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 絶対にそうだ、とマスターは言わなかった。 「事件関係者の中には、被害者にピーナッツを食べさせるための時間的余裕のある方が確かにいらっしゃいました。ですが、被害者に気づかれず故意にピーナッツを摂取させるユニークな方法云々(うんぬん)よりも、遺体発見時の状況の不自然さのほうがはるかに気になるポイントでした。先ほどお客さまがおっしゃったように、被害者の状態は、助けを呼ぼうとしたとはとても思えないものだった。これは発想を転換させれば、助けを呼ぶ気がなかった、と考えることができます。そうだとするなら、パターンは二つですね」  星乃は深くうなずいた。 「一つは、自分を殺そうとした加害者の行為を素直に受け入れた場合。もう一つは、被害者自身が毒の代わりとしてピーナッツを自主的に食べた場合……すなわち、自殺」 「おっしゃるとおりです。では、どちらもあり得るという状況の中で、お客さまが自殺だとお考えになった理由は?」 「被害者には生前、夫を亡くしたことがきっかけでうつ病の症状が出ていたという話がありました。それに、自殺ならピーナッツの摂取経路についても頭を悩ませる必要はありません。ピーナッツを食べれば死ぬとわかっていた被害者にとって、たった一粒のピーナッツを用意することは他のどんな自殺の方法と比べても圧倒的に楽ですし、一粒だけならティッシュにくるんでデスクの引き出しの奥にでも入れておけばいい。家政婦の目を(あざむ)くことはたやすいです。遺書がなかった点が気になりますが、被害者が死んだあとに遺されるのは、身内に限れば、関係があまりよくなかったという子ども五人。今さらかける言葉などないと考えて遺書を用意しなかったのだとしても不思議じゃありません。事件関係者についてはそれぞれ詳しく調べましたが、被害者とトラブルになっている者はなく、これといった動機が見当たらなかったことも踏まえると、自殺と判断するのが妥当だと考えました」  マスターはゆっくりとうなずいて、「異論ありません」と言った。  しばしの沈黙が訪れる。店内に流れる優雅なジャズは、今日に限っては少しの心の癒やしにもならなかった。 「あーあ」  行儀が悪いとわかっていながら、星乃はカウンターテーブルに突っ伏した。 「なにやってんだろ、俺。遺書がないから自殺じゃないって、最初から決めつけてました」 「逆のパターンもありますからね。『遺書はあるが、自殺じゃない』。……すいません、あまり慰めにはなりませんか」  星乃は机に突っ伏したまま首を振る。マスターが優しい人だということはわかっているから、むしろグサグサきたとは死んでも口にできなかった。 「ものすごく、つらかったのでしょうね。被害者の方は」  顔を上げると、マスターはどこか遠くを見るような目をして語っていた。 「想像の域を出ませんが、二ヶ月前に最愛のご主人を突然亡くされて、生きる希望を失ってしまったのでしょう。丸篠の創業家に嫁ぎ、夫の顔に泥を塗らないような立派な跡継ぎを育てることが、彼女の果たすべき使命だった。夫のために、夫のために……そうやって気負うあまり、いつの間にか、ご主人の存在そのものが彼女の生きがいになっていたのだと思います。そのような方が最愛のパートナーを失うことは、生きる意味を失うことと同義です。賛成はしませんが、死を選ぼうとした彼女の気持ちはわからないでもない」  マスターはそっとまぶたを閉じた。 「最愛の人を失う痛みは、当事者にしか絶対に理解できません。篠岡ひばりさんのご心痛を想うと、胸が張り裂けそうです」  震える語尾を耳にして、星乃も胸が痛むのを感じた。  具体的な言葉にしなくとも、伝わってくるものはある。  カウンター越しに静かに佇むこの人も、ひょっとすると、『当事者』なのではないだろうか。 【二作目『緋色の残響/長岡弘樹』 了】
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