた獣だと言うことを認識してくれたらしい圭一に再度「帰るね」と言って背を向ける。何度好意を伝えてもいまいち理解してくれない圭一に虚しさを感じながら玄関に座り靴の紐を結び直していると、背中にトンと何かが当たる感覚がした。 「大地くんになら」  ドッと全身から汗が噴き出る。圭一が背中に頭を預けて、大地の服を震える手で握りしめていた。 「大地くんになら、いいよ」 「……自分が、何言ってんのか分かってる……?」  喉が乾いて声が引き攣る。全身が心臓になってしまったようにバクバクと指先まで血液が脈打つ。 「わ、分かってるよ」 「分かってない。何も分かってないよ」  好きな人が自分にもたれかかって襲っても良いと言ってくる。まるで夢物語のようなシチュエーションが大地にもたらしたのは絶望だった。  何も伝わっていない。どれだけ大地が根気よく諭しても圭一に大地の気持ちの本質は伝わっていなかった。身体だけ手に入れば良いわけじゃない。大地は圭一の心まで丸ごと欲しているのに、圭一は自分の空白を埋めるためだけに易々と自分の身を差し出してくる。 「圭一さんはさ、寂しいんだよね。だから友達がいなくなるのが嫌でそうやって引き止めるんでしょ。けどそれってどうなの。仲が良ければ良いの?友達だったら良いの?じゃあ圭一さんは山本さんがヤらせろって言ったらヤらせてあげるんだ?」 「そ、そんなわけないだろ⁉︎」 「じゃあなんなの!」  大地は冷静では無かった。自分で言っておいて、山本を受け入れる圭一を想像して怒りで頭がおかしくなりそうだった。  これまでにない程の剣幕で怒鳴る大地に圭一は怯えて何も言えなくなってしまっている。 「あのさ圭一さん、そんなことしなくたって良いんだよ」 「そんなことって……」 「今みたいなのはすごく嫌だ。俺はそんなことしなくたって圭一さんの友達辞めたりしないよ。無理に俺の気持ちに答えようとしないで。見くびらないでよ」 「ぼ、僕そんなつもりじゃ……」 「ごめん、何も聞きたくない。今日はやっぱり帰るね。また来るから」  そう言って一方的に話を切り上げて部屋を出る大地に、圭一はもう何も言わなかった。  圭一の家には本当にまたすぐ行くつもりだった。圭一と接する中で、あんなやり取りをいつまでも引きずっていては身が持たない。  だから気にしてないフリをしてまたあの家の敷居を跨ぐ予定だったのだが、あれから二週間ほど経った今でもそれは叶っていない。各教科で課題の出るタイミングが重なったことで大地は急に忙しくなったのだ。  それでも別れ方が別れ方だったので、圭一には怒っていないという意思を伝えるために、忙しいから会いにいけないだけなのだとメッセージを送っておいた。  圭一からは「分かった。頑張ってね」と返信が来て、彼とのやり取りはそれきり止まっていた。    昨日は圭一の誕生日だった。課題の締め切りが迫っていた大地は、その日を覚えていながら圭一に連絡をするのを怠っていた。今日ようやく全ての問題が片付いたので、一日遅れではあるがプレゼントを買いに行った足で圭一の部屋に訪れるつもりだった。  レポートを提出して、時刻が昼時を回っていることに気がつく。学食で適当に食事を済ませようと思いそちらの方へ向かっていると、聞き覚えのある声に後ろから呼び止められた。  振り返ると山本がニコニコと人当たりの良い笑顔で立っている。どうせ会うなら圭一さんが良かったな、なんて失礼なことを思いながら大地は山本に「お久しぶりです」と頭を下げた。 「久しぶり〜。伊藤くん元気だった?」 「はぁ、まぁそれなりに」 「そかそか、良かった。ちなみに圭一は体調最悪だよ」 「え」  サラリと聞き捨てならないことを言われた。病気にでもなったのだろうか。圭一の頼りない身体つきを思い浮かべてきっとそうだと決めつける。 「圭一さん今家ですか?俺ちょっと行ってきます」 「あー、うん。でもちょっと行く前に話を聞いて欲しいっていうか……」  何の用だろうか。大地は今すぐ走って圭一の元へ行きたい気持ちをぐっと堪えて山本の言葉の続きを待つ。 「伊藤くんさ、中途半端に餌やって居なくなるんだったら最初から三上に近寄らないでほしいんだよね」  山本は本当に申し訳なさそうにそう言った。一瞬何を言われたのか理解できなかった大地に、彼は言葉を続ける。 「アイツが臆病なのも俺がアイツのこと心配してんのも全部こっちの都合だから、伊藤くんにこういうこと言うのがお門違いなのは分かってる。でもやっぱり俺は三上にもう二度と大事なもん失って欲しくないから、三上を傷つけるようなことするくらいなら、これ以上三上に関わらないで欲しい」  山本は「ごめんな」と本心からの謝罪だと分かる誠実さを滲ませて謝った。彼の切実な懇請は、これまでとは違って素直に脳に響いてくる。  冷や水を浴びせられた気分だった。勝手に圭一に惚れて、一方的に山本に嫉妬して、今までの自分の軽率な行動や思考が思い起こされて喉の奥がひりつく。今、圭一を傷つけているのは間違いなくお前だと、山本はそう言っているのだ。  それでも大地には山本の願いを聞き入れることは出来なかった。圭一から離れるなんて無理だ。この気持ちを消すなんて、無理だ。  だって、もうこんなにも圭一に会いたい。  震える唇を精一杯叱咤して言葉を紡ぐ。 「俺……俺は、圭一さんが好きで」 「うん」 「絶対、一生好きだし」 「うん」 「圭一さんのこと幸せにしたいって世界で一番思ってるし」 「うん」 「や、山本さんより思ってるし」 「ははっ。