レンガ

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レンガ

目が覚めると、酷く殺風景な部屋にいた。 白い壁。白い床。白い天井。 窓もない。ドアもない。 数歩歩けば、行き止まりような部屋。 いや、部屋とは言えない。箱だ。 ただひとつ、目を引くものがある。 ―――赤茶けた ―――ゴツゴツとした これは、レンガだ。 手にとってみる。 ざらざらとしている。 ちょっとした重量感に、少し驚く。 ーーーあなたが ふいに思い出す、誰かの言葉。 レンガを持ち上げると、若干のぬめり気を感じ、奇妙に感じる。 手を見てみると、赤く ーーー紅く 赤色の何かが、手にべっとりとついていた。 私は、ふいに襲ってくる所在ない恐怖感に 身を屈める。 ーーー紅い 手から滑り落ちたレンガは、この空間に不釣り合いなほど、大きな音をたてて床に落ちた。 私は、その音に頭の奥を殴られたかのような衝撃を覚え、叫び声をあげる。 反響 ーーーあなたが 自らの叫び声に呼応するかのように、 声がまたした。 床には、少しだけ砕けたレンガがひとつ。 破片が、そこかしこに散らばっている。 私は。 私は、何か。 砕けたレンガと目があう。 赤く染まったレンガは。 私は、頭の激痛に耐えられず、 目を閉じる。 途切れていく意識のなか。 とある情景が目に浮かぶ。 できたばかりの家。 故郷の、片田舎にたてた少し大きな一軒家。 海が近くに見える。 女性がこちらを見ている。 あれはーーー 女性は、嬉しそうな表情で、優しそうな笑顔で、こちらを見る。 ーーーあなたが欲しがった暖炉つきの家がついにできたね 女性は微笑む。 楽しそうに家へ入って、はしゃぐ背中を見て、私もつい、足取りが軽くなる。 だんだんと時間が進む。 暖炉を囲み家族団らんのーーー 子供が生まれ、成長し、そしてーーー そして? そして。 これ以上はいけない。 頭がひび割れていくようだ。 ガンガンと。とんかちで叩かれているような。 それでも、視界は消えきらない。 どうしても。 目の前には、レンガの破片。 ああ、これは。 眩い光と共に、頭痛がピークを迎える。 部屋が、大きな揺れと共に、ヒビがはいる。 最後に見た景色は 愛する妻の。 床に伏せた ーーーあなたが愛した 愛した妻の虚ろな目。 生気のない、意識ない目。 心が失われた、曇りなき目。 目の前のこともわからず。 誰とも知れず。 ただ虚ろに世界を映す。 彼女がこうなってからどのくらいたっただろうか。 すっかりと、髪は白くなった。 彼女は、何もかもわからなくなってしまった。 息子を亡くしたあの日から。 世界は急速に視界を狭め。 彩りという概念を失った。 彼女の声も出ない。人間らしいことは何も。 あの表情豊かで、弾みのある声はもう。 安らかな寝顔は、まるで死を求めるような表情に見えたのは、おかしいだろうか。 それから10年。だろうか。 私は、とっく限界を迎えていたのだ。 愛する息子を亡くし。愛する妻を亡くし。 ただ生きるのに、意味を失って。 目に写るのは、かつての暖かな記憶が仄かに香る暖炉だけ。 それももう、ヒビが入り崩れてはじめていた。 そのとき、私は何かを失ったのだ。 衝動的に、崩れていたレンガの破片をつかみ、妻のもとへ歩いていった。 ああ、そうだ。 私は、床に伏せた妻の頭に。 ーーーあなたが愛した ああ、そうだ。 私が愛したお前の。 最後になる。 世界が閉じる瞬間。 白く閉じた部屋は。 壁も床も、天井までも。 色をもち、そして無数の写真が広がる。 私と。息子と。妻の。 笑顔の写真だった。 私の手から滑り落ちたレンガは、妻の頭を避け、床に落ち砕け散った。 妻は、虚空を見つめ 口だけわずかに動いた。 そして、妻は静かに息を引き取った。 それはもう、安らかに。 どこか安心したかのように。 そうか。寿命が来たとでもいうのか。 全身を震わせ、心からこう思った。 おめでとう、と。 解放されたのは妻だろうか。それとも 私は後を追うようにレンガをつかみ。 振り下ろした。 ーーーありがとうね。あなたを愛しているよ そう聞こえた気がした。
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