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「さぁ、こちらをむきなさい。辛いことを思い出してはいけない。思い出すなら幸せなことにしておきなさい」
男は優しくアリシャに言うとスツールから立ち上がって火にかけた三脚の大鍋から何かを掬い上げた。夜の闇に浮かぶ炎はベッドに横たわるアリシャの元まではほとんど届かない。特に男の体で遮られている今は。
「疲れておる時は甘い物を食べるといい」
アリシャはスルスルと頬を伝う涙を指で拭った。その指が揺れていることで自分が小刻みに震えていることを知る。
「助けてくださったのでしょうか。私……あまりおぼえてなくて。ああ! スリは、私の馬はどこにいるのでしょうか?」
あの日、たまたま隣の国までお使いに行っていたアリシャは、馬のスリに乗っていた。
普段はほとんど乗らないが、距離があることと冬の間に作った大量の衣服を売りに行くのにスリを連れ出す許可を父から得ていた。隣国までは徒歩でも半日ちょっとで行けるのだが、最近物騒だし若い娘が一人で歩くには不安だからと大事なスリの綱をアリシャに渡してくれたのが、父との最後の会話になった。
煙を嫌がるスリを連れて、慌てて火の上がる村に駆けていった。そんなアリシャを見ている略奪者がいるとも知らずに。
スリが先に危険を感じて嘶き、反射的にスリに飛び乗って逃げ出したのだ。あとは振り返ることもできずにただひたすらにスリを走らせていた。
若い女が捕まると、死ぬより酷いことになるというのを幾度となく聞かされていたからの行動だったが、生きていても辛いなどとはあの時は考えなかった。
「馬もしっかり世話しておるから安心するといい。相当、腹を空かせていたらしい、後でドクに礼を言いなさい。世話をしてくれている男だ」
男は木の椀を両手で包むように運んでくると、それをアリシャに手渡した。アリシャの指が震えているのを見て、辛抱強くアリシャがしっかりと椀を受け取るのを待ってくれていた。
「さぁミルク粥だ。蜂蜜もえん麦もドクがお前さんに食べさせて欲しいと持ってきた。馬が腹ペコなら飼い主も腹が減っているだろうと」
優しい香りの粥に目を凝らすと干し葡萄まで浮いていた。立ち上る湯気はミルクの匂いがした。
「少し塩漬けの肉を切るからそれも食べなさい。人は塩を摂らねばおかしくなる」
男は身を翻して炉に戻ると腰に下げてあった食事用のナイフを取り出して肉を薄く剥ぎ取った。それを網に乗せると背を向けたまま話かけてきた。
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