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『星乃巡査長、招集がかかりました。殺人の疑いあり。被害者(マルガイ)は丸篠ホールディングス前社長の妻、(しの)(おか)ひばりだそうです』  そんな電話がかかってきたのは、三月十二日土曜日、午後九時を少し回った頃だった。  ようやくからだじゅうにへばりついた花粉を風呂で洗い落としたところだったというのに、再びスーツに袖を通して外に出たらまた全身が花粉まみれになってしまう。憂鬱でたまらなかった。  夜通しの仕事になることもしんどいが、花粉との闘いはもっとしんどい。重い足取りで、星乃は自宅をあとにした。  東京ではなく、名古屋に本社を置く日本有数の大企業、丸篠ホールディングスの創業者一族が住む邸宅は、県警本部からそれほど遠くない尾張徳川家ゆかりの地、名古屋市(ひがし)白壁(しらかべ)にある。    丸篠ホールディングス。  もともとは戦前から続く不動産業で富を築いた家族経営の会社だったが、今やありとあらゆるビジネスに手を出し、ことごとく成功を収めているグループ企業である。本社は創業時から変わらず名古屋にあり、創業者一族が経営権を握る昔ながらのスタイルも長らく守り継がれている。  篠岡ひばりは、今からちょうど四十年前、二十歳の時に丸篠ホールディングスの創業者一族である篠岡家に嫁いだ、東京都出身の資産家令嬢だった。夫であり、先代の丸篠ホールディングス代表取締役社長であった篠岡宗之(むねゆき)とはいわゆる政略結婚で結ばれたそうだが、特に夫の宗之のほうがひばりにゾッコンだったらしく、社内でも評判のおしどり夫婦だったという。  夫の宗之の訃報が日本列島を駆け巡ったのは、ちょうど星乃がニセ強盗殺人事案をきっかけに『珈琲茶房4869』のマスターと出会った頃、一月二十日のことだった。死因は末期のがん。発見から幾月も経たないうちに、六十三歳という若さで急逝した。  宗之とひばりの間には五人の子どもがおり、一番上の長男、篠岡青羽(あおば)は三十歳という若さで取締役専務のポジションにつき、現在は副社長の地位につく三十七歳。飄々とした立ち姿とは裏腹に、堅実な仕事ぶりが高い評価を呼び寄せている若手の有望株だそうだ。四つ年下の妻、()(おり)との間に二人の子ども、すなわち、被害者である篠岡ひばりの孫がいる。十歳の長男、(まこと)と、六歳の長女、(あい)だ。  そんな有能な青羽でも由緒ある大企業の舵取りをするにはまだ少し早いと判断されたのか、宗之の死によって予期せず空席となった社長の椅子には、彼の実弟である篠岡和之(かずゆき)がついている。宗之の剛腕ぶりは歴代の社長をはるかに(しの)ぐとささやかれていたそうだが、和之もなかなかの策略家であると組織の幹部連中は口を揃えて言うのだとか。彼は妻、()()との間に子がおらず、近い将来、青羽が社長の座につく予定になっているそうで、「俺は所詮つなぎ役だよ」と漏らす姿もあったようだ。  丸篠ホールディングス関連では、上から数えて二番目の長女、福谷(ふくたに)(いずみ)――旧姓、篠岡泉の夫である福谷(こう)(すけ)が、企業法務を専門とし、丸篠の顧問弁護士を務めている。  副社長である青羽に次ぐナンバースリー、取締役専務の座につくのは大沢(おおさわ)道明(みちあき)という男で、創業者一族の人間ではないが、宗之・和之兄弟の父の時代から丸篠に仕え、実直な性格と確かな手腕で信用と信頼を勝ち取り、数年前から執行役員に就任している生え抜き社員である。  創業者一族に生まれついた男の中で、唯一丸篠で働いていないのが、上から数えて四番目の次男、篠岡朝日(あさひ)だ。彼はまだ大学三年生で、卒業後も関連子会社を含む丸篠グループで勤めるつもりはなく、専攻している機械工学の道を(きわ)めたいのだという。  上から数えて三番目の次女、篠岡(みどり)も、丸篠とはまるで縁のない職についている。駆け出しのファッションデザイナーで、普段は東京のデザイン事務所で鋭意修行中とのことだ。名古屋に帰ってくるのは正月休み以来らしい。  末っ子の三女、篠岡(さくら)は現在高校二年生。医学の道を(こころざ)しているそうで、受験勉強に明け暮れる日々を過ごしているという。  ここまでに名前の挙がった、篠岡ひばり、篠岡青羽、篠岡歌織、篠岡誠、篠岡愛、福谷泉、福谷浩輔、篠岡翠、篠岡朝日、篠岡桜、篠岡和之、篠岡惠美、大沢道明の十三名に加え、二十年以上前から篠岡家で住み込みの家政婦をしている保田(やすだ)紀代子(きよこ)を含めた十四名が、この日、篠岡邸につどっていた。三月十二日は篠岡ひばりの記念すべき六十回目の誕生日で、ささやかな還暦祝いが()りおこなわれていたらしい。  そのようなめでたい日に、事件は起きた。  パーティーの主役である篠岡ひばりが、ピーナッツアレルギーによるアナフィラキシーショックを起こし、尊い命を落としたのだ。
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