うん」 「だから、会いに行きます」  大地がそう言うと、山本は「じゃあしょうがねぇなぁ」と嬉しそうに笑った。  二週間ぶりに圭一の家のチャイムを鳴らす。  はい、とインターホンから響く大好きな人の声に、大地は胸がきゅうっと締め付けられた。 「圭一さん?大地です」  大地が名前を名乗ると、スピーカーの奥で息を呑む音がする。しばらくしてプツリとインターホンが切れた。  もしかしてもう会ってくれないのだろうか。どうすべきか迷って立ち尽くしていると、キィ……と目の前の扉がゆっくりと音を立てて開いた。  隙間から顔を出してた圭一が、大地の顔を見るなりぎゅっと眉間に皺を寄せて口を開く。 「きのう、僕、誕生日だった」 「うん」 「大地くん、お祝いしてくれるって言ったのに」 「うん。ごめんね」  約束を破ってしまったことを認めて謝ると、圭一は恨めしそうに言葉を続けた。 「だから教えたくなかったのに……。もしかしたらお祝いしてもらえるかもなんて期待して、そうならない時にガッカリするのが嫌なんだよ!」  泣きそうな顔で訴える圭一に動揺する。まさか一方的に押し付けた約束をそんなに楽しみにしていると思っていなかった大地は慌てて謝る。 「ごめん、ごめんね。プレゼントは忙しくてまだ買えてないけど、本当にお祝いするつもりだったんだよ」  嘘偽りのない言葉で丁寧に謝罪すると、圭一はバツが悪そうに顔を背けて黙った。 「中、入っても良い?」  尋ねると、部屋の主は数秒思案した後、するりと身体をずらして隙間を作る。大地は「ありがとう」と言って入り込み、後ろ手にドアを閉めた。 「大地くんは」 「うん」 「まだ、僕のこと好き?」  その質問も久々だなと思う。これまで何度尋ねられても大地の気持ちは揺るがなかった。 「好きだよ」  今だってそうだ。圭一はいつだって、大地にとって一番で唯一で誰よりも何よりも大切な人だった。  大地の変わらぬ答えに圭一は一瞬怯んで泣きそうな顔をする。 「君は……君は僕にはもったいないよ」 「そんなことないよ。俺は圭一さん以外は要らないしどうでもいい」 「僕は君のこと幸せにできないし」 「圭一さんに幸せにしてもらおうだなんて思ってないよ」  この人は大地を幸せにしようと思っていたのかと思わず顔が綻ぶ。「笑わないでよ!」と圭一が心外そうに声を上げた。  今日はやけに短気だ。こんな圭一を見るのは初めてで、不謹慎ながら嬉しくなる。喜んでいることがバレたらまた圭一の神経を逆撫でしてしまうので、大地はなるだけ表情に出さないよう口を強く結んだ。 「僕なんか欲しがったって仕方ないのに……」 「圭一さんは、圭一さんのこと要らないと思うの?」 「そりゃ、僕なんか勉強以外取り柄ないし」  なんて勿体無い。この人は大地が喉から手が出るほど欲しているものを要らないなんて言うのだ。それなら、と大地はとても良いことを思いついたとでも言うように提案をする。 「要らないならちょうだい」  大地の突然のお願いに圭一は「え?」と聞き返す。 「ちょうだい。圭一さんのこと。圭一さんが要らないなら俺が大事にする」  突然想定もしていなかったことを言われて呆気に取られた様子の圭一は、理解が追いつくとあからさまに取り乱した。 「や、やだ。あげない」 「なんで?要らないんでしょ?」 「だって、大地くんもきっとすぐ要らなくなる」 「ならないよ」 「誕生日だって、忘れてたし」 「いやそれは……」  忘れてたわけじゃないし……と弁解しようとして黙る。どっちにしろそのことが圭一を傷つけたというのは変わらない事実なのだ。 「圭一さん、俺のこと信用出来ない?」  意地の悪い質問だと自覚しつつ尋ねる。案の定圭一はそうじゃないと慌てて否定した。否定しておいて、どう説明すればいいのか自分でも分からないとでも言うように困惑した表情のまま黙ってしまう。  大地はどうしても圭一の内側にあるものを知りたくて、圭一が話し始めるのをじっと待っていた。そうしてお互い黙っていると、圭一が唐突にぽつりと「怖いんだ」と声を発した。 「怖いんだよ。ずっとずっと僕のこと好きでいてくれるわけでもないのに。永遠なんかないのに。大地くんが来てくれないと寂しくてどうしようもなくなっちゃう。ぜんぶあげちゃって、やっぱり要らないって戻されたらどうしたらいいの?大地くんがいないと生きていけなくなったどうしてくれるの⁈」  大地は驚きのあまり言葉を失った。少し溢そうとして誤って全部ぶちまけてしまった様子の圭一は、叱られる前の子供みたいにぎゅっと目をつぶって震えている。  これが、これが愛の告白でなくてなんだと言うのだ。都合のいい夢でも見ているのではと自身を疑う。  興奮と混乱でぐちゃぐちゃになりながらも、大地は急いて圭一に逃げられてしまわないように最新の注意を払いながら縋るように訴えた。 「なって。なってよ。俺なしじゃ生きていけなくなって。絶対に責任取るから」 「ぜ、絶対なんてない」 「ある。絶対にずっと好きだよ」  言いながら圭一の胸に手を置く。圭一はびくりと身体を硬らせて言い返そうとしていた言葉を詰まらせた。 「圭一さん」 「な、なに」 「心臓、すごいバクバク鳴ってる」 「な、鳴ってないし」 「顔まっ赤だよ」 「赤くないし!」  