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第十話 差し伸べられた手
脩は、気絶していた。
大人でも、彼と同じ体験をしていたら、正気ではいられないだろう。
小学四年生の思考力や想像力といったものを遥かに超越する出来事に、恐怖が限界に達し、脩は気を失ったのだった。
行けども見つからない帰り道の階段。
迫り来る黒い影、鏡に映る何か…。
脩は警備室だった部屋に入り込み、その中のスタッフ用のロッカーに隠れていた。
そこで気を失っていたのだ。
ロッカーの外から聞こえる足音や声の様な音など、耳に手を強く当てて涙を流しながら、気が遠くなった。
どれくらいの時間、気を失っていたのか?
脩は意識を取り戻すと、ゆっくりと目を開けた。目を閉じても開けても、暗闇の中にいる。
目を覚ました脩は、起きている状況が夢ではなく現実だということを認識し、また涙を流し、ガタガタと震えた。
だが、夕紀の声がした気がしたのだ。目を覚ましたのもその声が聞こえたからだった。
夢でも見ていたのか、(こんなところに夕ねえちゃんが来るわけがないか)と、脩は力無く頭を下に下げた。
「脩ーーー…!」
ーーえ?
小さく反響した声だが、自分を呼ぶ声が間違いなく聞こえた。
脩は、頭を上げて耳を澄ました。
「…返事しなさーーい!夕ねえちゃんだよーーー……」
聞き違うことはない。小さな頃から大好きな夕紀の声だ。
嬉しくなり脩はまた涙をこぼす。電池が切れたらヤバいと思い、消していた懐中電灯を手に取った。
スイッチ入れ、脩はロッカーの扉を勢いよく開け、外に飛び出た。そして部屋から廊下に出て、大きな声で叫んだ。
「だずげでーーーー!夕ねーーーーじゃああああああん!」
涙と鼻水を大量に垂らしながら、死に物狂いで出した声は、廊下中に反響した。
だが、涙でぼやける視界に映ったのは、夕紀ではなく、髪の長い首を真横に傾げた女だった。
ぴた、ぴた、と、素足で廊下を歩く足音がする。
脩は涙を袖で拭い、懐中電灯を廊下の奥に当て、目を凝らした。
そこに映るものを見て驚愕した。もう背筋が凍る感覚もない。
「…う…ひ、ひいいい」
懐中電灯を当てて見えた女の姿は不気味そのもの。脩は悲鳴を上げた。
目はありえない程に真っ赤に充血し、真っ直ぐこちらを見ている。歯をカチカチさせ、笑っているのか、口角があがっている顔は異形だ。
薄汚れているが、白い割烹着のような物を着ているその格好は、戦時中の看護婦のそれだと思われた。
歴史の教科書か、親の見ていた映画か、とにかく見たことのある古い格好だ。
今はそんなことを考えるどころではない。逃げないといけない…
しかし脩は、もう脚がすくみ力が出てこなかった。
“その女”は、血塗れになった両手を前に出して、ぴたっ!ぴたっ!ぴたっ!と走り迫ってきた。
首を真横に傾げたまま長い髪を靡かせて走る異様な姿は、脩に恐怖と、そして“自分はもう終わる”という諦めの気持を強く、強く与えた。
目を瞑り懐中電灯を落とし、屈んで頭を押さえる脩。
ーー殺される、殺される…
小学生が、いや大人でもそうだが、本当に“殺される”と恐怖する瞬間を体験することは稀だろう。
脩はそれを感じた。そしてその時頭をよぎったのは母親だった。母親に申し訳ないという気持ちで一杯になった。
しかし、次の瞬間、何も起きないことに気づく脩。パニックで感じることのなかった心臓の激しい鼓動が少しずつわかるようになってくる。
脩は頭を押さえたまま瞑っていた目を開けた。
足元が明るい。
懐中電灯の光さえ頼りない暗闇だったはずだが、自分の足元がかなりはっきり見える。
そして揺れ動く自分の影。
脩は恐る恐る頭を上げた。
ーー……あ!え?
目の前に、今まさに自分に迫っていた不気味な女が映った。だが脚をバタつかせて、横に傾いてた首が、反対側に反っている。
後ろに引っ張られているのだ。
屈んでいた脩は、床に腰をついた。
「…な、何?」
這うようにして、その場から少し横に動くと、女の髪を後ろに引っ張っている夕紀の姿が見えた。
「…え、え、夕…ねえ、ちゃん!?」
脩が夕紀を見間違うはずがない。
だがその不気味な女の髪を、怒ったような形相で掴む姿は、“やさしい歳上のおねえさん”という印象しかなかった脩には、衝撃的なものだった。
そして何より、夕紀の両手足から炎か燃え上がっているのに、理解が追いつかないでいた。
夕紀は女の髪を掴んでいない方の左手を力強く握った。握った拳は激しく発火し、それを女に叩きつける夕紀。
女は叫び声を上げ、火の粉となって姿を消した。
「…ったく」
ふうっとため息をつくと、夕紀は炎の玉を作り出し、側の中空に“置いた”。
そして自分の手足の炎を消し、前屈みに脩に手を差し伸べる。
「バカ脩…」
そう言うと、呆然としてい脩は我に帰ったように夕紀に飛びついた。
夕紀の胸に顔を押し付け、力の限り抱きつき、わんわん泣いた。
夕紀は、片眉を下げ、苦笑しながら、脩のことを抱きしめた。
「話は後で聞くから、まずはここ出よ」
脩は夕紀に優しく頭を撫でられ、そう言われると、脩は弱々しく頷いた。
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