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女子大生が扉を開けた時にふわっと広がったコーヒーの香ばしいにおいが、ほどよくあたたまった店内に入るとより一層強く香って気分が上がる。はじめてコーヒーをうまいと思ったのは中学生の頃で、今では立派なカフェイン中毒者だった。
「いらっしゃいませ」
白いシャツに深いグリーンのエプロンを身につけた店主らしき男性が、さわやかな笑顔で出迎えてくれた。まっすぐ目が合うと、星乃は一瞬、彼の醸し出す独特の色気にたじろいだ。
目、鼻、口と、図ったように均衡の取れた顔立ちは、派手ではないが薄くもなく、どこか中性的な雰囲気があった。同性の星乃でもうらやましさを覚えるくらいに美しく、人を惹きつける不思議な力を感じる。
女性が元来持つような、内側からにじみ出る上品さを彼から感じる理由は、肌が白いことと、男にしては背が低い点にあるようだ。
一八〇センチの長身に広い肩幅というガタイのいい星乃と並ぶと、店主の男性はなおのこと小さく見える。身長は一七〇センチに満たないだろう。年齢は星乃とさほど変わらない二十代後半から三十代前半あたりで、『マスター』と呼びたくなるような貫禄をまとうまでには至っていないが、深緑のエプロンはよく似合っていた。
店主の男性が、レジの前から星乃の立つ側へと出てきた。
「お一人さまですか?」
「はい、一人です」
「すいません、少しお待ちいただければテーブル席もご用意できるのですが」
言われて店内を見渡すと、店は扉を入って右側に大きくスペースを取ってつくられていた。向かって右手、歩道に面した窓側に、今しがた店を出た四人組の女性が座っていたらしき四人掛けのテーブル席がある。その奥にもう一つ、同じく四人掛けのテーブル席があるが、七十代前後の男性二人が陣取り、世間話に花を咲かせていた。
向かって左手にはオープンキッチンタイプの厨房と、向かい側にカウンター席が四つ設けられていた。通路は広く取られており、突き当たりにトイレの扉が見える。
ブラウンを基調とし、グリーンを差し色として使ったインテリアで全体的にオシャレに飾られているが、全部で十二席しかない、売上にこだわらず趣味で開いているような狭い店だった。
「いいですよ、カウンターで」
答えながら、星乃はカウンター席に視線を向ける。座っている客は一人もいなかった。
「かしこまりました。どうぞ、お好きなお席へおかけください」
店主に促され、星乃は店の入り口扉からもっとも遠い、一番奥のカウンター席に腰を落ちつけた。親切なことに、足もとに荷物を置けるようカゴが用意されていたので、ショルダーバッグと丸めたロングコートを遠慮なく入れさせてもらう。
レジの横、星乃の座った席から一番遠い席の左脇が厨房の出入り口になっている。店主の男性は水の入ったグラスとおしぼりを片手に星乃の席までやってきた。
「ご来店ありがとうございます。メニューはそちらのボードに掲示しております」
店主は右手で星乃の頭のすぐ右上をさした。壁にかけられた黒地のボードに、白いマーカーでドリンクやフードのメニューが丁寧に手書きされている。ドリンクはテイクアウトもできるようだ。
星乃は促されるままボードに目を向けたものの、細かくは目を通さなかった。頼みたいものはホットコーヒーと決まっていたので、迷いなく注文する。
「かしこまりました」と星乃に対し恭しく頭を垂れて厨房へ戻り、慣れた手つきでコーヒーを淹れ始める店主の姿を目の端に映しつつ、星乃は足もとのショルダーバッグからA5サイズの黒いリングノートを取り出した。捜査の際、メモを取るために必ず持ち歩いているもので、罫線の走る白い紙はびっしりと小さな文字で埋め尽くされ、まもなく一冊使いきろうかというところまで残りのページが少なくなっている。
メニューボードの美しい文字とは違い、走り書きで読みにくい自分の字を睨みながら、星乃は小さくため息をついた。
一言で説明するなら、発生したのは強盗殺人事件である。
しかし、現場はどこを切り取っても違和感だらけで、考えれば考えるほど心のモヤモヤは募っていった。このまま近隣の聞き込みを続けることが本当に正しい捜査なのかどうか、どうにも納得できないでいる。
そもそも、この事件は本当に強盗殺人なのか? 疑問の出発点はそこからだった。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」
待ち時間はほとんどなかったが、店主は型どおりの文句を口にしながら、星乃の前にコーヒーカップとオモチャのように小さなミルクのピッチャーを置いた。ソーサーの上にはカップと一緒にシルバーのティースプーンが載せられ、砂糖はスティックタイプのものがカウンターに備えつけられている。
今さらながら、カフェオレにすればよかったと後悔した。星乃は大の甘党である。今日みたいに寒い日は特に、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーが恋しくなる。
右斜め上のメニューボードを改めて見てみると、カフェオレもきちんとラインナップされていた。よく考えずに注文してしまった自分がいけないし、店主はこの中から選ぶようしっかり言い添えてくれていたのだから文句のつけようもない。潔くあきらめて、スティックシュガーを二本使うことにした。
メニューボードから視線をはずしかけた時、ふと、ボードの下端の文字に目が行った。
――『謎解き』?
左側にドリンクメニュー、右側にフード・デザートメニューと横書きで書き並べられているのだが、右隅、デザートメニューの下に『謎解き』という不可思議なメニューがあった。
デザートの名前なのかと思いきや、値段は『Free』と表示されている。つまり、0円。失礼ながら、狭い上に空席もあるこの店が、タダで食べられるデザートを提供できるほど儲かっているとは思えなかった。
好奇心をくすぐられる。『シャーロック・ホームズ』シリーズをはじめとする探偵小説には明るくないが、知らないことを知りたいと思う気持ちは人並みに持ち合わせていた。
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