目の前の事象が現実だと信じてしまって良いのだろうかという疑いの気持ちから、じわじわと全身が喜びで染まる。心臓が波打ちすぎて涙腺にまで刺激を与えてきた。泣くわけにはいかないとぐっと唾を飲み込んでもう一度愛しい人の名を呼ぶ。 「圭一さん」 「……」 「圭一さん」 「もう!なんだよ!」 「好きだよ」  もう何度言ったか分からない言葉をもう一度伝える。圭一ははくはくと口を開閉させ、まっ赤な顔でぎゅっと眉間に皺を寄せて大地から視線を逸らした。 「好きだよ圭一さん。圭一さんは、俺のこと好き?」  大地の方から圭一に告白の返事を強請ったのは初めてのことだった。 「好きじゃなくても良いよ。俺は圭一さんの答えがどんなでも、ずっと圭一さんの側にいるから。だけど」  優しく頬に手を添えて圭一の顔を自分の方へ向かせる。今だけは真剣に、大地のことだけ見て話を聞いて欲しかった。 「圭一さんが俺のこと好きになってくれたらすごく、すごく嬉しい」  ついに圭一は泣き出してしまった。ずるいずるいと言いながらポロポロ涙を流す圭一に「ごめんね」と謝りながらも逃すつもりはないと彼を抱く腕に力を込める。 「圭一さん」 「だ、大地くん、こわい」 「怖い?俺のこと怖い?」  怖がらせたいわけじゃない。不安になって尋ねるとそうじゃないと言って首を振られた。 「ぼく、こんな、こんな風になったことないし。知らない、こんなの、怖いよ」 「そっか、初めてのことは怖いよね」  ならばと大地は精一杯優しい声を出す。 「圭一さんが怖いと思うことがあったら、その度に必ず駆けつけるし俺が側にいるよ」  圭一が何をそんなに恐れているのかようやく分かってきた気がする。失うことが怖いのだ。何かに執着して急にそれを取り上げられるくらいなら最初から欲しくないと言っているのだ。  何故彼がそんな風に考えるようになったのか大地には分からない。それでも、そんなふうに怯える圭一を一番近くで支えるのは自分が良いと思う。 「俺と恋をするのが怖いなら、ずっと手を握っててあげる。圭一さんが離してって言っても離してやれないけど」  家でも外でも親の前でもところ構わず手を握るよ、と冗談めかしく笑って伝える。圭一は調子を合わせて笑うことなく、真剣な顔で大地の顔をじっと見つめていた。 「ぜ、絶対?」 「ん?」 「絶対、いなくならない?」 「ならない」 「僕のこと、ずっと好き?」 「好きだよ」  そっか……そっかぁと圭一は何度も呟いてから顔を上げて大地を見た。 「僕も、多分、大地くんのことが好き」  鼻の奥がツンとした。一生彼の口から聞けることなんてないと思っていた言葉だ。潤んだ目で真っ直ぐこちらを見上げる圭一は妄想の中でも見たことのない顔をしていて、これが夢ではないことを示していた。 「多分、なんだ?」 「こ、恋とかしたことないし、いっぱい考えたけど……これが恋なのかそうじゃないのか分かんないよ」 「そっか、じゃあもし恋だったら初恋だ」  力一杯圭一を抱きしめる。おずおずと背中にまわされる手が愛おしくて堪らない気持ちになる。恋だったら良い。圭一のその気持ちが恋ならいい。  大地は今後長い人生でどれだけ衝撃的なことがあっても、今この瞬間を越えることはないだろうと思った。 「大地くんはさ、僕相手に勃ったりするの?」 「……なんなのその最低な質問」  圭一はたまに想像もつかないようなことをいって大地を驚かせたり呆れさせたりする。  彼は大地と付き合い始めてから、頻繁によく分からない質問を投げかけてくるようになった。この間は「僕の方が背が低いのって嬉しい?」、その前は「大地くんの中指って何センチくらい?」だったか。  今度は一体なんだろうか。  こういうとき変に誤魔化すとややこしくなる。大地は圭一の質問の意図が分からないときは、とりあえず正直に答えるようにしていた。 「勃つよ。当たり前でしょ」 「そ、そっかぁ。勃つのかぁ……」  自分から聞いておいて照れ臭そうにする圭一をどうしてやろうかと恨めしい気持ちで見つめる。どうするもこうするも、大地にはそんな勇気も度胸もないのだ。  圭一に嫌われるのが怖い。そんなことになったらショク死してしまう。手に入れてしまったせいで失うことへの恐怖を知ってしまった。今なら何故圭一が大地の想いを受け入れることを恐れていたのか、なんとなく分かる気がする。だからといって圭一を自分の恋人にしないという選択肢は無かったのだが。 「大地くんが僕で勃つところ見たいな」 「は?」 「だ、だって、それって僕に興奮してるってことでしょ?好きって身体で言ってもらってるみたいで嬉しい。だから見たい」  だめ?と首を傾げてお願いしてくる。理由を説明されても意味がわからない。 「圭一さん」 「ん?」 「本当に襲うよ」  いつものように、「そう言うことを言わないの」と優しく嗜める事などできなかった。だって今圭一と大地は恋人同士なのだ。恋人と二人きりの部屋、自分に興奮する様を見せて欲しいなんて言われたらどうしたって誘われていると受け取ってしまう。  自分の目に彼への欲がありありと滲んでいるのを自覚しながらも、抑えることができない。圭一が悪いのだ。大地がどれだけ自分のことを好きなのかまるで理解していない。  めちゃくちゃにしてしまいたい程好きだという感情を圭一はきっと知らない。  大地の言葉にぼっと顔を真っ赤に染め上げた圭一は視線を彼方此方に逸らして狼狽し、すこし思案すると「い、いいよ」と呟いた。 