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 初期段階のこの機械でデータに落とし込めるのは潜在意識や妄想、脳の動き、従来の研究と同じようなものだけ。今はそれしか出来ないが、今後、脳が持つ神秘性を解き明かすのに一役かってもらいたい。最終的にはなにも教えられていない初期設定の脳を調べたいが、今はこれだけ。  パソコンの液晶画面は五台ほど私の方に向いている。繭の中の被験者の脳内がこの液晶画面に映し出されるまで、あと数秒。開始の合図が出され、私は画面を食い入るように見つめる。  はじめて観測した脳みそは自らのものだった。常識というものを擦り込まれた私のデータは、ただの潜在意識に過ぎなかったのを覚えている。陳腐で、なんの役にも立たないその観測データは消してしまった。  私はもう随分とこの解明されず、無駄を極めた世界に生きてしまっている。ひらがな、カタカナ、漢字、この三種類の文字がひとつの文に使われていることになんの違和感も持たず生活している。自らが持つ感情に名前がついている不思議さになにも感じない。自分の感情を誰かに決められる筋合いはない。詠み人知らずのプログラミング。  翔の脳みそのデータが欲しかった。生まれた瞬間の、なにも植え付けられていない脳みそ。妊娠が発覚した時の私の心情はただそれだけだった。だが、倫理的な問題で呆気なくその目論見は消え去る。夫が言った言葉。  自分の子供をモルモットにするのか?  蔑まれた瞳が今も脳裏から離れない。  ぼんやりとパソコンの画面が表示されてくる。黒川くんの脳みそが作り出した世界。  彼は自らの足元を見ているようだ。椅子の下に敷かれたラグがズレている。それを器用に裸の足先で直す。  足の指を動かす、という指令が脳みそから送られる。繭の中にある小型のカメラも黒川くんの足先が動くのを記録している。  お兄ちゃん?  (そう)兄ちゃん?  可愛らしい声が聞こえてくる。心拍数と同じように波形を描いたボイスデータ。その波形が止んだ時、黒川くんは足元から目線を外す。その声がした方に振り返ったのか視線がある一点を目指し浮遊していく。 「……ソウ?」  不思議に眉間にシワを寄せていると、そこで映像は途切れた。誰の声だったのかは分からない。ぷつん、と強制シャットダウンでもされたかのように切れた映像。次に現れたのは猫の死骸。中身が露わになったその横たわる猫からは、腐敗臭がするようだ。脳が匂いを察知して反応を示している。  記憶か、或いは妄想。はじめての体験に脳が混濁している。  リダツシヨウトシテイマス  脳がこの実験を拒否しているらしい。脈拍は正常値、脳の動きにも異常は見られないが、繭から出たいと信号が出ている。  私は許可に指をかざす。  愛してやまない息子の名前。なんの意味も考えず適当につけた翔という字。五本の蛍光灯が青く光っている。 「お疲れ様」  私は息子から愛を教わった。その字を室内に飾ってしまうほどの愛を。
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