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 磨りガラスのスライドドアで間仕切りができるようになっているダイニングルームは、もともと扉が半分閉まった状態から、すべて閉めきって会話が漏れ聞こえないようにした。  星乃と班長の二人が青羽の向かい側の席につくと、「すいませんね」と青羽は長い足をテーブルの下で組んだ。『珈琲茶房4869』のマスターほどではないが、高級そうな濃紺のセーターと黒いパンツに身を包んだ青羽もなかなかの男前だった。 「お察しのとおり、母や兄弟との仲はよくありません。故人を悪く言うのは不本意ですが、正直、母のせいだと私は考えています」 「お母さまのせいで、ご兄弟の仲が悪くなったと?」  班長が確認するように問うと、青羽は悪びれもせず「えぇ」と言った。 「母は偏った思考の持ち主でした。父のことを心の底から愛していて、父のためにも、長男である私のことを父の後継者として立派に育て上げようとした。今どき、上場企業で同族経営なんて流行(はや)りもしないだろうにね。私なんかより、子会社を動かしている人たちのほうがよっぽど出来がいいですよ。安東(あんどう)さんや兼田(かねだ)さんあたりがうちのトップになってくれたらおもしろいのになぁ。安東さんなんて、学生時代に起業して、その会社をうちの子会社に吸収合併させたんですよ。商才のある方ですから、合併後は当然のように経営に口を出すわけで、実質、乗っ取りです。かなりの切れ者だし、度胸もある。だというのに、親会社の舵取りなんてつまらないと言って、子会社の経営から手を引こうとしないんですよ。現場に近いほうがおもしろいっていうのは非常によくわかるんですけどね……」  おしゃべり好きなのか、訊いてもいない会社の裏事情を散々しゃべってくれた青羽だったが、ようやく「すいません、話が逸れました」と言って自ら軌道修正をかけた。 「私とは対照的に、泉以下四人の子に対して、母はほとんど無関心と言ってよかった。純粋に、父との情事の結果としか思っていない節があって、どんな子に育とうが興味はない、金は出すから自由に暮らしてくれ、という素っ気ない態度が当たり前でした。父は仕事人間で家庭を(かえり)みることがなかったので、この家は事実上、母の天下だったんです」  なるほど、少なくとも青羽と他の四人の兄弟仲は悪くなりそうな雰囲気である。自分だけを篠岡家に縛りつけた母親を青羽が嫌うのも納得だった。 「涙も出ません」  青羽はなんの感情もこもらない声で言った。 「母がピーナッツを食べて死んだ。あぁ、そうですか。ご愁傷さま。薄情と思われるでしょうが、俺の心情はそんなものです。母が生きていようが死んでしまおうが、俺の人生がこの先変わることはない。俺は死ぬまで、丸篠のために働く忠実な(いぬ)だ」  一人称が自然と「私」から「俺」に変わっていた。刑事と向き合っていることさえ茶番だとでも言いたげに、青羽はさらりとした黒い髪をかき上げた。 「俺になにかを期待するのは無駄ですよ。俺は事件とは無関係です。母を嫌う気持ちと、母を殺したいと願う気持ちは、イコールで結びつくものではない。還暦祝いがお開きになったあと、母とは顔を合わせていません。子どもたちを風呂に入れて、上がってからはリビングで少し翠と話をして、それからまた子どもたちの世話に戻った。それだけです。客間は母の寝室から一番近いので、俺が疑われるのはわかります。俺だけじゃなく、今日この家にいた者は全員疑われているのでしょうが、俺に言わせれば、母を殺す勇気のある者なんて誰一人いませんよ。だいたい、重篤なピーナッツアレルギーだからと言って、致死率百パーセントというわけじゃないでしょう? そんな、死ぬかどうかもわからない曖昧な手段を用いて殺人なんて起こそうとは思いませんよ。事故に見せかけるにしたって、確実に死ぬ方法じゃなきゃ怖くて実行できないのが普通だと思いますけどね、俺は」  こちらに口を挟む隙を与えることなく、青羽は一息にまくし立てた。 長い演説がようやく終わったところで「おっしゃるとおり」と星乃が素直に同意したら、隣に座る班長から鋭い視線が投げつけられた。だってそうでしょう、といった風に睨み返したらさらに機嫌を損ねた顔を班長がしたので、もうなにも言うまいと星乃は固く口を閉ざし、班長と青羽とのやりとりにひたすら耳を傾けることにした。 「お父さま……宗之氏の遺産の関係はいかがですか?」  班長がさっそく深いところをつつきにいく。 「被害者であるお母さまが、遺言によって法定の額を超える遺産を手にしたと伺いましたが」  はぁ? と青羽は心底あきれかえった顔をして、 「父の遺言ねぇ。あんなの、母が父を(そそのか)して作らせたに決まってますよ。子どもたちには自力で稼がせればいい、とかなんとか言ってね。そもそも、うちは丸篠の創業者一族です。遺産なんかもらわなくても、それぞれがそれなりの額の個人資産を持っている。篠岡家の人間がカネに困っているなんて話、刑事さんは信じるんですか?」  と言った。  ぐうの()も出ない正論だった。
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