「大地くんに、お、襲われてみたい」  絶っっっっ対に分かってない。    圭一の手を引いてそっとベッドに座らせる。彼は黙って大地の次の行動を待っていた。  興奮と緊張で震える手をなんとか叱咤して彼の頬に手を添えると、圭一は期待をするような目でこちらを見上げてくる。  そっとメガネを外して、その瞳に誘われるように口を寄せた。  拒まれないのを確認しながら、柔らかい唇を無我夢中で味わう。はじめて口付るそれは、想像していたよりもずっと柔らかくて冷たくて、ちょっとだけカサついていた。  首筋に指を這わせて軽く撫でると驚いたのか圭一は小さく悲鳴をあげて口を開けたので、これ幸いとさらに奥深く彼の口内を犯す。震える指で大地の胸元を掴みながら、なんとか呼吸をしようと酸素を求めて口を開く彼の邪魔をするように何度も深く口付けた。  だめだ落ち着かないと、冷静に冷静にと脳内で言い聞かせるが、恋人の荒い息遣いと合間に漏れる甘い声に理性が焼き切れる。  なんとか彼の口内から舌を抜き、呼吸をさせてやる。それでも一瞬でも離れるのが惜しくて圭一のそれに唇を触れ合わせていると、彼の方からおずおずと舌を出してきた。  大地を受け入れようとしてくれている。求めてくれている。これ以上ないくらいの歓喜で胸が震えた。  圭一の舌を迎え入れながら、股の間に足を入れ細い腰に腕を回して、逃げられないようにベッドと自身の身体で閉じ込める。 「圭一さん、服、脱がして良い?」 「うん」  襲われているはずの圭一よりよっぽど大地の方が怖がっていた。圭一の肌の暖かさで自分の指先が冷え切っていることを知る。  指が震えて上手にボタンを外すことができない。もたもたと全ての作業に時間をかける大地を圭一は何も言わずじっと待った。  シャツの下から覗いた肌にごくりと唾が鳴る。触っても良いか確認すると、いちいち聞かないでと顔を顰められた。  慣れない大地は何をするにもつい許可を取ろうとしてしまうが、圭一にとってはわざわざ言わされるのは羞恥プレイも同然なようだ。  首筋から肩、胸元へ順に手のひらを這わせると、圭一はビクッと、身体を震わせる。大地の指の先が圭一の胸の小さな突起に触れた時、圭一は「ひゃあっ」と声を上げた。 「ここ気持ちいい?」 「わ、わかんない。触られたことないから、わかんないっ」  圭一の反応は感じているようにも、ただ擽ったくてぐずっているようにも見える。大地は自分の触れたところが圭一に刺激を与えているという事実が嬉しかった。  もっと触りたい。もっと見せて欲しい。  圭一の胸に顔を寄せ、大地は赤く色づく突起を口に含んだ。 「っ⁈やっ、やだ、大地くっ」  舌を這わせて圭一の乳首を舐る。ちゅうっと吸うと腕の中の身体がびくりと動いた。  何度も執拗に舐められ敏感になったそこは、ぷっくりと主張してみずみずしい果実のように艶やかだ。大地は熟れたそこに指を這わせ、優しく撫でたり摘んだりする。そして待ち侘びるように震える反対側の突起も己の舌で転がした。 「んンッ……はッ、あん、や……あっ」  聞いたことのないようないやらしい声が頭上から聞こえる。この声が可愛くて、もっと聞きたくて、大地は圭一に「しつこい!」と殴られるまで乳首を舐め続けた。  ズボンを脱がす許可を得ようとして、先程聞くなと怒られたことを思い出す。黙ってベルトを外しにかかると、慌てた圭一が大地の手を掴んで止めた。 「ま、待って」 「いちいち聞くなって言ったの圭一さんでしょ」  制止してきた圭一の両手を左手で捉えて上にあげる。そうすれば、大地が空いた右手で器用にベルトの紐を解くのを圭一真っ赤になって見るしかない。  止められても言うことなんか聞けなかった。圭一の全てを晒して欲しい。その身体を余すことなく触りたい。  大地は欲のままに圭一のズボンを下着と共にずり下ろした。 「やだ……見ないで」 「なんで?自分だって見たがったくせに」 「まだ見せてもらってない!」  圭一の性器は緩く立ち上がってふるふると震えていた。  本当にこれは自分についているのと同じものなのだろうか。あまりにも可愛くて愛おしい。大地は冷めない興奮に煽られて圭一のものに顔を近づけると、ぱくりと口に含んだ。 「やっ⁉︎……あ、やめて!何で、やだっ」  驚いた圭一が足でげしげし蹴飛ばしてくる。流石に痛い。大地は圭一の両手を解放すると、自身の手をそのまま圭一の両膝の裏に添えてぐっと押した。  圭一の身体が下半身を上に向ける形で丸まる。足の抵抗が無くなったのを良いことに、大地はまた圭一のペニスを口に含んだ。  圭一から「ひゃっ」と高い声が上がり、大地は気をよくする。やだやだと伸ばした手は、体制のせいか大地に届かずに空を切り、部屋は圭一の喘ぎ声と卑猥な水音が響き渡る。  その音を口内の感触と共に楽しんでいると、突然頭上から嗚咽が聞こえてきた。 「(泣かせた⁉︎)」 大地は顔を上げると慌てて押さえつけていた手を離し、圭一を抱き起す。あまりの羞恥と未知の快感に泣き出してしまった圭一が、涙を滲ませた瞳で大地を睨みつけた。 「いまの、やだ!止めてって言った!」 「ごめん、ごめんなさい」  肩を震わせて抗議を唱える圭一に大地は土下座をして謝る。調子に乗りすぎた。完全に拗ねてしまった圭一は、身体ごと大地から逸らして大地の謝罪を拒んでいる。  なんとか圭一に機嫌を直してもらわないと、こんなチャンスもう二度と無いかもしれない。  