呑んで、飲んで、食べる。

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「今、どこ?」  呼び出し音が途切れてすぐ。ヒナが何か言う前に怒りを噛み殺して口を開いた。謝罪なんて聞きたくなかった。どうせヒナは何も悪くないんでしょ。 「……お前さぁ、アキ、他にあんだろ」 「うるさい。どこよ」  黙るヒナをそのままに音量を上げて耳を澄ました。  バーガーの包み紙をゴミ箱に押し込みながらストローごと蓋を外したコーラを胃に流し込む。余った氷を飲み残し口に落として、紙の容器は燃えるゴミへ。  店員さんに会釈したところで、電車の発車アナウンスがスマートフォンを通して鼓膜を揺らした。映画館の最寄りまではたどり着けていたらしい。「朝マックを食べてみたい」という俺の希望で決めた待ち合わせ場所を出て駅に向かう。 「改札前で叫ぼうか。日向くぅん! 晶サマが迎えに来たよぉ! ってさ」 「何が晶サマだよ、ばか」  ヒナが大きなため息を吐いた。 「……トイレ。個室。一番手前」 「欲しいものは?」 「着替え」 「……トップス? ボトムス? 両方? 下着とか、靴とか、いる?」  立ち止まって辺りを見渡す。  駅に併設された建物にはGUが入っているはずだった。が、今は平日午前九時。創立記念日による休日を利用して外出した弊害だ。やってるのか、この時間。 「ボトムスだけ頼む。他は平気」 「はぁい、了解」  仕方ない。閉まってたらコンビニか、ドンキを探そう。  追加の言葉がないことを確認して「んじゃ、後で」と電話を切った。切ってから今のヒナを一人にすべきではなかったかもしれないと思った。予定していた映画の上映時間十分前になっても現れないヒナに「どした?」ってLINEした返事が「痴漢された。遅れる」よ。痴漢にあって着替えをご所望とか、それ、最悪じゃん。  掛け直そうか。いや、さっさと着替えを持ってくべきか?  GUに着くまで悩んで、結局、ヒナから掛けてきたらすぐ気づけるようにとロングカーディガンのポケットへ左手ごとスマートフォンを突っ込んだ。  他の人がいないのを確認し、一番手前の個室をノックした。「ヒナ、いる?」と声をかければガタッと扉が開かれた。 「俺じゃなかったらどしたの。もうちょい用心しなよ」 「声がアキだったから開けたんだよ。わかるわ、そんくらい」 「それはどーも」  ドアの隙間から覗いたヒナの上半身は特段いつもと変わった様子はない。俺に「いつも通り」を見せるためこの狭い空間に閉じこもったのかもしれなかった。  邪魔だったか、と三秒だけ考えてやめた。痴漢にあったのが俺だったらヒナも同じことをしたはずだ。伸ばされた手のひらにデニムのパンツが入った紙袋を差し出す。 「サンキュ。いくら?」 「いらないよ」 「払わないと俺が気になんのよ」 「……スタバのフラペチーノ」 「んじゃ、それで。一分くれ。すぐ着替えっから」  そっと閉じられた扉の向こうで衣擦れの音が聞こえてきた。閉まったばかりのドアに背中を預ける。加害者は? 捕まってはいないだろう。被害者がこんなとこにいるんだから。  スマートフォンを出し『痴漢 逮捕 警察』で検索。加害者向けの弁護士ばかりヒットした。「早期解決に向けた対応を解説!」「痴漢しても逮捕されないことがあるってほんと?」知らねぇよ。『痴漢 逮捕 警察 被害者』で再検索。 「アキ」  静かな声に促されてドアから離れた。俺が買ってきたデニムを着たヒナは紙袋を片手に洗面台へ向かい、手と顔を洗う。 「警察行く?」 「ん。ぶっかけだから、他所で捕まれば連鎖的に逮捕されっだろ」 「……だね」  頷くしかできなかった。ヒナが紙袋を揺らして笑っていたから。  虚勢なんか捨てちゃえばいいのに。悔しい。怖かった。悲しい。腹が立つ。憎い。友人が感情を顕にしたら受け止める心構えはある。きっと、ヒナもそうだ。俺の感情を何も否定せずに黙って聞いてくれると信じている。  ただ、感情を表す側の心構えができていないのだ。  小学生の頃にスイミングスクールで出会ってから七年。行き帰りのバスでスナック菓子を交換したり、くだらない会話をしたりしてきた。表面をなぞるような交流しかしてこなかったから心の柔らかいところを未だに見せ合えない。怖い。何かが変わってしまいそうで。  ハンドドライヤーの音が止まる。静かになった空間に、痴漢被害者のブログを読んでいたスマートフォンをスリープした。 「俺は交番行くけど、アキ、どうする?」 「行くよ。邪魔じゃなければ」  ヒナの瞳を見て答える。警察では傷を抉るような話をすることになる。嫌がるそぶりが少しでもあったら、今の言葉を取り下げるつもりだった。 「そっか」  柔らかく微笑んだヒナが外へ向かう。邪魔じゃないらしい。  ズゾゾッと甘いクリームを吸い込んだ。目の前には、唇を尖らせて文句を言いたげなヒナ。スタバを奢るつもりが俺に奢られて不貞腐れてる。 「払わないと俺が気になるって言っただろ」 「今日とは言ってない」 「ヘリクツ」  そうでしょうよ。