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 星乃のひとりごとに熱心に耳を傾けていた『珈琲茶房4869』のマスターは、話に一段落がつくと、嬉しそうに口を開いた。 「ピーナッツアレルギーによる死亡事案と聞きますと、『緋色(ひいろ)残響(ざんきょう)』を思い出します」  前回同様、星乃にとって耳慣れないワードが飛び出した。マスターの推理小説マニアぶりが今回も炸裂しそうである。 「それも推理小説ですか」 「えぇ。著者は長岡(ながおか)弘樹(ひろき)、夫を亡くした刑事のシングルマザーと中学生の娘が活躍する短編ミステリです。事件の被害者はピーナッツアレルギーを持っていて、ピーナッツが含まれていないことを入念に確認したビスケットを食べたのですが、その直後に急死。警察による検視の結果、ピーナッツアレルギーが原因だと判明します」 「うわぁ、似てる……!」  展開は少し異なるが、食べたはずのないピーナッツが原因で死ぬという点においては一致している。  創作と現実を比較するのはいかがなものかと思いつつ、参考までに――と言いながら、ほとんど前のめりになって――星乃はマスターに尋ねた。 「それで、その小説ではどうやって被害者にピーナッツを食べさせたんですか?」 「いえ、故意に食べさせたわけではないです。というか、あの作品の肝はその点ではなくて……」  そこまで言って少し言葉を切ると、マスターは曇りのないさわやかな笑みを浮かべた。 「そういう意味でも、あの短編はお客さまが追いかけていらっしゃる事件と似ているかもしれません。被害者がピーナッツを口にした経路については、どちらの事件も問題にする必要はないと思いますので」  なんだって? 星乃は勢い余って椅子から腰を浮かせた。 「まさか、マスター……?」  この人にはすでに、事件の真相が見えている――?  目を見開く星乃に一つ美しい微笑を贈り、マスターは朗々と語り始めた。 「先ほどご紹介した『緋色の残響』の中でも述べられていることですが、罪を犯す者というのは、得てして安心材料を欲するものです。犯行に対する抵抗感や罪悪感を軽減しようとする行動もその一つですし、なるべく自分に疑いの目が向かないように偽装工作をすることもある。今回の事件関係者の皆さんから直接お話を伺って、お客さまはどうお感じになりましたか? どなたかの言動に作為的な印象をお持ちになったでしょうか?」  問われるままに、星乃は事件当夜の記憶をたどった。  長男の篠岡青羽は、母親に対する嫌悪感を(あら)わにしたり、晩餐会終了後の一時間の行動について、事件現場である寝室に近い場所にいたことを素直に認めたりと、隠しごとをしている素振りはなかった。  長女の福谷泉は晩餐会終了後すぐに邸を出ているので、それ以上の証言が出てくるはずもない。  次女の篠岡翠は聴取の最中に泣いてしまいほとんど話を聞けなかったが、晩餐会終了後の一時間は家政婦の保田紀代子や青羽の妻、篠岡歌織と行動をともにしていたことがわかっている。なにより彼女は重度の猫アレルギーをかかえており、くしゃみなどのアレルギー症状が現れたのは事件発覚後、被害者の飼い猫が寝室の外へと追い出されたあとのことだったと家族が証言していることから、彼女が被害者の部屋へ入ったことはほぼあり得ないと言っていい。  次男の篠岡朝日、三女の篠岡桜については、晩餐会終了後すぐに二階の自室へ引き上げたと証言し、それぞれアリバイはない。しかし、二人ともアリバイがないことで不安そうにする様子はなく、どこか他人事のように事件を静観する姿勢であったのは、やはり事件とは無関係だったからと考えるのが自然であるように思えた。  晩餐会終了とともに帰宅した福谷浩輔、篠岡和之、篠岡惠美、大沢道明の四名については、こっそり邸に戻って被害者にピーナッツを食べさせたという線を検討した結果、ほぼ不可能という結論が出た。  玄関扉はオートロックのため、外へ出れば勝手に錠がかかる。開けるには鍵が必要だが、四人とも所持していない。  なおかつ、玄関先には篠岡家の優秀な番犬、アイリーンがいた。昨夜アイリーンが吠えたのは、晩餐会の出席者が続々と訪れた午後六時頃と、救急隊員や警察が到着した時だけだといい、誰か一人でも邸に戻ってくることがあれば、アイリーンの吠え声を邸にいた者が聞いていなければ辻褄が合わない。  従って、四人のうちの誰かによる犯行という線は極めて低いと思われた。そもそも四人とも、被害者の寝室には一歩も足を踏み入れていないそうだ。 「そう言われると……」  星乃は再び椅子に腰を落ちつけて言う。 「確かに、誰の証言にもうそをついているような印象は持たなかったです。被害者を殺害する機会があったことを素直に認める人もいたくらいだし」 「はい。私もお客さまのお話を伺っていて、そう感じました」 「でも、マスターには犯人がわかっているんですよね?」  マスターはうなずかなかった。代わりに「視点を変えてみましょう」と言った。
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