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「──おおおっとっ! 残念ながらここでお時間が来てしまいましたっ! この続きはまたの機会で」
市川正蔵は、畳におでこを擦りつけんばかりに頭を下げたのでした。
この青年の職業は講談師と言いまして。
高座に置かれた小さな机の前に座り、軍記物や政談など、歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる、といった仕事をしております。
調子を出すために、手には張り扇と呼ばれる道具で机を叩く──のですが、今は稽古中のため、畳の上に正座して行っていたというわけです。
正面に座っていた師匠の鳳仙は、吸っていた煙管を、コンッ、と灰皿の縁に打ちつけ、何度か短くうなずきます。
「ずいぶん良くなりましたねえ」
その声を頭のてっぺんで聞いた正蔵は顔を上げると、パッと表情を明るくさせます。
「本当でやんすかっ!」
「嘘なんか言うもんですか」
鳳仙師匠は優しく微笑みかけます。
「これなら明日のお前さんの真打ちお披露目会は、大丈夫そうですね」
正蔵は改めて居住まいを正しますと、膝の前で手をつきます。
「それもこれも、鳳仙師匠のおかげでやんす。あっしのようなものを拾っていただき、ここまで育てていただきやした。何とお礼を言っていいか」
「あたしは何もしちゃいませんよ。これはお前さんの努力と、持って生まれた才能ってやつのおかげです」
鳳仙師匠は煙管を灰皿に立てかけますと、着物の襟元をそっと直し、座布団の上で座り直しました。
そして背中の方から、紙でできた四角い箱を取り出して、体の前に持ってきます。
「これはね。あたしからの真打ち昇進祝いです。高級なものですからね。大切に扱いなさいよ」
正蔵は緊張した面持ちで、大事に両手で受け取ります。
そしてそっとフタを開けますと……近所にある和菓子屋のまんじゅうでした。確か十二個入りで、千二百円だったかと……。
キョトンとする正蔵を見て、鳳仙師匠はコホンと咳払いを一つ。
「ここ、笑いどころですよ」
正蔵は慌てて「ですよねっ! そうだと思ってやしたよっ!」と坊主頭をペシリと叩いて笑います。
「と、とりあえず、まんじゅうをいただきやす」
正蔵がいくつかのまんじゅうを袖の中にしまったタイミングで、再び鳳仙師匠は両手を後ろに回します。
次に取り出したのは、真新しい張り扇でした。
「こっちが本当の昇進祝いです」
正蔵は目を潤ませます。
「まさか師匠が⁉︎ あっしのために作ってくださったんでやんすか⁉︎」
実は張り扇というのは、講談師自らが作るものなんです。
自分の手に馴染むように、または机を叩いた時に好みの音が鳴るよう、和紙を何枚も貼り合わせていくのです。
一つ作るのにそれはもう手間のかかるものでして、そんな張り扇を自分のために用意してくれるなんて夢にも思ってなかったものですから、正蔵は感動しきり。
涙声を絞り出します。
「こんなあっしのために……ありがたいことでやんす……」
張り扇を両手でしっかと受け取ると、胸に抱き締めます。
「感謝感激でやんです。鳳仙師匠からいただいたこの張り扇、一生大切に使わせていただきやす」
「大袈裟だねえ、お前さんは」
呆れたように鳳仙師匠は笑います。
「度胸が座ってるというか、呑気というか。それでいて義理堅い性格で、どこか憎めない。そんなお前さんだからこそ、お客さんに可愛がってもらえるのでしょう」
ううんっ──と喉に絡まったものを取り除くと、鳳仙師匠は急に真顔になります。雰囲気が一変したのに気がつき、正蔵は慌てて背筋を伸ばします。
「いいかい、正蔵。お前さんの芸は、いわゆる憑依型ってものだと、以前にも話したことがあるね」
「はい」
「まるであの世から人の魂を降ろして自分に憑依させ──たように見せることによって、お客さんはその人物が蘇ったような錯覚を起こすってわけです」
横に置いてあったお茶に口をつけた後、湯呑みを両手で包み込みます。
「あたしら講談師からしたら、お前さんの芸はまさに究極の形だ。だからこそ史上最年少真打ちになれたわけです」
鳳仙師匠は「ただね」と声を落とします。
「くれぐれもおかしなモノを憑依させちゃあいけませんよ」
「お、おかしなモノ……とは?」
「以前にもね、お前さんと同じような講談師がいたんですよ。天才と呼ばれていたんですがね──」
再び湯飲みを口に運ぼうとしたら、すでに茶を飲み干していることに気がつきます。
その様子を見た正蔵は、すかさず両手を伸ばします。
「鳳仙師匠、新しいのを入れてきやす」
「そうかい。すまないね」
張り扇を帯の左脇に入れ、鳳仙から湯呑みを受け取ると、正蔵はそそくさと障子のところまで行きます。
格子状になった桟に手をかけ、振り返ります。
「すぐに戻ってまいりますので。少々お待ちを」
部屋を出て行こうとする正蔵に、鳳仙師匠は「ちょいとお待ち」と声をかける。
「へえ。何でしょう」
「先だって廊下にワックスをかけたんですよ。ピカピカになったはいいものの、これが良く滑るんです。お前さんも十分にお気をつけよ」
これはいわゆるひとつの「前フリ」というものでして。今風に言うのでしたら、「フラグ」ってやつでしょうか。
つまりこれから正蔵は、派手にすっ転ぶわけです。
それはもう見事なまでにつるりと足を滑らせると、体がヒュ──ッと宙を舞うのです。
次の瞬間、ドシンッと大きな音が鳴り、何事かと鳳仙師匠が駆け寄ってきます。
「どうしたんだいっ! 正蔵っ! しっかりおしっ!」
正蔵は廊下に大の字で倒れ、ピクリとも動きません。
(ああ、鳳仙師匠の九谷焼きの湯飲み茶碗が、割れてなければいいのでやんすが……)
そんなことを考えながら、ゆっくりと意識を失っなっていくのでした──
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