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「だからぁ!」  星乃(ほしの)顕人(けんと)の目と鼻の先で、被疑者の女が味気ない灰色のデスクを平手で叩いた。 「さっきから何回も言ってるでしょ! 私はなにもやってない! 茅野(かやの)くんとも昨日が初対面だった! バーで飲んでたはずが、気づいたらあのホテルの部屋にいて、それで……」 「隣で茅野(こう)さんが死んでいた、ね」  ついついうんざりした調子で話してしまう。かれこれ一時間近く、同じ押し問答をくり返している。  殺人事件の取調べだった。帳場(ちょうば)の立った所轄署の取調室で向かい合って座る彼女は事件の最重要参考人。というより、九十九.九パーセント、彼女の犯行で間違いない。  遺体が見つかったのはラブホテルの一室だった。料金を精算し、チェックアウトするまで扉の鍵が開くことはなく、部屋から出られないという極めて特殊な環境の中で、彼女は一夜をともにしたというのである。  喉にナイフを突き立てられ、驚愕の表情を浮かべて絶命した男と。 「申し訳ないですけどね、津下(つげ)さん」  星乃は被疑者、津下実久里(みくり)に声をかけながら、手もとのノートを津下に中身を見せないようにそっと開いた。 「あなたのご意見はよくわかりました。事件当時の記憶がほとんどないと、そうおっしゃるわけだ」 「そうです。仕方ないでしょ、寝ちゃってたんだから」 「えぇ、本当に眠ってしまっていたのなら仕方がないです」 「いい加減にしてよ!」  津下がいよいよ椅子を蹴って立ち上がった。 「だいたい、なんで私が見ず知らずの男を殺さなきゃなんないわけ!?」 「見ず知らずってことはないでしょう。昨晩、楽しくお酒を飲み交わした仲じゃないですか、あなたと茅野さんは」 「それは……その場の勢いっていうか」  ノロノロと腰を落ちつける津下の姿にあきれてため息をつきそうになるのをぐっとこらえ、星乃は言う。 「津下さん、これで最後にしますから、確認のためにもう一度最初から話していただけますか? あなたと茅野皓さんがバーで出会ったあたりから」  勘弁してよ、と津下はデスクに両肘をついて頭をかかえた。もともと色白な顔面は疲労のせいか青く見え、胸のあたりまでまっすぐ伸ばされた茶髪はツヤのかけらもない。まぁまぁの美人が台無しだった。  だが、疲れているのは星乃も同じである。今日は土曜。待ちに待った非番だったはずが朝っぱらから駆り出され、夜中まで飲んでいた酒が抜けきっていなかった。  あちこち歩き回って証拠をかき集めるのも大変だが、こうして誰かと面と向かって話をするという行為も想像以上に体力を使う。声が嗄れる前に、星乃は一旦取調室を出て喉を潤し、被疑者の分の緑茶を紙コップに入れて戻った。  津下は差し出されたコップの中身を一気にからにすると、デスクに片肘をついて頭を預け、気怠げに語り始めた。
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