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第二十四話 落ち込む夕紀
悲劇の“ファーストキス事件”から二日が経った夕方。
“Secret story”のカウンター席で項垂れている制服姿の夕紀がそこにいた。
放課後、わざわざ電車を乗り継いで、家から遠い自由ヶ丘まで来た彼女は、注文したコーヒーも口をつけず、呆けた顔をしていた。
そんな彼女の様子を気にするでもなく、足元には“看板娘”のシャーロットが安心しきった風に丸くなって眠っていた。
「ねえ、その…“どうしたの?”って尋ねた方がいいのかしら?」
立っていたコーヒーの湯気が消えた頃、店のオーナーが苦笑しながら尋ねた。
「…いえ、いいです。もう、何から話していいかも、わからなくて」
オーナーは、スイングドアを開けてカウンターから出てくると、夕紀の隣に座って、頬杖をついた。
「まあまあ、どうせ暇だし、聞くわよ。話せるところから話してみなさいよ」
そう言われると夕紀は、とても深いため息をついた。
そして“記憶にない”ファーストキスと、“やらかした”話をした。
涼子から聞いた内容そのままに。
そして実は、この話には後日談があった。
当たり前だが、さすがにあれから目覚めた六堂も、自分が”臭う”ことには気づいたらしい。
彼は、せっかく高い店に行ったにも関わらず、酔いに任せて寝落ちしたことを謝ろうと渡辺に電話をしたのだそうだ。
その時「ところで何か俺、ゲロ臭いけど…?」と、電話で尋ねると、渡辺から出た話は、店で“揉め事”があったという。
店に遊びに来ていた若い娘が好きなマフィアが、夕紀を目に入れるなり、自分のテーブルに来いと言ってきた…という話だ。
嫌がる彼女を守るために渡辺が立ちはだかり、喧嘩になり、腹部に一発ボディストレートを喰らわせたら…
『…ってわけでよ、そいつゲロったってわけだ。それがお前にかかってさ…それでも起きないんだがら、驚いたぜ。ま、当分、あの店は出禁だな』
などという話を聞かされたようだった。
「全く気づかずに寝ててごめん、夕紀」と、渡辺の“あからさまな嘘の話”を間に受けた六堂から、今度は夕紀に謝罪の電話があった。
いくら裏社会御用達のバーとはいえ、あの店は高級店。そんなチンピラみたいな客はそうそう出入りしない。
渡辺の話を信じたのは、六堂がまだ経験の少ない若者だからか、純粋なのか…。
もっともÉtoile d'argentには当分出禁であることは事実だろうと、夕紀はそう思った。
そして特に“実感のない真実”を六堂に語ろうとも思えず、夕紀はただ落ち込むだけだった。
話を聞いたオーナーは眉を八の字にしながら、クスクスと笑った。
「酷い…笑い話じゃないですよ…」
高校生が酒を飲んでやらかした話など、クラスメイトに出来るわけもなく、ようやく他人に吐き出せたのだが、それを笑われては、恥ずかしいばかり。
夕紀は顔を赤くして、そっぽを向いた。
「あらあら、可愛いわね。そっか、六堂ちゃんのこと好きになったのねぇ。木崎君には、私からも叱っておくわ」
表情の変わらない夕紀を見て、まだ何かあることを察したオーナーは、緩くなったコーヒーを下げ、ミルクココアを用意してくれた。
落ち込んだ時は、苦いコーヒーより、甘いココアだと言うので、夕紀はせっかく出してくれたオーナーの気持ちに応えるように一口、二口飲むと、確かに甘さが、どこか落ち着く感じがした。
「…美味しい」
「でしょう?これ、ちょっといいブランドのココアなのよ」
さっきより、幾分、落ち着いた夕紀は、やらかしたことだけではなく、六堂には、“他に好きな人がいる”と聞かされたことをオーナーに話した。
「あら、それ…涼子ちゃんから?」
頷く夕紀。
オーナーは、不動産を幾つか持っていて、生計はそこからの収入で立てている。喫茶店は趣味で、あえて目立たない場所で営業しているのだ。
