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「事件が起きたのは、午後七時三十分から八時三十分の間と思われます」  この地域を管轄する所轄署の若い刑事が、かけているスタイリッシュな眼鏡に時折手をやりながら順を追って説明してくれた。 「今日は被害者の誕生日で、親戚や丸篠の執行役員らが集まって還暦祝いの晩餐会を開いていました。会のスタートは午後六時、参加者は被害者の篠岡ひばりと住み込みの家政婦を含めて総勢十四名。うち五人が被害者の実子です」  上から順に、長男の篠岡青羽、長女の福谷泉、次女の篠岡翠。この三人はそれぞれ独立しており、現場である篠岡邸には住んでいない。翠に至っては東京都在住である。  この邸に住んでいるのは、学生である次男の篠岡朝日と三女の篠岡桜。被害者である篠岡ひばりと、家政婦の保田紀代子の四人で暮らしていた。 「還暦祝いねぇ」  班長が鼻の頭をかきながら言う。 「よくやるよなぁ。つい二ヶ月前に被害者の夫が病死したばかりだっつーのに」 「だから開いたそうですよ、あえて。被害者の篠岡ひばりは、夫である篠岡宗之を亡くしてから目に見えて老け込んだと言われていたそうです。軽いうつ病のような症状も出ていたとか」  所轄署の若手刑事の補足説明を聞き、班長は「なるほどな」とうなずいた。 「被害者を元気づけてやりたくて、家族が考えて開いた会だったってわけか」 「えぇ。亡き夫の篠岡宗之が還暦を迎えた三年前にも同様の会を(もよお)したそうで、せっかくだからやろうという話になったとの証言がありました」  班長は納得した顔で再度うなずき、「娘たち以外の参加者については?」と先を促す。 「丸篠の現社長であり、二ヶ月前に病死した篠岡ひばりの夫である篠岡宗之の弟、和之と、その妻、惠美。それから、長男の青羽の妻、歌織と二人の子ども……誠くんと愛ちゃん。親類縁者以外では、丸篠で取締役専務を務める大沢道明と、住み込みの家政婦である保田紀代子。本当はもう一人、取締役常務の井守(いもり)雅男(まさお)という人物が参加する予定でしたが、おとといから体調を崩していたため、大事を取って不参加になったそうです」 「さぞかし賑やかなパーティーだったろうな」  皮肉をこぼし、班長は室内を広く見渡すように視線を動かす。 「しかし、どうして遺体発見現場がこの寝室だったんだ? 晩餐会って言うくらいだから、みんなで食事をしたんじゃないのか?」 「(うたげ)がお開きになるまでは、被害者の体調に変化はなかったそうですよ」  答えた所轄署の若手刑事は、眼鏡をそっと押し上げてから手もとのノートに目を落とした。 「還暦祝いの晩餐会が催されていたのは、ここと同じ一階にあるダイニングルームでした。午後六時には欠席の井守雅男を除く十四人が集合し、会食を開始。宴がお開きになったのは午後七時半頃のことで、被害者である篠岡ひばりは一人でこの寝室へと引き上げたそうです」 「じゃあ、被害者はこの部屋に戻ったあとで、ピーナッツを口にしたってことか」 「おそらく。もしも晩餐会で出されたものの中にピーナッツが含まれていたのだとしたら、ダイニングルームにいる間に倒れていたでしょうからね」  そもそも、と所轄署の若手刑事は続ける。 「ピーナッツアレルギーだったのは被害者だけではなく、三女の桜も同じアレルギーを持っているそうなので、もしも晩餐会で出た食事の中にピーナッツが含まれていたなら、桜にもアレルギーの症状が出ていなければ辻褄が合いません」 「でも、被害者だけが口にしたものの中に入れる、ということは可能ですよね?」  星乃が意見を出すと、「もちろんです」と所轄署の若手刑事はうなずいた。 「ですが、ご存じのとおりピーナッツは味もにおいも独特です。被害者は外食を含めた日々の食事の際に徹底してピーナッツを除去していたとのことですから、少しでも疑いを持てば口をつけることはあり得ないと考えていいと思います。それに、食物アレルギーは摂取直後に症状が現れますので、やはり宴会中の摂取という可能性は低いかと」 「てことは」班長が言う。「被害者は宴のあとにピーナッツを口にした。つまり、この寝室にあるなんらかの食品から摂取したっつーわけか」  星乃と班長がぐるりと室内を見回す脇で、若手刑事の視線がベッドサイドのナイトテーブルの上に注がれた。シルバーのトレイの上に、中身がからのティーカップとティーポットが載せられている。 「唯一の飲み物があのカモミールティーなんですが、あれは第一発見者である家政婦の保田紀代子と、被害者の孫の篠岡愛ちゃんが二人でここへ運んだものです。遺体を発見したのはその時で、時刻は午後八時三十分。被害者は夕食後にカモミールティーを飲むのが日課になっていて、八時半頃に部屋へ運べと保田に指示したのも被害者だったそうです。当たり前のことですが、あのティーセットがこの部屋に到着した時には、被害者はすでにベッドで息を引き取っていました」 「ちょっと待ってください」  星乃が挙手する。 「それっておかしいじゃないですか。この部屋には他に食べ物や飲み物がなにもないのに、被害者は一体なにと一緒にピーナッツを口にしたんですか?」 「そこが今回の一番の問題点なんですよ」  所轄署の若手刑事は困り顔で腰に手を当てた。 「食品の()き箱や封の開いた包装紙なども見つかっていないので、ピーナッツの摂取経路がさっぱり掴めないんです。被害者が自主的に食べたのだとしても、ゴミが出ないのは不自然でしょう?」  そのとおりだ。見た目にはわからないように摂取させるなら、食べ物あるいは飲み物にこっそり含ませるしか方法はないはずなのに、被害者がこの寝室の中でなに一つ飲み食いした形跡がないというのは腑に落ちない。  班長が一つの可能性を口にする。 「被害者は今日で還暦なんだろ? 常用している薬とか、そういうものはなかったのか?」  所轄署の若手刑事は即座に「ありません」と答えた。カプセルタイプの内服薬ならその中にピーナッツを入れられるかも、なんてことを班長は考えたようだが、どうやら当てがはずれたらしい。
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