それに湧き出た欲と熱をこのまま放置させるなんて罰にしたってあまりにもひどい。そんなのは拷問だ。 「あの、もう一回触って良いですか……?」  おずおずと下手に出て尋ねる。圭一はチラリと横目で大地を見ると、あまりにも情けなく縋る姿が可哀想になったのかきつく結んできた口を開いた。 「……やだって言ったら本当にやだからね、やめてね」 「やめる!絶対!」  首を縦にぶんぶんと振って頷くと、圭一は「約束だからね」と言って渋々大地に向き直った。  今度こそ圭一を怒らせたり怖がらせたりしてはいけない。  夏の熱気と緊張で全身が熱を発して汗が頬を伝う。  暑くて敵わないとシャツを脱ぎ捨てると、圭一は大地の身体をまじまじと見て感心した。 「大きくなったねぇ」 「親戚か!」  あまりに場にそぐわない感想に思わず笑って突っ込む。悔しいが、おかげで大地の緊張は少しほぐれた。  もう一度圭一の胸に手を添える。汗で湿った肌が手に吸い付いてきて、これからの行為を強請っているみたいだと思った。  ほぅ……と息を吐いて肌の感触を味わっていると、それまで大人しくしていた圭一が手を伸ばして大地の下半身に触れてきた。 「⁉︎」 「ほんとだ、勃ってる……」  嬉しそうに大地の昂りを撫でて呟く。大地は目の前の衝撃的な事象に狼狽し、裏返った声で圭一の手を制した。 「待ってごめん、ほんとに、今触らないで」 「どうして?」 「い、今圭一さんに触られたらイっちゃうから……」  なんて情けない。だが本当に余裕がないのだ。触られただけで達してしまうなんてみっともない姿を見せるわけにはいかない。  しかし圭一は、恥を忍んで白状する大地の心情などお構いなしとでも言うように再度その手で触れてきた。 「な、なんで、」 「大地くんがイくとこ見てみたい」  とんでもないことを言い出す圭一に絶句する。  大地が固まっているうちに、圭一はズボンのチャックを下ろして下着から性器を取り出し愛撫した。  緩く上下する圭一の愛撫はお世辞にも上手とはいえない。それでもぎこちなく動くその手が圭一のものだというだけで大地は興奮で頭がおかしくなりそうだった。  そして、数十秒も保たず達してしまった。圭一の顔目掛けて。 「ごっっっごめ、ごめん‼︎」  最悪だ。かっこわるい。こんなに早く。しかも顔に出してしまうなんて。半裸でパニックになる大地と、全裸で目をまん丸にしてフリーズする圭一は側から見たら実に滑稽だろう。  慌てて顔から精液を拭う大地の手を黙って見ていた圭一は、突然その手を掴んだかと思うと自身の顔に近づけ、舐めた。 「っ⁉︎けっ⁉︎」 「にがい……」  べっと舌を出して恨めしそうに大地を睨む。大地はもう脳内がショートして何が何だか分からなくなっていた。 「あ、あた……あたりまえでしょ……」 「当たり前なの?知らない。はじめて舐めた」  なんて好奇心だ。なんでも口に入れる赤ん坊か。  子供みたいなことを言い出す圭一に「そっか……」と返事をして顔についた劣情の名残を丁寧に拭き取る。 「でも大地くんのだったら全部飲めるかも」  ティッシュで手についた己の精液を拭っていた大地の背中に爆弾が落とされた。なんて、なんてことを言い出すのだこの人は。  腰がずん、と重くなる。ずっと恋焦がれていた相手が丸裸でベッドに座っている現実に、改めてくらくらと眩暈がした。  先程身体を組み敷いた際に目に入った圭一のお尻の小さな蕾を思い出す。そこに触れても良いのだろうか。  大地はそろりと圭一の後宮に誘われるように手を伸ばそうとして、はっと大事なことに気がつく。 「ごめん圭一さん……。ローションとか用意してない……なんか代わりになりそうなものあるかな」 「ハンドクリームとか……?」 「いいね、それ借りたい」  先程からバクバクと鳴り響く心臓を押さえつけながら平静な振りをして会話を続ける。そうして喋っていないと、正気を保っていられそうになかった。  これから触れるのだ。誰も触ったことのない、それでも想像の中では何度も何度も触れたところを。  大地の心境などまるで察していない圭一は、はい大地くん、とこれから自分の身体を愛撫するのに使用されるクリームを手渡してくる。  キャップを開けて中身を掌に絞り出した。今日一日で全部使い切ってしまいそうだなと熱に浮かされる頭で考える。指を擦り合わせて馴染ませると、その手を圭一のおしりに向かって伸ばした。 「ひッ……⁉︎」  ぬるりとクリーム越しに圭一の後孔の感触がする。想像していたよりもずっと小さなそれに、本当に自分のものが入るのかと不安になった。  他人に触られたことのないだろうそこを執拗に弄られて、圭一は身をすくませて何度も小さく悲鳴をあげる。その姿に大地は煽られて、左手を彼の後孔に添えたまま首元へ噛み付いた。 「ひゃッ、あっ、い……いたい!」 「ッ……ごめん!」  くらくらと熱に浮かされた欲のままに牙を剥いてしまった。また怖がらせてしまったかもしれない。即座に身を引くと、圭一は蕩けて桜色に色づいた頬を緩ませクスリと笑った。 「も、大地くん……ほんとに僕のこと食べるつもり?」  この人は大地のことをどうする気なのだろうか。圭一の甘い声が耳朶を食み、大地が必死で保っている理性をガタガタと揺らしにかかる。分かりやすく煽られる自分に心底呆れた。  好きすぎてどうしたらいいのか分からない。