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「仕事帰りに、一人であのバーに行きました。会社から近くて、ちょくちょく顔を出すお店です。昨日、会社を出たのは午後七時半頃。社員証で出退勤をデジタル管理されてるんで、調べてもらえばわかります」
「店に着いたのは何時?」
星乃はこうして時折津下に質問を挟んだ。「八時前かな」と津下は斜め左上を見ながら答えた。
「金曜だったんで、結構賑わってました。カウンター席に案内されて、つまみを夕飯にしながらお酒を飲みました。それで……」
津下が前髪をかき上げる。淡いピンクのネイルを施した指はほっそりしており、一五〇センチほどしかない彼女の小柄なからだとよく釣り合っていた。
「九時半頃だったかな。突然、茅野くんに声をかけられたんです。三つ隣の席で飲んでたって言ってたけど、私、全然気づいてなくて」
「茅野さんが声をかけてきた理由は?」
「私のひとりごとが気になったって言われました。スマホで検索した文章を、知らないうちに読み上げていたみたいで」
「なにを検索したんですか」
「それは……えっと、恋の名言、みたいなやつを」
ふぅん、と星乃は心底つまらなそうにつぶやいた。恥を捨てて正直に答えたことは評価するが、その内容はいかがなものだろうと思う。彼氏にフラれたばかりだとか、そんなところか。
「それで?」
星乃が先を促すと、津下は咳払いを一つ入れてから話を再開した。
「茅野くんが私の隣の席に移動してきて、一緒に飲みました。N大学で欧米の文学について学んでいる学生だと名乗られて、私がつぶやいた、その……恋の名言、みたいなやつが有名な戯曲の一節だったのでつい声をかけちゃった、と言ってました。向こうにも連れはいなくて、会話もすごく弾んで。十時には帰るつもりでいたんですけど、一度トイレに立った時には十時半を過ぎていました」
「トイレに行ったのはあなたですか?」
「そう、私」
「茅野さんは?」
「さぁ、どうだろう。カウンター席だったので、店のマスターなら覚えてるかもしれないですね」
星乃はちらりとノートを見た。
津下と茅野が出会ったというバーは、愛知県を東西に二分した時の東側、三河地方にある刈谷市の中心地に店を構えている。まもなく正午だが、ランチ営業はしておらず、店主にアタックしている別の捜査員からの報告はまだない。自宅で寝ているのか、仕入れにでも出かけているのか。とにかく、捕まらないのだろう。
「午後十時三十分というのは、ご自身で時間を確認した?」
「はい。トイレの洗面台でスマホを見ました」
星乃は黙ってうなずいた。同席している記録係の若い制服警官が忙しなくキーボードを叩く音だけが、狭く無機質な取調室に響いている。
ここまでの証言に、これまで聞かされた話と矛盾するところはない。ヘタに取り繕うことなく、素直に真実を語っているように聞こえた。
だが、問題はこのあとだ。ここから先、証言の曖昧さが一気に増す。
「それ以降のことは、よく覚えていません」
沈黙に耐えきれなくなったのか、津下はすすんで話をした。
「トイレから戻って、しばらく二人でしゃべっていたのは覚えているんです。たぶん、そのままバーで寝ちゃったんだと思います。店を出た記憶がないので。気づいた時にはホテルのベッドの上でした。部屋の内装を見て、ラブホだってすぐにわかりました」
これも先ほどまでの証言と同じだ。バーで酔いつぶれて寝てしまい、目を覚ましたらラブホテルにいた。茅野皓が眠った自分を運んだのだろうと津下は主張するが、果たして。
「本当に目を覚まさなかったんですか?」
型どおり、星乃は厳しく被疑者を追及していく。
「バーで眠ってしまったというのは、のちのちバーのマスターに確認すれば裏が取れると思います。でも、そのあとはどうでしょうね。いくら深く眠り込んでいたからって、被害者に抱きかかえられてホテルへ連れ込まれたとなれば、からだはかなり揺れたはずです。それでも目覚めなかった?」
津下は視線を左右に泳がせながら「はい」と言った。うそをついているというより、それほどまでに泥酔、熟睡してしまったことを恥じているような雰囲気だ。
目覚めなかったということにして、星乃は話を先へ進める。
「そのあとは? 意識を取り戻してからのことを詳しく聞かせてください」
「詳しく……。とにかく頭が痛くて、スッキリした目覚めではなかったです。なんでラブホにいるのか、記憶を遡ろうとしたんですけど、うまく思い出せなくて。そういえばバーで飲んでたんだったよな、と気づいたところで、同じベッドの上で茅野くんが血を流しているのを見つけました。驚いて、それが茅野くんだとわかるまでにもかなり時間がかかって……。上半身が血だらけで、目を開いたまま倒れていたから、死んでいるんだと思ってベッドから逃げるように飛び退きました。震えて動けなくなるくらい怖かったけど、誰か呼ばなくちゃと思って部屋を出ようとしました。けど、出られなくて」
星乃は無言のままうなずく。部屋の中からさえ扉が開かなかったのは、今回の事件の舞台であるラブホテルが通常のホテルとは仕様が異なるせいだ。
多くのラブホテルでは、全室のルームキーをホテルの従業員が管理しており、利用客はフロントのタッチパネルを操作してチェックインし、室内に入ると自動的に鍵がかけられる。ルームキーがないので自由に出入りすることはできず、室内で精算、チェックアウトを済ませることで、はじめて外に出ることが可能になるのだ。
事件発覚時、津下と茅野が入った部屋は未精算の状態だった。津下が部屋から出られなかったのは、料金未払いのためだったのである。
「仕方がないので、内線でホテルの人を呼びました」
「ホテルの人が部屋に来るまではどうしていたんですか?」
「救急車を呼ぼうとして、スマホを探しました。テーブルの上に自分のカバンがあって、でも、肝心のスマホは電池切れで使えなくて。そうこうしているうちにホテルの人が来て、救急車と警察を呼んでくれました」
「なるほど。おっしゃるとおり、一一〇番通報したのはホテルの従業員でした。通報時刻は今朝、午前九時十二分となっていますが、あなたが目を覚ましたのは何時頃?」
「正確にはわかりません。でも、起きてすぐに内線をかけたのは間違いないです」
ということは、彼女が意識を取り戻したのは午前九時前後。バーで酔いつぶれたのが前日の午後十一時頃という話だったので、たっぷり十時間、眠っていたことになる。
誰かが取調室のドアをノックし、細く開けられた扉の向こうから「星乃」と声をかけられた。同じ班の班長で、手招きされた星乃は「失礼します」と津下に断って席を離れた。
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