その不動産の一つに、埠頭の倉庫があったのだが、その内の一つが欲しいと買い取ったのが涼子だった。
オーナーと涼子は、その時からの知り合いだ。涼子も、たまに“ここ”に来るらしかった。
「そうです。伊乃には、深入りしない方がいいと…好きな人のこと…それと“もう一人の大切な人”のことを聞きました」
夕紀は、自分の落ち込ませた“ダブルパンチ”的な、涼子から聞かされた話をそのままオーナーに伝えた。
「…ああ、昨年の“あの事件”のこと聞いたんだ?」
夕紀の話を聞いたオーナーは、声のトーンを落とした。
どうやらオーナーも“その話”を知っているらしい。
「そうねえ…確かに好きになるには難しいわね、六堂ちゃんは」
話すことで、すっきりすることもあるとも言うが、六堂の件に関しては、オーナーも涼子と似たような反応だった。
結局、モヤモヤしたまま店を後にした夕紀。
帰りの電車から、暗くなった外をぼうっと眺めていると、ふとガラスに反射した自分の顔が、相当暗いことに気づいた。
夕紀は胸が苦しかった。
人を好きになることに理由はないが、それ故に叶わない恋だと知っても、その気持ちを簡単に止められないのが、恋愛感情の面倒なところ。
夕紀はまさに失恋のどん底にいた。
二十一時過ぎ。
「おやおや、夕紀じゃないか。こんな時間に帰りとは、まさかと思うがデートかい?」
上野駅から出たところ、ホームレスの“ダンさん”と出会した夕紀。
「はははぁ…そんなわけないよ」
夕紀は口だけで笑って見せた。
「何だ何だ、その寒い顔は。早く帰らんと爺様に怒られるんじゃないのか?」
「いいよ、別に」
投げやりな夕紀の様子を見て心配するダンさんは、「家まで送るよ」と言ってくれた。
「ううん、すぐ着くから平気だよ」
夕紀は、普通の女子高生でない。
六堂たちとチームを組んでからは時々帰りが遅いこともある。だから彼女の祖父は、帰りが遅いくらいでは一々怒りはしない。
だが、夕紀のことを心配なダンさん。
「いやいや、それはそうだが…家に着くまで話し相手になるよ」
「え?」
「…そんな暗い顔の夕紀を見るのは初めてだ。大方、失恋でもしたんじゃないのかい?」
“ホームレスだから”という偏見の目でこれまでダンさんを見てきたことはなかったが、彼の口から出るとは思えない言葉に、夕紀は目を丸くした。
そんな夕紀を見たダンさんは苦笑した。
「何だその目は?俺だって若い頃は恋愛の一つや二つ、してたんだぜ」
結局、家まで一緒に付いてきたダンさんは、若い頃の恋愛話をしてくれた。
熱烈に愛し合った奥さんがいて、二人の間には娘がいるらしい。
初めて聞いた話だ。
「…ずっと会ってはいないが、お前さんの三つ上だな」
かつてダンさんは、警備会社を経営してたことを知った夕紀は、驚いた。
施設警備専門で、大手スーパーや、美術館などとの契約も取り、経営は軌道に乗っていたそうだ。
だが、経営に大きく関わっていた友人が、奥さんと関係を持っていた。
それだけでもショックな話だが、人のいいダンさんは、その友人に騙され、会社の経営権も奪われたのだった。
何もかもを失い、自殺未遂をした過去があるという、そんな話をしてくれた。
「…一命は取り留めたものの、何もかもが嫌になり、こんな生活をしてるのさ…。ま、ここらの人たちは俺には優しいし、“何も持たない”気楽さをそれなりに満喫してるよ」
少し寂しげな笑顔を見せるダンさんは、それでも奥さんと愛し合った過去は事実。少なくともその時の愛はお互い本物だった。
それが辛いと言った。
夕紀は、その話を聞いて、自分の失恋が少しばかり小さなもののように感じた。
他人と比べるものではないが、自分はただの片想い。何かを他人に奪われたわけではない。
もちろん、Étoile d'argentでやらかしたことは、また別な話だが…。
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