俺がお前を甘やかしたかっただけだもん。 「何でもいいじゃん。ありがたぁく頂いとけ」  キャラメルフラペチーノにストローを挿してヒナの口に押し付ける。眉間に皺を寄せたのを見て、今度は右手にカップを押し付ける。顎に皺をつくりつつ緑のストローで手に持ったカップの中身をかき回し始めた。ドアインザフェイス。成功。  貸し借りのバランスを取りたいのはわかる。それでも、思う。嫌なことがあった時くらい大人しく甘やかされてればいい。今日はもうこれ以上何も失うことないでしょ、全部ぜんぶ与えられてろ、って。俺はまた今度奢られてあげるからさ。  ダークモカチップフラペチーノをテーブルに置いて、ホットサンドとフォカッチャにナイフを入れた。ホットサンドの半分とフォカッチャの半分をそれぞれの皿に乗せて、片方をヒナの方へ滑らせる。 「いただきます」 「……いただきます」  チーズが絡んでクリーミーになったハムと卵を咀嚼しながらそっとヒナを見れば、ようやくストローを口に挟んで目を丸くしてる。キャラメルフラペチーノが甘かったのか、おいしかったのか。  次いでフォカッチャを頬張り出す。口の横についたソースを教えてやれば、ぺろりと舌を伸ばした。 「ヒナさ、朝は何か食べれたの?」 「家で食った。うっま」 「他にも食べる? ほい、メニュー。チーズケーキおいしそうよ」 「昼だぜ? もっとガッツリ……あぁー、チーズケーキうまそうだな。マジで」  口元を覆って考え込むヒナに笑う。高校生の食欲がホットサンドとフォカッチャとチーズケーキで満ちるわけがない。それでも、甘味の誘惑には勝てないのだ。  今日の所持金は映画二本分のチケット代三千円と飲食費三千円、予備費五千円。マックとGUとスタバで五千円と少し使ったから、残りは六千円弱とSuicaの中に少し。 「映画、どうする? 一本だけ見るか、週末に仕切り直すか」 「あんま気分じゃねぇな。仕切り直したい」  予想通りの答えに「俺も」と頷き、頭の中でそろばんを弾く。よし、足りる。 「ケーキ食べたらさ、ラーメン行っちゃおうか」  ヒナへGoogleマップを見せる。地図にはここから徒歩五分の天下一品。 「最高。ラーメンは奢らせろ。それくらいは文句ねぇだろ」 「ここまで来たら全部払わせてよ」 「アキ」 「どうせ映画リベンジするでしょ、週末」  今日は俺が奢るから週末はヒナが奢ってよ。そう続けるつもりが、俺を睨むヒナの眼光が思っていたより鋭くて怯んだ。怖っ。  チーズケーキ買ってくる、と会話をムリヤリ終わらせて席を立つ。  手が震えていた。  ヒナの容姿は女性的どころか中性的ですらない。身長は百八十センチ。髪は長くも短くもない。顔は整っているけれど切れ長の目が印象的で強面だ。それでも痴漢に遭った。  怖かった。ヒナのLINEを読んでから、ずっと、ずっと、ずっと。身近に性犯罪が存在することが。痴漢に性別も容姿も関係ない。俺だって、いつか。 「お待たせしました。ニューヨークチーズケーキです」 「……ありがとうございます」  二つのフォークと一つのケーキを受け取り席へ戻る。  ストローを咥えた精悍な横顔。俺の足音に反応して向けられた視線はヤクザ映画に出演できそうだ。口にしてるものがキャラメルフラペチーノだと知れば、途端に印象が変わってしまうけれど。 「おまたせ」 「俺が払いたかった」 「まだ言う?」 「ん」 「そんなに気になんなら」  考えたくないけど、と前置く。 「俺が痴漢とか……何かあったら、こうやって甘やかしてよ」 「やだ」  バッサリ断られて面食らう。椅子に腰かけながら「どうして」と続ければキャラメルフラペチーノをテーブルに置き、目を合わせてくる。 「アキは経験しなくていい」  そりゃ、しないで済むのが一番だけど。お前は被害に遭ったじゃん。  言い返そうとして、言葉を飲み込んでしまった。何を口にしても形になれないまま消えてしまう。経験してしまった人の前で経験していない人の言葉は無力だ。ヒナの低い冷え冷えとした声が耳に残っていた。  フォークを渡して二人揃ってチーズケーキを突つく。一口、二口とフォークを運ぶうち不機嫌を滲ませていたヒナの顔が綻んでいった。 「チョコどんな。飲んでいい?」 「ダークモカチップね。俺もキャラメル、いい?」 「どぞ。おっ、うま」 「でしょ」 「アキが望むなら、俺はいつでもアキを甘やかすぞ」  交換したキャラメルフラペチーノが気管に入って盛大に咽せる。このタイミングで言うことないでしょ。ねぇ。  涙の滲む視界でヒナを見やればニヤリと笑うから。 「週末は全部奢ってよ」 「仰せのままに、晶サマ」 「ばか」  トレーを返却口に置いてスタバを出た。Googleマップを頼りに天下一品へ向かう。豚骨ラーメンを食べたら電車に乗って帰るか、バスを乗り継ぐか、あぁ、二人で仲良く歩いて帰ってもいいかもしれない。この時間なら暗くなる前には家まで着くはず。  そして明日は、教室で筋肉痛を笑い合うのだ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加