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班長を隣に乗せた捜査車両で現場に向かった星乃は、車両から降り立った瞬間、聳え立つ大豪邸に軽いからだの震えを覚えた。
「でっけぇ……!」
制服警官が警備に当たっている門扉が、まずもって立派だった。高さは二メートルを優に超え、物語の世界に登場する西洋の城を思わせる尖った装飾が施された鉄柵の扉である。
制服警官と互いに挨拶を交わし、開けてもらった門をくぐると、星乃は改めて邸の外観を見上げるように観察した。
邸周辺を囲む洋風の外灯と、建物から漏れ出す室内灯の光はともにあたたかみを感じる暖色系で、濃紺の夜空を照らす冴えた月の明かりも相まって、二階建ての建物の輪郭は夜でもくっきりと映し出されていた。
立派という言葉ではとても言い尽くせないほどの大豪邸だった。更地にすれば一般的な一軒家が三つは軽く建ちそうだ。
邸だけでなく敷地そのものが広大で、街を歩く人の視界を遮るように、やや背の高い生垣が周囲をぐるりと囲っている。絢爛なドレスをまとったお姫さまでも暮らしているのか。
ため息まじりに星乃はぼやいた。
「一度でいいから住んでみたいっすよねぇ、こんな城みたいな家」
「オレは遠慮する。広すぎて、どう暮らしていいのかわからん」
隣を歩く班長の意見は、庶民的だがもっともだった。確かに、これだけ大きいと何部屋も持て余すことになりそうだ。掃除もかなりの重労働になるだろう。
邸の扉まで続く石畳を歩きながら、星乃は向かって右手に広がる庭の中心に噴水を見つけた。庭に噴水のある豪邸。住む世界が違うというのはまさにこのことだと痛感した。
「ワンワンッ!」
「うわぁ!」
噴水に気を取られていて、左側にまったく意識が向いていなかった。左耳をつんざくような野太い鳴き声に驚いて振り返ると、邸の入り口前にある短い階段の脇に、黒いドーベルマンが控えていた。
「ワンワンッ!」
「わぉ、番犬までいるのね」
明らかに星乃を威嚇しているくだんのドーベルマンは体長一メートル強。シャープな顔に眼光鋭い目つき、闇夜に光る白い牙。なるほど、ヘタなセキュリティ対策よりよほど役に立つかもしれない。邸に馴染みのない警察官が大勢出入りしているせいで、少々気が立っているようだ。
「大丈夫。おにいさん、悪い人じゃないよ」
足音を立てないようにゆっくりと近づくと、賢いドーベルマンは威嚇の姿勢を解いた。星乃はなぜか昔から動物に好かれるタイプで、「よしよし」と頭や首を撫でてやると、ドーベルマンは「クゥン」と嬉しそうに喉を鳴らした。
「かわいいなぁ。そうか、メスか。名前は……イレーネ? アイリーンかな?」
首輪に下げられたシルバーのネームタグには『Irene』と刻まれていた。英語読みならアイリーン、フランスではイレーヌ、イタリアやポルトガルではイレーネと発音すると聞く。
「イレーネ」
ドーベルマンは返事をしない。
「アイリーン」
「ワン!」
今度は胸を張って一つ吠えた。彼女の名はアイリーンというらしい。素直ないい子だと、星乃はアイリーンをあちこち撫で回してから、改めて邸へと足を向けた。
「はっくしゅん!」
短い階段を上り、邸宅に足を踏み入れようとした瞬間、唐突にくしゃみの発作が起きた。
「はっくしゅん!」
「なんだよ星乃、おまえ犬アレルギーまで持ってんのか」
「いえ、持ってません。これは……花粉の……」
グズグズやり始めた星乃にあきれて、班長は「現場に入ったらくしゃみ禁止だぞ」と釘を刺した。わかっている。星乃だって、無闇に鑑識係と睨み合うことは避けたい。
くちゅ、と女子がするように音を抑えたくしゃみをしながら、右手の親指と人差し指で小鼻をつまみ、迎香というツボを刺激する。鼻づまりなど花粉症の諸症状を軽減してくれるというが、気を緩めると透明な鼻水が滝のように流れ出るので、効果のほどは定かではない。
どうにか発作が治まったところで、星乃はマスクや足カバーなど現場保存のための装備を身につけ、現場へと踏み込んだ。篠岡ひばりが息絶えたのは、建物の一階にある寝室でのことだと聞いていた。
一般家庭のリビングと同等の広さがあり、しかし内装の絢爛さはそれほど感じられない、シンプルで落ちついた部屋だった。
扉を開けて左手には、手前から本棚、ロッキングチェア、デスク一式、四十インチのテレビ、背の高い観葉植物。デスクの上にはラップトップPCが一台、ディスプレイの閉じられた状態で置かれていたが、鑑識係が中身を調べるために押収したと聞かされた。
中央にはソファが二台と、その間にガラス天板のローテーブル。正面奥、バルコニーへと出られる大きな窓にはモスグリーンのカーテンがかかっている。
そして、入って右手側。手前から洋簞笥、西洋アンティーク風のドレッサー、キングサイズのベッドとナイトテーブルが順に並ぶ。ドレッサーの椅子には被害者のものと思われる革製のハンドバッグが置かれており、財布やスマートフォンなどが入れられていた。
それ以外に目を引いたのは、ベッドの脇に用意されたペットのためのトイレと寝床、天井に向かって伸びるキャットタワー――猫用の登り木だった。今はその姿は見えないが、邸の外につながれていたドーベルマン、アイリーンだけでなく、この邸では猫も暮らしているらしい。
被害者である篠岡ひばりは、広々としたベッドの上で動かなくなっているところを発見されたという。うつぶせ寝の状態で、発見時にはすでに脈がなく、近隣の病院へ緊急搬送されたが、まもなく死亡が確認された。
篠岡ひばりは重度のピーナッツアレルギーを持っており、検視の結果、死因は当該アレルギーによってアナフィラキシーショックを起こし、呼吸器不全に陥ったものと判断された。ピーナッツを食べることで喉が炎症を起こして腫れ、気道を塞いでしまうのだという。
だが、病院へ連れ添った長男、篠岡青羽の証言によれば、その日ひばりが口にしたものの中にピーナッツが含まれていた可能性は万に一つで、事件性ありとして警察が本格的に出動。事故と事件の両面から捜査が始まり、今に至る。
きれいに整えられた寝室の中で、遺体が下敷きにしていたと思われるベッドの上の掛け布団だけが乱れていた。咳き込んだ際に吐き出したらしい嘔吐物の痕跡も見られ、やや茶色っぽく変色している。
第一発見者は家政婦の保田紀代子で、ひばりの遺体に近づいた際、口もとからかすかにピーナッツクリームのような甘いにおいがしたのに気づき、アナフィラキシーショックが起きたのだとすぐにわかったとのことだった。
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