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「俺もそうですけど、日本人の二人に一人は、なんらかのアレルギーを持っているらしいですね」
「聞いたことがあります。中でも、花粉症に代表されるアレルギー性鼻炎の患者は年々増加しているのだとか」
「えぇ。俺は今年で三年目です」
「私はかれこれ十年ほどの付き合いになりますか。学生の頃にはすでに悩まされていたので」
「へぇ。じゃあ俺より先輩だ」
「あまり胸を張れることではないですが」
確かに、と言って星乃は笑った。マスターも微笑み、今度はマスターから話を振ってきた。
「アレルギーといえば、三日ほど前でしたか。丸篠ホールディングスの事件で、ピーナッツアレルギーが話題になりましたね」
星乃は思わず拍手を贈りたくなった。今日ここへ訪れた理由の二つめは、まさにその件についてだった。
「マスターはどこまでご存じですか? 丸篠の事件について」
「ずいぶん含みのある言い方をなさいますね」
マスターは苦笑を漏らす。
「各種メディアの報道では不運な事故とされていましたので、それ以上のことはなにも。丸篠の創業者一族……前社長の奥さまが、ピーナッツアレルギーによるアナフィラキシーショックでお亡くなりになった。前社長が二ヶ月前にご病気で亡くなられたばかりだった。それくらいしか知りません」
星乃は深くうなずいた。おおむねそのとおりだった。
「ですが」
マスターは掃除の手を止めて言った。
「お客さまのご様子を拝見するに、ただの不運な事故ではないと、そういうことなのでしょうね」
ご明察です、と星乃はあっさり白旗をあげた。
「警察は事故ではなく、他殺をお疑いになっていると?」
「俺たちが、というより、ご遺族の方が事故の可能性はないと言いきっているんですよ」
「事故ではなく、誰かが故意に前社長の奥さまにピーナッツを食べさせた、ということですか」
「はい。だけど……」
他殺だとするなら、誰が、どうやって被害者にピーナッツを摂取させたのか。それがどうしてもわからないところが、本事案の悩ましいところである。
煎茶の湯飲みを握ったまま、星乃は苦笑いをこぼした。
はじめてこの店を訪れた一月以来、事件の捜査に行き詰まると、マスターの顔が頭に浮かぶようになった。
自分の手で事件を解決したいという気持ちがないわけではない。けれど、マスターならこの事件をどう料理するだろう。そんなことをふと考えてしまうのだ。
で、今回も結局ここへ来た。参考までにマスターの意見を聞いておこう、なんて尊大な態度を取るつもりはない。教えてください――そう頭を下げる覚悟で足を運んだ。
恥を忍んで、星乃は「マスター」と言った。
「二度めで恐縮なんですけれど……ここから先は俺のひとりごとってことで、話を聞いてもらえませんか」
ちらりと向けた視線の先で、『謎解き』の白い文字が躍っていた。聡明な名古屋の名探偵は、本事案をどのような視点で俯瞰するだろうか。
マスターは特別嬉しそうにするわけでもなく、数分前と少しも変わらない美しい微笑を湛えると、店先の看板を照らすライトを消し、扉のプレートを『OPEN』から『CLOSE』へとひっくり返した。
オーダーストップ。最後の客は、今日も星乃だ。
厨房に戻り、マスターは星乃のひとりごとに付き合う体制を整えて言った。
「お付き合いします。お客さまのお気の済むまで」
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