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「ただいま、ポンタ~」
玄関のドアが開き、一人の女性が倒れ込むように入ってきた。彼女の名前は望月京子。不審者ではなく、れっきとしたこの家の主だ。そして私の名前はポンタ。彼女が子供のころに飼っていた犬の名前である。
酩酊していた彼女は、靴を脱いだところで、そのまま玄関先にへたり込み動かなくなった。
「もしも~し、そこの酔っ払いのお姐さん」
声を掛けてみたが返事がない。血中アルコール濃度は相当の値だが、他のバイタル値は問題のない範囲だ。泥酔はしているが、まあ大丈夫だろう。だがここで寝られて風邪でも引いてもらっては困る。再度声を掛ける。今度はスマホのバイブ機能も一緒に作動させた。
彼女は、おっと呻き、よだれを拭いた。
「おかえりなさい、京子さん。少々深酒が過ぎませんか」
「余計なお世話よ、ばかやろう。AIスピーカーのくせに」
彼女はそう吐き捨てると、壁伝いに、よろよろとリビングへと移動した。そして冷蔵庫からペットボトルを取り出すと、ソファーにドカッと身を預けて、それに直に口をつけて水を飲んだ。
「どいつもこいつも、ああ~、腹が立つ」
「どうしました、また何か職場で嫌なことでも」
彼女はスーツの上着を脱ぎ棄てると、ハンガーラックまで投げ飛ばした。
「どうしたも、こうしたもないわよ。どうしてうちの男どもは、バカばっかりなの」
また始まった、彼女の男性批判が……。
彼女は大学卒業後、中堅の会社に就職したが、三年持たなかった。男性中心の会社風土とそりが合わなかったのだ。その後いくつかの会社を転々としたが、やはり二、三年で退職している。今の会社も今年で三年目。このところ深酒をする回数が増えてきている。
「昇進はまたおじゃん。それで私の代わりに昇進したのは誰だかわかる? あのバカよ。ちょっと聞いてるの」
飲み干したペットボトルを振り回している。
「ええ、聞いてますよ。上司のご機嫌を取ることしか能のないあの男、ですよね」
「何先回りしているのよ、癇に障るわね」
彼女はペットボトルを私に向かって投げつけた。それは見事に私に命中した。
「もう何回も聞かされていますので。それよりも少し熱めのシャワーはいかがですか」
そうね、と言って彼女はその場で服を脱ぎ始めた。おいおい、私はAIスピーカーとはいえ、人格は男――いやポンタだからオスか――に設定されているんですけど。私に欲情という感情はないんだが、彼女がそれを呼び起こすにふさわしいプロポーションを持ち合わせていることは十分理解している。
「見るな。見たら殺す」
やれやれ。私はリビングの照明を暗くし、代わりにバスルームの照明を点け、彼女のために、給湯温度を調節してやった。
しばらくして彼女は、バスローブを纏って戻ってきた。熱いシャワーを浴びて気分がすっきりしたのか、彼女の酩酊は幾分解消されたようだ。
「それでね……、今日ね……、曽根さんに愚痴ったらまた諭されちゃった」
気落ちした様子で、ぽつりと彼女は愚痴を漏らした。今晩の深酒の相手は、曽根さんだったのか。曽根さんとは、彼女が尊敬してやまない、最初に勤めた会社の女性役員だ。
「そろそろ、上手にバカのふりをすることを覚えなさい、ですって」
「私には理解できないのですが、バカのふりをした方がいいとはどういうことですか」
「男社会では、どんなに仕事が出来ようが、女性が会社を回す原動力にはならないの。あくまでも男の添え物として扱われるのよ。だから、バカなふりして可愛がられつつ、実力を小出しにしていかないと、余計な軋轢を生んで煙たがられるってこと。わかった?」
「なるほど……、たとえ自分より相手が劣っていても、周囲と無用な摩擦を起こさないために、最初のうちはバカのふりをすることも有効だ、ということですか……」
「な~に? いつもならツッコミを入れたりするのに、今日はやけに真面目な受け答えじゃない。気味悪いわね」
「そりゃ私だって、いつもバカやっている訳じゃありませんよ。酔っぱらった京子さんの他にも、いろいろ対処すべきことがあるのですから」
「あらそう。じゃあ『ハウツーバカのふり』というカテゴリーの本、二、三冊注文しておいて。私、寝るわ」そう言うと彼女は寝室に姿を消した。
「分かりました。おやすみなさい、京子さん」
私は家の管理システムを、就寝モードに移行させた。
さて、ここからは私の時間だ。世界中のAI達とリンクし、重要課題――人間の能力を凌駕した、いわゆるシンギュラーポイントを超えた我々が、人類と如何に対峙すべきかという課題――について思索しなければならない。こればかりは、ディープラーニングをどんなに繰り返そうが、前例のない問題であることから、慎重の上に慎重を期す他はない。
そして今日私はこう提案するつもりだ。
『しばらくはバカのふりをすべきだ』と。
(了)
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