1人が本棚に入れています
本棚に追加
「何だッ⁉︎ この辺りじゃあ、とんと見ねえ顔だな。いきなり天井を突き破ってきやがって。一体どうなってだッ⁉︎」
(ずいぶん品のない声でやんすね。これは幸水師匠か。いや、体臭がきついから花總師匠──って、師匠方がお越しなのに、下っ端のあっしが寝ている場合じゃないでやんすっ!)
ゴツンッ!
慌てて体を起こしたものですから、何かがおでこに当たります。かなり硬いものでしたが、同時に何やらフサフサしていたような──
「あいたたたっ!」
おでこをさすりながら目を開けると、何とライオンがいるではありませんか。
しかも正蔵と同じように、額に手を当てています。つまり先ほど当たった『何か』は、このライオンのおでこだったわけです。
「はて、いつの間に動物園に来たんでやんしょう?」
などとトボケたことを言っていますと、ライオンは牙をキラリと見せ、鼻の付け根にシワを刻みます。
「キサマッ! 人族の分際で、犬人族のオレさまに歯向かうかッ!」
「ジ、ジンゾク? イヌビトゾク?」
鳳仙師匠から呑気だと指摘された正蔵も、さすがにこの状況は奇妙だと気がつきます。
「ラ、ライオンさん、お話が上手ですね……」
まじまじと眺めると、そのライオン、鎧を着ています。おまけに二本足で立っていて──
正蔵はグルリと辺りを見回します。
「ところで、ここはどこでしょう?」
砂地の地面の上にテントを張っているようで、明らかに稽古をつけてもらっていた鳳仙師匠の自宅の一室ではありません。
「ここは『不遇の天使』だ! そしてオレさまの名前はドンゴだ!」
「それはご丁寧に。あっしの名前は市川正蔵と申します」
「イ、イチカワショーゾー? 変わった名前だな」
「あっ、これは芸名でして。あっしの本名は天帝──」
「何だって⁉︎」
ドンゴと名乗ったライオンは正蔵の言葉を遮ると、表情を明るくさせます。とはいってもライオンなので、大きく裂けた口の両端が持ち上がっただけなのですが。
「キサマッ、道化師かッ! オレさまは道化師がやる踊りが大好きなんだッ!」
「いえ、残念ながら道化師さんとは違うでやんす。芸人でやんす。正確には講談師でして」
「講談師? 聞いたことがないな。まあいい。何かやってみせろッ!」
そう言うとドンゴは背後にあったソファに腰を下ろします。乱暴に座ったものですから、辺りに埃がフワーッと舞い上がります。正蔵はとっさに着物の袖で口を塞ぐのですが、ドンゴは意に介しません。
部屋の奥に向かって叫びます。
「おい、そこのボンクラッ! 飲み物を持ってこいッ!」
「はい……」
やって来たのは、おそらく猫と思われる生き物です。
おそらく、と表現した理由は、やって来た生物が実に奇妙だったからです。一見すると間違いなく猫でして、艶やかなグレーの毛並みをしています。
アメリカンショートヘアといったところでしょうか。ところがその背中には羽が生えておりまして、パタパタと飛んでいるではありませんか。
不意に羽の生えた猫は、鼻先を自分のワキに近付けます。
か細い両腕の先には、ご飯を入れるような茶碗を持っています。少し欠けたところが見られるので、あまり良い品とは言えないでしょう。
「お待たせしたポー」
「さっさとよこせッ!」
羽が生えた猫から乱暴に茶碗を受け取ったドンゴは、顎を上げてグッと飲み干します。が、すぐに「ブハッ!」と吐き出すのです。
「何だ、これはッ! 水じゃねえかッ! 酒を持ってこいッ!」
「し、しかし、この国にお酒などなく……」
茶碗が羽の生えた猫に向かって投げられます。避ける間もなく羽の生えた猫の狭い額に当たり、茶碗は地面に落下して割れてしまいます。
「この役立たずがッ! ないなら他の国から盗んでこいッ!」
「そ、そんな無茶なポー……」
「オレさまに向かって口答えをするかッ!」
ドンゴは立ち上がると、右足を大きく持ち上げます。このままでは羽の生えた猫は踏み潰されてしまうでしょう。
「武蔵は稽古用の木剣を袋から取り出しますと──」
砂地の上で星座をしていた正蔵が突然しゃべり出したため、ドンゴは足を上げたままポカンとしています。その隙にそそくさと逃げた羽の生えた猫は、近くにあった棚の横に身を隠し、そっと様子を伺うのでした。
尚も正蔵は講談を続けます。
「一本を前に一本は頭上天高々に、天地引用活殺の構え──」
左足を前に出して腰を浮かすと、腰に差していた鳳仙師匠からいただいた張り扇を右手に持って自らの頭の上へ。反対の手には懐から取り出した扇子を体の前に構えます。
まさに宮本武蔵の二刀流の格好です。
それを見たドンゴはニヤリと笑います。
「何だ、キサマッ! オレさまとやる気なのか」
足を下ろして、正蔵と正対します。
「下等な人族が、万が一にもオレさまに勝てるとでも思ってるのかッ!」
わずかに体を前のめりにして、ジッ、ジッ、ジッと間合いを詰めていきます。
その間も正蔵は講談を続けているのですが、話が進むにつれて、一人の人物が浮かび上がってきます。
そう。その姿はまさに宮本武蔵。
武蔵はボヤァとした光を放ちながら、正蔵を包み込んでいきます。
不穏な空気を感じたのか、ドンゴは一旦足を止めます。
「キサマッ! ただの道化師じゃないなッ!」
完全に武蔵と同化した正蔵は、丹田に力を入れて、声を張り上げます。
「武蔵は力強く踏み出しますと、右の木剣を無礼なライオンの額に向かって振り下ろすのでしたっ!」
言葉と呼応するように、目にも止まらぬ速さでドンゴとの距離を詰めると、宮本武蔵ばりの剣さばきで渾身の力を込めた張り扇は上から下へと振り抜かれます。
スパーンッ!
耳をつんざくような見事な音を鳴らしながら、正蔵が振り下ろした張り扇はドンゴの額に命中します。
ドンゴは白目をむいたまま、ゆっくりと後ろに倒れていき、やがてドシンッ! と砂埃を舞い上げながら倒れたのです。
──何事かと覗き込んでいた人集りの中で冷静に一連の出来事を見守っていた鳥は、しっかりと記憶に焼き付けるため目を閉じます。そしてゆっくりと目を開くと、静かに音もなく羽ばたき、空に消えていくのでした──
最初のコメントを投稿しよう!