大事に触りたいとも思うし、無理矢理組み敷いて嫌がる圭一をめちゃくちゃに抱き潰したい気もする。  固まって動けなくなってしまった大地に圭一は身を寄せると「噛んで良いよ」と囁いた。 「痛くしないで、優しくだったら噛んでいいよ」  圭一の声を捉えた耳管から熱が上がり、脳みそが溶けてしまうのではないかと思った。  はっ……っと息を吐いて熱を逃す。冷めない火照りを圭一に分け合うように、そっと口付けて優しく吸い上げた。何度も舐めて、吸って、合間に圭一が痛がらないよう加減しながら甘噛みをして。そうして圭一の身体を余すことなく味わう。  その度に律儀に腰を跳ね上げて反応する圭一に、大地は目眩がするほど溺れた。  やがて大地の左手は尻の谷間を撫でるだけでは物足りなくなっていた。  圭一の内側を知りたい。  クリームでベタベタになった指を立てて、最初よりずっと柔らかくなった小さな穴に指を入れようと試みる。中指の爪の先ほど入れたところでその後の衝撃を予測したのか、圭一の身体がびくりと震えた。 「圭一さんごめん、初めては多分しんどいけど、なるだけ痛くならないよう気をつけるから」 「あ、大丈夫。初めてじゃないよ」 「……は?」  今、圭一は何と言った。初めてじゃない?初めてじゃないとはどう言う意味だ。まさか、まさかまさか大地以外の人間に彼の中を、触らせたというのか。  恐ろしい想像に血管がブチギレそうになる。先程まで全身をビリビリと焼いていた甘い感情が一気に消え失せ、代わりに怒りと絶望がじわじわと浸食してきた。 「初めてじゃないって、どういうこと?」  圭一を萎縮させないよう精一杯優しい声を出したつもりだったが、音になって聞こえてきたのはそれはそれは低い獣のような唸り声だった。 「大地くん?」 「ねぇ、どういうこと?誰かに触らせたの?」  そうだと言われたらきっと、理性なんか吹き飛んで嫌だ止めろと泣き喚く圭一をぐちゃぐちゃに抱き潰してしまう。圭一の返答を聞くのが恐ろしくて仕方ないのに、尋ねずにはいられなかった。 「ちがうよ?自分で指入れてみたんだ」 「え」 「大地くん、ずっと前に君が僕のこと襲ったらどうするのって聞いたでしょ?僕どうするんだろうって思って……痛かったら嫌だから、どんな感じか自分の指で確かめてみたんだ」 「じ、自分で、弄ったの……?」 「うん。でも何度やっても異物感しかなくて気持ちよくなかった」  身体中から力が抜ける。なんだ。なんだそうか。  改めて自分がどれだけ圭一のことが好きなのかを思い知らされる。他の奴に触らせるなんて絶対に許せない。彼は自分だけのものだ。  大地は冷静になった頭で改めて圭一の言葉を思い出す。自分で弄ったのだと。  なにそれめちゃくちゃ見たい。  不器用に震えながら声を噛み殺して、誰も触ったことのない場所に自分で指を這わせる圭一を想像してごくりと生唾を飲み込んだ。 「圭一さん」 「なあに?」 「自分でお尻の穴を弄ってるところが見たいです」 「……やだ。なんかよく分かんないけど絶対やだ」  大地のスケベ心がよほど声色や表情に滲んでいたのか、圭一は気味悪そうに後ろへ身を引く。チッだめかと心の中で舌打ちして、それでもいつか必ず見せてもらうのだと心の中で強かに決意した。  ゆっくりと時間かけて、一本、二本と順に指を挿れた。圭一の内側はひどく熱く、まるでねだるように大地の指に絡みつく。ここへ己の劣情を押し込んだなら、どれだけ気持ちいいだろう。  想像しただけで脳みそが沸騰しそうになる。 「ひゃっ」  不意に圭一が声をあげる。それまでより一際高く甘さを含んだその声に圭一自身驚いて口元を押さえていた。  ここか。  大地は見逃すものかと再度同じ場所へ指を引っ掛け、その腹で何度もそこを擦った。 「あぅッ、や ぁ ッ……な、なんで……自分で、触った時はっ……あっ、い、違和感しか……なかった、のにっ」  はじめての快感にまた怖くなったのかそれとも生理的なものか、圭一の瞳に涙が浮かぶ。大地が空いた手で圭一と手のひらを合わせると、ぎゅっと縋るように握られた。  可愛い、愛しい。圭一の喘ぎ声が甘い蜜のように脳に流れ込んで大地の思考を焼き切る。内壁を指で擦りながら既に理性を何処かへ落としてきた大地は、溺れそうな意識の中何度も圭一の身体に噛み付いた。  中を散々弄んだ指を抜くと柔らかい部分がふやけており、どれだけ長い時間圭一の感触を味わっていたのかを示す。  もう、挿れてもいいだろうか。  既に大地の性器は限界を迎え早く圭一の中に入りたいと脈打っていた。  指を抜かれたことで今後のことを察した様子の圭一がぐずぐずになった身体を叱咤してゆるゆると起き上がる。大地はその背中に手を置いて圭一を支えてやった。 「いいよ」  圭一はそう呟いて大地の唇へキスをした。行為が始まって初めて施された圭一からのキスに喜びで胸が打ち震える。  この人はその身一つで大地のことを死ぬほど喜ばせたり死ぬほど落ち込ませたりするのだ。一生敵わないな……と思う傍ら、一生離れる気のない自分に苦笑した。  受け入れたはいいもののやはり怖いのか、圭一は大地の首元に顔を埋めてぎゅうぎゅうと抱きついてきた。首元に大地の熱い息がかかる。耳にダイレクトに届く彼の掠れた息のせいで挿れてもいないのに果てそうになる。  初めては後ろからが楽だとどこかで聞いた。  しがみつかれるのは嬉しいけれど、圭一にはなるべく痛い思いをさせたくないので後ろを向いてもらいたい。