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4
バスの中は静かだった。
刃物を持っている男。その男に拘束されている、ランドセルを背負った少年。
他に、乗客は二名だ。大きなお腹をした妊婦、腰が曲がった老婦人。彼女達は恐怖に怯え、座席に座っている。
「何、してる?」
章太は問うた。声が僅かに震えてしまった。
まさかこんな場面に出くわすとは思わなかった。もちろん、警察官になったのだ。これから先はあるだろう。しかし、それが現場初出勤の途中で遭遇するだなんて、誰が予測しただろう。
「何だ、てめえは」
「俺? 俺はだな」
答えながら、運転席に目を遣る。
運転手はハンドルにぐったりと体を預けていた。何かあったのだろうか。男にやられたのか、或いは事故の衝撃で怪我をした可能性もある。
どうする。どうすればいい。
今までにない経験に、頭が真っ白になる。
少年の首に突きつけられた鋭利な刃は、小型のカッターナイフだ。だが、いくら小さくても、子供を傷付ける事は容易い。
章太は、顎で刃物を指し示した。
「それより、どうしたんだ、それ」
「はあ?」
「いや、その、それだよ」
「何だ。何言ってんだ、こら」
自分でも何を話しているのか分からなかった。気の利いた台詞が出て来る筈もない。
「さっきからてめえ、舐めてんのか」
「いや。舐めてるとかじゃなく」
「何だってんだ。急に乗り込んできやがって」
「ああ、その、まさかこんな事になってるとは思わなくて」
「じゃあ、さっさと降りろ」
「え、うん、それは」
「降りろっつってんだよ」
強い剣幕で言われる。さもなくばどうなるか、という圧まで感じる。
最悪な事態が脳裏を過ぎる。
このまま一度、バスを降りようか。
章太は思った。それから、誰かを呼ぶ方が良いかもしれない。怪我などしたくない。面倒事は御免だ。そうすれば、きっと誰かが助けてくれる。
そこまで考えて、自分の足元に視線を落とした。
紺色のズボンが目に入る。警察官の制服だ。上っ張りを脱げば、桜の代紋の肩章だって付いている。
ああ、そうだ。自分は警察官だった。
章太は、自分の後ろ向きの考えを、一度止めた。何の為に今まで頑張ってきたのだ。警察学校に入学し、勉強をした。厳しい訓練に耐えた。憧れの後ろ姿を追って、此処まで来たのだ。
警察官になる前の自分であれば、逃げていたかもしれない。誰かを頼ったかもしれない。しかし、今は違う。ただの野球坊主ではない。通りすがりの傍観者でもない。
自分が助けなければ、誰がこの人達を助けるのだ。
章太は顔を上げた。
「降りない」
「は?」
真っ直ぐ、前を見詰めて言う。
「降りられない、って言ってんだ」
「本当に何だ、てめえ。ヒーローごっこか」
「違う」
章太は上っ張りを脱ぐべく、引っ張った。スナップボタンが勢い良く外れる。
「俺は警察官だ。ごっこじゃない。正真正銘の、正義のヒーローだ」
制服を見せつけるように、章太が言った。
男の目が見開かれる。少年も「あ」と驚いた顔をした。
「何で警察が居るんだ」
「たまたま通り掛かった」
「じゃあ用はねえ。早く降りろ」
「だから降りねえって言ってんだろ。俺には、皆を助ける義務がある」
「うるせえ、降りろ」
「降りねえ」
言い合いが続く。
章太に武器や防具はない。生身の体だけだ。警棒や銃を結束している帯革は鞄に入れ、原動機付自転車に置いたままだ。この緊迫した状況で、取りに戻る訳にもいかない。
しかし、この場を解決出来るのは自分だけだ。他には居ない。
こうなると、もう強行突破だ。
章太は、何か役立つ物はないかと、そっと辺りを確認した。
妊婦は、ショルダーバッグを抱えていた。老婦人は、手に巾着袋を一つ。足元に大きな袋。中からは、蜜柑がごろごろ覗いている。
それを見た瞬間、これだ、と思った。蜜柑だ。ボール代わりになる。蜜柑を投げ道具として、男にぶつける。そして、相手が怯んだところ、勝負をかける。
老婦人までの距離、僅か一歩半。そこから更に二歩進めば、男と対峙だ。
章太は思い切り息を吸った。
「いっぽおーん、しゃあーす!」
窓を振動させる程、大きな声を上げた。野球部時代、何度も張り上げた掛け声だ。
突然の事に、バス内に居た誰しもが目を剥いた。相手の男も固まった。
今だ。
章太は動いた。
部活で散々ダッシュの練習をしてきた。瞬発力には自信がある。
ほんの数瞬の間で、老婦人の足元の袋に手を伸ばす。オレンジ色の球を掴む。渾身の力だ。投げつける。伊達に長く野球をしてきていない。コントロールも折り紙つきだ。
投げた蜜柑は、男の顔面に直撃した。相手に反応する隙を与えず、間髪入れずに飛びかかる。そして、そのまま倒れ込んだ。
男の手の力は弱っていた。構える事が出来なかったのだろう。章太は、すぐに少年を引き離した。
まずは、刃物を取り上げなければ。
章太は馬乗りになり、男のカッターナイフを奪おうとした。しかし、制圧されかけていると把握した相手も、強く暴れ始めた。
咄嗟に男の腕を掴んだが、遅かった。刃の先が、章太の左肩を切り裂いた。ぴりりと焼けるような熱が走る。痛みに顔が歪む。
章太は、握り拳で男の頬を殴りつけた。骨と骨がぶつかる鈍い音がする。男の顎がびりびり揺れる。
男は逃れようともがいた。章太も必死に食らいついた。相手の衣類を掴む。再度殴る。
頭に血が上るとは、こういう事を言うのだろう。髪の毛を引っ張られたが、それには動じず、もう一度拳を落とした。とにかく、この男を止めなければならない。
負ける訳にはいかなかった。何があっても、どうなってもだ。自分だけが、ここの乗客を守る事が出来るのだから。
章太は更に大きく振り被った。
「わ、分かった!」
男が、固く目を閉じて言った。
「もうしない。分かった。だから、やめてくれ」
喘ぐように、男が続ける。その声色には、確かに戦意が失われている。
「本当か?」
「本当だ。頼む、大人しくする」
章太は荒い息のまま、男を見下ろした。遠くでパトカーのサイレン音が聞こえる。
振り返れば、妊婦の女性が携帯電話を握り締めていた。
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