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プロローグ
霞をふんだんに散りばめたような、春らしいあたたかな陽射しの降り届く朝だった。抜ける晴天に雲が滲み、巻き上がる風は金色に輝いている。
無数の色が連なった住宅地はどこも端々から灯りを漏らし、忙しない音を響かせては出掛ける支度に追われていた。
それはこの古くも、新しくもない、丁寧に作られた築十年の木造一軒家でも変わりはない。微かに聞こえてくる声は木曜のまだ早い時間であるというのに、穏やかに優しく、どころか弾けるような溌溂さも含まれる。食欲をそそる出汁の甘やかな匂いは、ささやかな風にはためく洗濯物の奥から漂っていた。
二階の南側に設置されたバルコニーの隣に、リビングルームは作られている。たなびく衣服がフローリングに影を生み出し、続く先にはダイニングテーブルがずっしりと置かれていた。そこには綺麗に彩られた朝食が並び、男女合わせて四人がテーブルを囲っている。
木造家屋の住人である四人は年齢も、滲む雰囲気も、平日に纏う服装も様々で、まるで血の繋がりがあるようにも、親しい間柄にも見えなかった。だけれど、互いを交差していく言葉は和やかさと、少しばかりの忙しさが込められている。
「あれ、今日って萌が作ってくれたんだよね?」
ふんわりと澄み切った出汁を滲ませた黄色い卵焼きを箸で摘まんでから、深月はこてりと首を傾げて見せた。セピア色に染まった長い髪の毛は先だけが緩やかに巻かれ、頭を傾けた拍子に右へ左へと流れるように揺れていく。指先を飾る薄桃色と軽く添えられた桜の模様は季節にぴたりと合っていて、彼女をより一層華やかに飾っていた。
優しい力加減で巻かれただし巻き卵から滲み、溢れてくる出汁はお皿の上で水溜まりを作り、一緒に盛り付けられたほうれん草のお浸しを別の味へと変えていく。一口サイズに切り分けられただし巻き卵は箸に挟まれたまま、持ち上げられることもされずに大人しく食べられるのを待っていた。
「今日は海青が作ってたけど、どうしたの?」
深月の問いかけに応えたのは、彼女が視線を向ける先で頬を膨らませてもごりと唇を動かしていた萌ではなく、その隣に座っていた櫟だった。
カシミアで編まれた黒いタートルネックのセーターは体の線に沿うような作りであるはずなのに、どれだけ食べても太れないのだと言いきる櫟にはどうしても隙間が出来てしまう。男性としては節の目立たない、長い指先に包まれたご飯茶碗には、湯気の上ぼる白米がこんもりと盛られていた。
綺麗な箸遣いで一口分の白米を掬った櫟は、彼の目の前、深月の隣に座った海青に「ね?」と同意を求めて首を傾ける。それは丁度深月とは反対方向で、鏡合わせのように角度も向きもそっくりだった。
深月と、櫟と、萌と。三人の視線が向けられた海青は口に含んでいた味噌汁を飲み込んで、こくりと頭を上下に揺する。第一ボタンまでしっかりと閉じられたシャツには淡い深緑のネクタイが結ばれることもしないまま垂れ下がり、先は胸ポケットの中へとねじ込まれている。掛けられただけのネクタイは何の意味も果たされていないが、着替える際に櫟が選んでくれたネクタイはそれだけで海青の中に価値を作っていた。
「そうなんだ、てっきり萌だと思ってた」
「私もそのつもりだったんだけど、起きたら海青さんが作ってくれてたの。お任せしちゃった」
ようやく挟むだけだっただし巻き卵を口に運んで、じゅわりと溢れ出る出汁を舌に感じながら深月はそっと表情を綻ばせた。緩んだ口角と微かに染まった頬を見て、自分が作ったわけでもないのに萌は嬉しさに心を弾ませ、真似るように黄金色の卵を切り分ける。
萌の肩に触れる程度で揃えられた髪の毛は全体的に淡いパーマが当てられていて、茶色く染められた中にはまるで影を彩るように鮮やかな黄色が混ぜられている。メッシュカラーは出汁に滲んだ卵焼きとよく似通っていて、染めたすぐには深月から美味しそうな色だと指摘されていた。
どこにでも売られているような木の温もりを宿した四人掛けのダイニングテーブルには、健康的な和の朝食が並べられている。白米にキャベツと人参の味噌汁、出汁の滲んだ卵焼きにほうれん草のお浸し。それらに囲まれ、手焼きの器の上で存在を主張しているのは夕飯の残り物である豆腐ハンバーグだった。昨日はトマトベースに煮込まれていた柔らかな塊は、今日は手のひらよりもずっと小さく成形され、大葉と大根おろしが乗せられていた。
朝食時にだけ活躍するランチョンマットの端では、和食にはあまり似つかわしくないコーヒーが添えられている。違和感の残る濃い色味のそれは、四人にとっては馴染みきってしまい、和食であろうが中華粥であろうが、なくてはならないものへと変わっていた。
白米を口いっぱいに頬張り、噛むたびに溢れてくる出汁と卵の甘さを堪能し、大葉と大根おろしによってさっぱりと目の冴えるハンバーグを腹に落としていく。テレビの点けられていない空間に届くのは時たま前を通っていく車のエンジン音と、微かに響く近隣の生活音のみである。往復する四つの声は、たった四人のリビングダイニングにしか残されない。
都内の外れに建てられたこの一軒家には、萌と深月、海青と櫟の四人が暮らしている。血の繋がりは一人だってなければ、友人としての付き合いがあったわけでもない。何とも形容し難い四人での暮らしは、この春でようやく一年が経過した。互いの生活が手に馴染み、些細な違和感を忘れるまでに、丸一年が掛かっていた。
近所に引っ越しの挨拶をしたときに、恋人同士の同居であるのだと伝えていた。向かいの老夫婦には随分と仲良しなのね、と微笑まれ、ログハウス調の右隣に住む家族からは友人がすぐ近くにいる心強さを羨ましがられてしまった。
嘘なんて、ひとつも吐いてはいない。実際に恋人同士の同居で、順調に仲睦まじく毎日を過ごしていた。だけれどきっと、微笑み、羨ましいと溢した彼らは理解していない。
捻じ曲がった真実が伝わっていると理解して、四人は何も言わなかった。まるで彼らの想像が真実であるのだと肯定するかのように笑って、よろしくお願いしますと頭を下げる。
隣り合うのが異性ではなく同性だと、四人にとっての真実を何ひとつ漏らさないままで。
「もうインスタントのコーヒーには戻れないなぁ」
「それはそれは、光栄な言葉だね」
両手に包み込んだマグカップの中で揺れる香ばしい色に、深月は長い溜息を吐き出して淹れた本人へと視線を向ける。家事の中で唯一出来ることをしているだけではあるが、櫟の淹れるコーヒーは手放しに褒め称えてしまう魅力に溢れている。
築十年の古くも、新しくもない木造建ての一軒家には、確かに恋人同士が部屋を分け合い、生活を共にしていた。萌と深月はまだ付き合って一年半にも満たない若輩者ではあったが、海青と櫟は隣り合ってもう六年が過ぎ去っていた。
真実を知るものは、四人以外には誰ひとりとして存在しない。彼らは分け合った空間で、人知れず生活を共にしている。萌や海青の作った朝食を一緒に食べ、出掛ける背中を見送り、ただいまと突き抜ける声におかえり、と温かな言葉を返す。
四人だけが知る毎日の真実は穏やかで、順調である。誰にも邪魔されないこの空間だけでは、四人の真実が息を吐き出していた。
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