だからといって大地には自分からこの可愛い生き物を引き剥がすことなんて到底出来なかった。 「圭一さん、うしろ向ける……?」  途方に暮れて圭一の腕にそっと手を置いて尋ねる。しかし圭一は離れるどころかイヤイヤと首を振って更に強く抱きしめてきた。 「このまま挿れるよ……?いい?」 「いいから……だ、大丈夫だから早くっ」  圭一がそう言ったのは恐怖も痛みもなるべく早く終わらせて欲しいという意図だというのは分かっていたが、まるで強請られているようだと思ってひどく興奮した。  ひくつく圭一の秘部に大地の性器の先端をあてがう。ぷちゅっと触れ合った部分が水音を立てる。息を止めて集中していないと、すぐにでも達してしまいそうだった。  先っぽからゆっくりと熱に包まれていく。味わったことのない激しい快感に意識が飛んでしまいそうになる。圭一のことをもっと気遣いたいのに、自分の正気を保つので精一杯だった。  ゆっくり、ゆっくり時間をかけて推し進める。喉を引き攣らせて圧迫感に耐える圭一が可哀想で、大地は途中何度も挿入を止めて彼の戦慄く唇にキスを落とした。 「ぜん、ぶ、入った……」  圭一の内側で自身の性器がどくどくと脈打ち、その度に彼の内壁を刺激する。妄想の中では何度も抱いたその身体は、想像していた何百倍も熱く、大地を締め付けた。 「入っ……た、ねぇ……ッ」  苦しいだろうに、そう言って大地に微笑みかける圭一に愛おしさで心臓が力一杯握られた感覚を味わう。  気がつくと、大地は泣いていた。  拭っても拭っても止めどなくこぼれ落ちる。落ち着こうと息を吸うと、それに促されるようにして嗚咽まで出てきた。 「ごめ、ごめん」  挿入したまま動くことが出来ずぐずぐずと泣き続ける大地に、圭一は咎めることなくそっと手を伸ばした。 「泣いてちゃあ、何もできないよ」  先程まで自分が泣いていたくせに、コロコロ笑いながら大地の涙を掬い取っていく。  彼の冷たい指がポンポンと頬に当たり、こぼれ落ちた涙を拭い取っていく。いくら拭っても止まることなく流れ続け、ついに彼の手はびしょびしょになってしまった。 「大丈夫だよ、大地くん。大丈夫だから」  自分の方が負担が大きいはずなのに、圭一は大地の背中を子供をあやすように優しく叩いた。  優しく背中を撫でる圭一の手の動きに合わせて呼吸をすると、ようやく涙腺と呼吸が落ち着く。 「ごめん、ありがと……。動くね……」  大地はようやく圭一の細腰に手を添えて下半身をゆるりと揺らした。 「……ッ、んぁッ、だ、だいちく……」  眉間に皺を寄せて痛みと快感に耐える圭一のこの姿は自分しか見たことのないのだと思うと、なんだかまた泣きそうになる。 「君は……はぁ、ッん、泣き虫……だなぁ」  そんな大地に気がついた様子の圭一が、圧迫感に息を詰まらせながらも微笑んだ。  普段は鈍いくせにこういう時だけ察するのかと思ったが、今二人の身体は混ぜ合わさってぐずぐずに溶け合っているのだ。自身の中に入り込む大地のことなんて、圭一には手に取るように分かるのかもしれない。  散々塗りたくったハンドクリームが滑って大地のペニスの出し入れを手助けする。ぐちゅ、ぬぷ、という卑猥な音と自身に絡みつく熱い内壁に理性がボロボロと崩れ落ちる。 「ごめん圭一さん、やだって言われてもやめらんないかも……」 「いい、やめなくてッ、いいから……」  大地の先走りでヌルつきを増した圭一のとろ膣は、最初よりもずっと行為を容易にさせた。  苦しそうだった圭一の表情が、次第に甘く蕩けてくる。 「けいいちさん、け、けいいちさッ……い……ッたくない?痛くない?」 「んぁッ……あ、ない、気持ちいッ、あぅ、ん、なにこれ……きもちッい、ん、ぁっ」  圭一の身体が仰け反る。開けっ放しになった口からは涎と喘ぎ声が止めどなく溢れていた。 「だいちくん、の、熱い」  彼の口から漏れる甘い声に指先まで痺れる。  毒だ。これは毒だ。 「だ、だいちく……大地くんっ、」  繰り返し縋るように名前を呼ばれて脳が焼き切れそうになる。 「ごめん、ごめん圭一さん。なまえ、呼ばないで。あっ……出ちゃう、からっ」  一度出したことなんてすっかり忘れたように、大地の陰茎は反り立っていた。  激しく前後に揺らす腰の動きに合わせて、圭一の口からあられもない声がこぼれ落ちる。あまりに強すぎる快楽に訳がわからなくなってしまったのか、圭一はひたすら大地の名を呼んだ。 「だいちくッ……んッ、だ、だいち……く、ぁッ」 「だッ……だから!呼ばないでってば!」  縋るように背中に強く腕を回されてこれ以上ないと思っていた気持ちが更に昂る。  ギリギリまで引き抜いてから、また最奥まで穿つ。このまま死んでしまうのではないかと思うほどの快感に、それでもいいかと沸騰した頭で思う。  もうどちらの汗か唾液か精液か分からなくなるほど混ぜ合わさって、ぐちゅぐちゅという卑猥な音が交じわった部分から響く。鼓膜を打つその音が一層二人の気持ちを昂らせた。 「圭一さんッ!あっ……けいいちさ……ッ」 「だいちくん、ッ……だ、だいちくんッ!」  お互いの名前を呼びながら欲望のまま目の前の身体を貪る。やがて絶頂を迎える頃、大地はいつかどうせ死んでしまうなら、やっぱりそれは今がいいなぁ……なんて下らないことを考えていた。  身体中に刻まれた歯形と内出血の後にザッと血の気が引く。 