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第十二話 夕紀、危機
奥の廊下から、人影がフロア内に入ってくるのが見える。
「夕ねえちゃん…」
脩はまた怖い思いをするのかと、背中に冷たいものを感じ、そして震え始めた。
近づく足音。
完全にフロアに入ったその人影は、生気のない瞳をした、青白い男だった。外から差し込む街灯がその顔を照らす。
だが“普通ではない”ことはすぐに理解した。
顔も勿論そうだが、何よりその格好だ。
教科書や映画でしか見たことのない、旧日本軍と思われる装い。
軍服に、将校用長靴、そして腰には軍刀を帯びていた。
「脩…ねえちゃんの後ろに」
少しずつ、ここに入る時に通った廊下に後退する夕紀と脩。
まだ終わりではなかった。
地下は“特に危険な領域”だったが、この建物そのものに、強い負の念が取り憑いている。
ゆっくりと歩いていた軍服の男は、口をぱくぱくと何か喋っているような顔をすると、突然姿を消した。
「…え!?」
「夕ねえちゃんっ!」
二人は慌てて周囲を見渡した。
すると、フロアの対照に、自分達とは逆側の廊下にいたはずの男は、もう目前に迫っていた。
生気のない瞳を、これでもかというほどに開き、そして手を突き出し迫ってくる。
「くっ!」
夕紀は、灯りに使っていた炎を、軍服の男に向かって放った。
これで姿を打ち消し、時間を稼げる。そう思った。
しかし、炎は男の体に触れると煙を噴き上げ掻き消された。
「…え、何!?」
男の体は、足元から煙を放ち、そして皮膚や軍服は少しずつ焦げていく。その様はまさに焼かれていく人の姿そのものだ。
ーーそうか!こいつ!
夕紀はすぐに理解した。
この軍服の男は原因は何であれ、“焼死した”のだと。
よほどの恨みを持って火に包まれたか、もともと負の念がこもった炎に包まれたか、どちらかだ。
魔力を秘めているとはいえ、“対霊や対呪いではない”対物用の魔法の炎など、むしろ取り込まれてしまうだけだった。
夕紀はすぐに氷の魔法に切り替えた。両手から白い冷気と共に氷が飛び出る。
氷は軍服の男を勢いよく飲み込んだ。しかし今度は、氷が激しく蒸気と化して砕け散った。
「な、なに!?」
男の体に宿る負の念のは、発する炎に強く含まれていた。その熱は、夕紀の放つ氷など簡単に溶かしてしまうほどだった。
「嘘でしょ!?」
白い蒸気の中から、男の手が飛び出てくる。そしてその手は、夕紀の左肩を掴んだ。
その瞬間、激痛とともに、身体中の神経にドス黒い闇を感じた。漆黒の闇に包まれる感覚は、まるで体を反対から捲られるようなどうしようもないものだ。
「ああああーーーーーーーーっ!!!!!」
夕紀は建物内に響き渡る程の大声で悲鳴を上げた。人間の出せる限界ではないかと思う悲鳴。
その声と光景が、脩には恐ろしく、腰を抜かして泣き始めてしまった。
夕紀は男の手を振り解こうと抵抗したが、どうにかなる様子はない。むしろ、掴んでは手の力が強くなり、指が肩に食い込み、そして体を持ち上げられてしまった。
「くあああああっ!ああああっ!」
飛びそうになる意識。
死ぬことが頭をよぎった。
夕紀は制服のスカートを捲り、右の太腿に装着しているナイフホルダーから、ナイフを逆手で取り出した。
そして、そのナイフを自分の左肩を掴む男の手に思い切り刺し込んだ。
軍服の男は明らかに苦しそうな顔に変化し、掴まれている手が少し緩んだ。
夕紀はそれを見て、更に深くナイフを差し込み、捻りを加えて抉った。
とうとう軍服の男は夕紀の肩から手を離し、姿をまるでホログラフのように“透けたり、はっきりさせたり”を繰り返しながら、後退りをした。
カラーンッ…
夕紀は逆手に持っていたナイフを落とし、その場に腰を着いた。
ナイフは、魔力を伝導できるミスリルコーティングしたものだった。霊体の男に直接刺せたのはそれが理由だ。
だがコーティングは焼け焦げ、ナイフの刃はボロボロになっていた。
「夕ねえちゃん!」
腰を抜かしてした脩が四つん這いで夕紀の元に近づいた。
「大丈夫!?夕ねえちゃん!」
返事をせず、夕紀は座ったままダルマのように地面に倒れた。左肩を押さえ、おでこに触れている髪は汗でべったり濡れていた。
「…う…うう」
「ねえちゃん!夕ねえちゃん!」
「にげ…にげ、て」
「嫌だよ!何言ってるんだよ!」
脩は完全にパニックに陥った。
大好きな夕紀を置いてはいけないが、助ける力は脩にはない。
軍服の男はチラついていた姿を元に戻すと、再び歩み寄ってきた。
「あ!あ!あああああ、どうしたらいいの!たすけてーー誰か助けてよーー!」
脩は力一杯叫んだ。いや、叫ぶことしか出来なかった。
軍服の男に目の前に立たれると、怖くて怖くて怖くて、逃げることも出来ず、咄嗟に出た行動は、夕紀に覆い被さることだった。
とてつもない恐怖の中にいてさえ、脩は夕紀を守りたかった。そして、今度こそ本当に死ぬと実感した。
バンッ!バンッ!バンッ!
ダメだと諦めた次の瞬間、重い銃声と、廊下の窓硝子の割れる音が聞こえた。
銃声を聞いたことのない脩は瞬間的にビクッと目を瞑り肩を竦めた。
銃が発砲されたのは建物の外からだった。弾丸は硝子を突き破り、軍服の男に向い飛んでいった。
”銃など”当たる訳がない。
瞬間、夕紀はそう思った。
しかしどうだろうか。
弾丸は、軍服の男に当たると、その部分が弾けたような光りを放ち、また体が“透けたり、はっきりしたり”をと繰り返した。
さらに軍服の男は、信じられないほどの大口を開けて人間の声のそれとは違う悲鳴を、耳を劈くような大声で、叫んだ。
薄れゆく意識が、その悲鳴で保たれる夕紀。霞む目で割れた窓を見ると、回転式の拳銃を構えてるシルエットが目に映った。
そしてその人物は、弾丸で割れた窓に向かってジャンプし、サッシごと背中から突き破った。
硝子は物凄い音を立てて粉々に散り、その人物は宙を舞う硝子片と共に建物に入り込み、空中で一回転し、廊下の床に着地をした。
それは背中に刀を背負った若い男だ。
一瞬遅れて、廊下に落ちるサッシや硝子片の音が廊下に響き渡る。
男は片膝を着いたまま両手でしっかりホールドした拳銃を、軍服の男に向け、更に三発の弾丸を撃ち込んだ。
銃声と、軍服の男の悲鳴が重なり、建物中に激しく反響した。
少しの間、悶えているように見えた軍服の男の姿は、薄れる悲鳴と共に霧のように消えた。
「…あ、消え…た」
脩は唖然としながら言った。
窓から飛び込んで来た男は立ち上がると、撃ち終えた拳銃を脇のホルスターにしまう。
「…よかった…マジで効いたぜ」
男は、苦笑しながら言った。
「だ…誰…ですか?」
脩は恐る恐る尋ねた。
だが夕紀にはその男が、“六堂”であることはもう気づいていた。
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