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「百聞は一見に如かず、ね。体験してみる?」
幼い頃の私に似た、黒川くんに微笑みかける。そして彼から目線を外し繭を見つめた。黒目が更に輝きを増した彼は、嬉しそうに頷く。私が繭を指差し促すとひとりの男の子がソファから離れる。柔らかなソファは彼の体重を跳ね返すように、元の形に戻った。
いまや仮想現実・拡張現実の世界は常識となっている。プログラミングされた世界は日常に溶け込み過ぎているが、私が研究の為に作った繭は違う。
「乗り物酔いとかは無い?」
「……その質問は時代を感じます」
「気をつける、ありがとう」
くすりと茶化すように笑った黒川くん。娯楽の分野だろうとみていたそれら。似て非なる職種だと思っていたが、最速に情報を集める必要がありそうだ。
私は黒川くんの脳のデータを収集する為の準備を始める。まずは、アナログな電球をつけるところから。五本の蛍光灯から作られた文字。青い色味がぼんやりと姿をあらわす。
「知っているかもしれないけれど、一応説明するわね。脳をより理解するために作ったものだから、脳の動きを見せてもらう。あくまで脳が主体よ被験者……つまり、黒川くんの脳が作り上げた世界を観測させてもらう。0と1で作り上げられたコンピューターはあくまで補助」
説明しながら、黒川くんを繭の中に寝かせる。──閉所恐怖症は? と訊こうとしてしまいそうになった言葉を飲み込む。若者を相手にするというのは、一苦労だ。私たちの時代の常識が非常識になっていく。……それも脳の進化によるものだろうか?
時代が変わることを止めることは出来ないが、育ってきた環境を非常識だ、と責められるのは苦しいものがある。
「最初、実験により深く入り込めるように導入剤を使う。私がこの機械の蓋を閉めてから、数分でガスが出るけれど、安心して。きちんと認可され、害が無いものよ」
「大丈夫です、知ってるから」
早く閉めろ、とでも言いたいように笑う黒川くん。情報社会というのは便利だ。便利な反面、浪漫がない。
私は繭に備え付けられたボタンに指をかざす。非接触は文化を劇的に変えた。静かに繭の上部が降りてきて、美しい曲線を描く。
可愛らしい笑みを浮かべ、人懐っこく私に手を振った黒川くん。小さな手の振りが彼の浮かれた心情を表していた。
機械の繋ぎ目がなくなる。人ひとりが中にいるとは思えない、ただのまん丸で真っ白なオブジェが部屋に鎮座した。この美しさは、日本人特有の職人技というものだろう。皮肉にもその職人技というのは衰退し始めている。
「……さて、少し覗かせてね」
ただのオブジェになった機械から目を逸らし、私はパソコンの前に移動する。青白く光る蛍光灯。それは私に残像効果を実感させた。
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