「ご、ごめん圭一さん」  顔を青くして謝ると、首を傾げた圭一は大地の視線を追って自分の体を見た後「わぁ……」と驚いた声を上げる。  そして大地の付けた痕を嬉しそうに指で撫でて、「すごい、愛されてる証みたいだ」と心底嬉しそうに笑った。 「僕ね」  二人で手を繋いで横になった。薄暗い部屋の中、掠れた声で圭一が呟く。 「僕、中学の時に両親が死んじゃっちゃったんだ」 「……」 「事故で急に。それでもう、大事な人が……いなくなるのが嫌で……最初から、ずっと一人でいればいいやって思った。……でも」  既に半分意識が夢の中にいるのか、圭一の話し声がゆっくり舌足らずになっていく。  一言も聞き漏らしてはいけないと、大地は相槌をすることも忘れて圭一を見つめた。 「でも、君に捕まっちゃったなぁ……」  それだけ言うと圭一はすぅ……と寝息をたてだした。  安らかな寝顔をそっと撫でながら大地は奥歯を噛み締める。  大切な人を同時に二人失って心を閉ざした少年の圭一。どうして自分はその時彼の側にいなかったのだろうか。たらればなんて無意味だと分かっているのに、もしも自分が山本のように彼に手を差し伸べられたらと悔しくてたまらない。  今度こそ圭一との約束は絶対に破らない。胸の中で軽く決意しながら繋いだ手に力を込めた。 「うわぁ〜なにその紙袋の数。嫌味〜」 「山本さん」  圭一と付き合いだして半年が経った。  今日はバレンタインデーだということで、大地も女の子からいくつかチョコレートを受け取っていた。圭一から貰えることはきっとないだろうこの日に、大地が浮かれる理由はひとつもない。 「圭一さんからの以外要らないし」 「……伊藤くんいつか後ろから刺されるよ?」  少しぐらい分けてよね〜と笑う山本に紙袋を二、三個差し出すと、頬を引き攣らせて「本当に刺されるぞ……」と脅された。  大地が誕生日に圭一から貰ったキーケースには、大地の部屋の鍵と圭一の部屋の鍵が入っていた。  一度インターホンを鳴らして来訪を知らせてから合鍵を鍵穴に差し込む。ドアを開けて玄関に足を踏み入れると、部屋の奥から「いらっしゃーい」と声が聞こえてきた。 「モテるんだねぇ」  突然投げかけられた言葉の意図が分からず圭一を見ると、背もたれに寄りかかって振り返った彼の目線は大地の手に握られた紙袋たちを捉えていた。 「要らないよこんなの」 「そういう言い方は良くないよ。せっかくくれたのに」  まただ。圭一は付き合ってからも、たまにこういう恋人とは思えないような発言をする。  彼に独占欲というものは無いのだろうか。あれば良いのに。期待した分落胆するだけだと自信を慰めてコートを脱ぐ大地に、圭一が「でもさぁ」といじけたような声を出した。 「そういうのさぁ、恋人には隠すものなんじゃないの?」 「え?」 「だ、だからぁ!他の子にもらったチョコとかさ、そんなの見てて気分いいものじゃないでしょ!!」  拗ねたように大地から目を逸らしながら憤慨する圭一にの姿に、甘い期待が胸に湧く。そんな、まさか、そんな都合のいいこと……。  期待するな、期待すると痛い目に遭うぞと冷静な自分が警告を鳴らしているがそれでも確かめずにはいられない。 「も、もしかして、嫉妬してる……とか?」  そんなわけ無いでしょと遇らわれたらすぐにでも冗談でしたと撤回できるよう心の準備をしながら聞く。しかし彼は頬を赤く染めて大地を睨んできた。 「……そりゃ、恋人がモテてたら、ヤだし……不安になるよ」  脳内にファンファーレが響く。  ああ神様、これは夢ですか。圭一が自分のことで他人に嫉妬する日が来るだなんて。  大地は感情の高ぶるままに彼をぎゅうぎゅうと抱きしめた。 「もう!やだ!邪魔!」 「ねぇねぇ圭一さんは俺にチョコくれないの?」  言った途端圭一の抵抗がぴたりと止まる。  しまった調子に乗りすぎた。話題を切り替えようかと思案していると、何か言いたそうな圭一がこちらを見上げて小さく呟いた。 「あ、あるけど」 「あるの⁉︎」 「けどそんなにあったら食べきれないでしょ。山本にでもあげるから気にしないで」 「は?」  やっぱりこの人は大地の気持ちを全然分かってない。圭一からのチョコさえあれば他なんて要らないのに、何故一番欲しているものを取り上げるのか。しかもそれを他の男にやってしまうなんて恐ろしいことまで言い出す。 「いくら山本さんでもだめ、それは俺にちょうだい」 「……大地くん太るよ?」 「じゃあこっちは圭一さんにあげる」  そう言って女の子にもらったチョコレートの袋を差し出すと、圭一は「さ、最低だ……」と後ろに下がった。  しょうがない。圭一が悪いのだ。大地の機嫌を損ねるようなことを言うから。  未だに些細な一言で大地の心を抉る圭一に、ついため息が出そうになる。それでも、こうやって圭一のことで一喜一憂する時間も、なんだかんだ大地は嫌いではなかった。  それに、これから長い時を一緒に過ごして、沢山話をして、圭一には大地のことをもっと深く知ってもらうのだ。そして、圭一のことも、もっと沢山教えてもらう。そう思うと胸が騒ついて自然と口角が上がった。  どれだけ圭一が物分かりが悪くても、伝える時間はいくらでもあるのだ。  だって二人は、この先どんな事があっても側で手を繋いでいると約束を交わしているのだから。
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