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「あの、すみません。よろしければ、こちらお使いください」  チカちゃんは驚いた様子を見せるが、すぐに「いいんですか?」と聞き返してくる。 「もちろんです。大事な服でしょう? すぐに拭き取った方がいいですよ」 「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」  チカちゃんは自分の汚れた衣服に、なぜか俺が持っていたタオルを押し当てて、取れるだけのクリームを拭き取った。 「助かりました。本当にありがとうございます」  チカちゃんが俺に謝ってくる。 「いえいえ。お役に立てたのならよかったです」 「あ、あの。よろしかったら、これ」  そう言って、チカちゃんは少しだけ溶けてしまったソフトクリームを俺に手渡した。 「いや、それは……」 「ごめんなさい。これくらいしかできなくて」  これは、チカちゃんの精一杯の誠意。だとすれば、俺も素直になって受け取った方がいい。三十も生きていれば、それくらいの常識は備わっている。 「わかりました。では、いただきます」  俺がソフトクリームを手渡されて、落ち着かないからとベンチに座って食べている間も、なぜかチカちゃんは俺の隣で座っていた。 「今さっきまでいた男にソフトクリームをぶつけられたんです。なのに、謝ることもなく逃げ去ってしまったんです。、ひどくないですか? 最低ですよね」  チカちゃんは大人である俺に溜まり切った愚痴を零し続ける。俺は表面では うなずくのだが、心の内ではこの異常な展開を飲み込めずにいた。  俺が描いたはずの勇気くんは、あんなにクズではなかった。ましてや逃げ出して退場してしまうオチなど描いた記憶はなかった。  そもそも、今の俺が出てきてしまう展開がおかしいだろう。俺はあくまでも作者であって、登場人物ではない。自分自身を主人公にしているとはいえど、私小説なんて高尚な文学を描いたわけではなく、高校生の甘酸っぱい妄想小説を書いているはずだから、恋愛もできずに大人になった俺など出てくるはずがないのに。  だが。今の俺はチカちゃんの隣で甘い甘いソフトクリームを食べている。ドロっとしたソフトクリームが、俺の口を支配していく。  いよいよ、俺はいったいどこにいるのかわからなくなった。 「すみません。つい文句をいっぱい言ってしまって」  謝ってくるチカちゃん。俺は首を振る。 「いえ、僕は大丈夫ですよ」  俺はつい、かしこまってしまう。それもそうだ。相手は大人にもなっていない十八歳。対して俺は三十を過ぎたおっさんだ。あまりにも年齢差が開いているから、恋心など湧くはずもない。むしろ独特な緊張感が俺を包み込んでいた。 「なんか大人っぽい雰囲気だったから、お父さんみたいで話しやすくて」 「そ、そうなんですね」  大人っぽい雰囲気。いや、俺はどう見ても大人だろう。何を言っているんだ、この小娘は。 「え、えっと。僕はこれで」  ここは退散した方がいい。俺は大人で彼女は子供。たとえこの世界がフィクションであっても、未成年と付き合うなど言語道断だ。 「あの、待ってください」  しかし、チカちゃんは俺をとどめようとする。 「なんでしょうか?」 「あの、もう少しだけそばにいてくれませんか? わたし、一人では寂しくて」  いかんいかん。俺の中にある「理性」が音を立てて崩壊していく。リミッターも電源ごと落とされているようで、「突き進め!」と死んだ父親が叫んでいる幻聴すら耳に入ってくる。 「だけどね、僕は……」 「違う高校の子と一緒にいるのも、悪くないかなって」  違う高校の子。先ほどから彼女はいったい何を言っているのだろうか。 「いや、僕は高校生ではないですよ。もう、立派な大人ですから」  しかし、チカちゃんは大層面白可笑そうにしているのだ。 「そんなに若い顔の大人、さすがにいませんよ」 「へ?」  パシャ。何事かと思ったら、チカちゃんが急に写真を撮ってきて、俺に見せてきた。 「あ、あれ?」  この生意気な顔。青春を送ることができなかった、片想いのまま現実逃れのために必死で小説を書いていたときの顔。そこに写っていた俺の顔は、まさに十八の頃の顔だった。 「嘘だろう?」  俺は一つ気になって、財布を取り出してカード入れを漁った。 「おいおい、これ免許証じゃないぞ」  財布の中に入っていた一枚の写真付きのカード。それは免許証ではなく、学生証だったのだ。 「もしかして、大人って言ってカッコつけようとしたんですか?」  「いや、そういうわけではないけど」 「可愛いですね。なんか、好感持てます」  ふふっと頬を緩めるチカちゃん。大人じゃない俺はドキドキが加速して、とっくに壊れた制御装置を捨てて、思う存分彼女を好きになってしまった。  だからというわけじゃないが、俺はポケットから苺味のキャンディを取り出して、チカちゃんにあげた。 「なんか、すみません。今までの醜態、これで許してもらえませんか?」  すると、チカちゃんはさらに笑ってくれた。 「変な人ですね。でも、好きですよ。あなたの不器用だけど真っ直ぐで、ちょっぴり変だけど恋に従順なところ」  突き進んだ俺。その向こう側に、俺を好いてくれる誰かがいる。高校時代の俺には、知る由もない気持ちだった。強がってもダメ、カッコつけてもダメ。大事なのは、真っ直ぐな偽りのない感情を曝け出すこと。自分を化かして得体の知れない怪物にすることではなく、ありのままの自分を突き出すこと。それが、純粋な恋愛を築き上げる。  もっと早く知っておきたかった。そうすれば、ここまで卑屈な人生を辿ることもなく、青春を送ることができただろうに。俺が俺を好きでいられただろうに。  耳元で、ジャポジャポと波打つ音が聞こえる。瞬間、目の前が真っ暗になってフェードアウトした。
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